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ヴォルテール『哲学書簡』による近代科学の定位のこと

フランスの詩人/劇作家であり哲学者・啓蒙思想家もあるヴォルテールが、フランス革命前夜の混迷する自国を栄光華華しいイギリスと対比させて考察する初期の代表作である。

まだ専制統治下にあったフランスで、「イギリスに比べてフランスは遅れすぎ!」というのを正直に、しかも苛烈に言ってしまったもんだから、当時はすぐに禁書になった本書。それでも各国で売れに売れ、大ベストセラーになった。

序盤クエーカー教徒の話ばっかだったから軽く読んでたけど、中盤のデカルト批判やニュートン称賛あたりでエンジンがかかってくる。通読するに至り、これはめちゃくちゃ良いワークだと感嘆する。

こういう、自身が画期的発見をするわけじゃないけど、具体的で実践的な知の系譜を俯瞰してマッピングして、一般市民でもわかるように平易に噛み砕いていく動きは大事だ。それに、他の本を読んでも分かるが、市民の生活の端々にしっとりと織り込まれている文化を、民俗誌的にえぐり出して巨視的な観念と接続させるのがとてもうまい。

それゆえ、この様々な学問的パラダイムが生滅し置き換わった近代の夜明けにあって、思弁的で形而上的な哲学と、経験的で実証主義的な自然科学が徐々に腑分けされていく時代の空気が、手にとるように伝わった。本書にはそれが学者個々人の言説への批判的思考の造形として多く現れているが、それらを交通整理してしっかりと”関係付ける”という仕方によって、具体的な個々の成果の価値を明確化し続けている。

本書には素晴らしい訳者解説が付いていて、そのおかげであまり自分が評することもないので、ついでに幾つか抜粋して終わる。

〈哲学する〉とは、難しいことばを覚えたり使ったりして悦にいることではない。自分の持ちあわせの知性を目いっぱい、はたらかせることである。自分の頭で考え、その考えを自分のことばで表現しようとつとめることである。 ヴォルテールに学んだ人間は、いろんなことに「それはいったい何だ?」と興味をいだく。そして「どうして自分はそれをおもしろいと思ったのだろう?」と問いを深めていく。正解をもとめているのではないが、まちがいは見つけたい。おもしろがりたいのである。
じっさい、ヴォルテールの『哲学書簡』は発禁にされた。それでもベストセラーとなり、版を重ねた。読み物としておもしろいからである。刺激的だからである。そして、ひとびとのあいだで、社会の現実にたいする批判的なまなざしを育み、自分の頭で考えようとする生き方を広げていった。フランス革命が準備されていったのである。
ヴォルテールはけっして自分の考えを体系的に述べようとはしない。意識的・積極的に体系性を避けようとしている。体系こそがひとをダメにする、と考えている。体系をまるで仇のように憎む。 じっさい、あの「 きらめくような豊かな想像力をそなえていた」デカルトでさえ、体系的な精神のせいで輝きを失ったとされる。デカルトは本性において詩人に近く、推論のしかたにおいても、表現のしかたにおいても、つねにきらりと光っていたのに、「 どんな偉大な人間をも視野狭窄 にするあの体系的な精神に導かれていった」ため、鋭さを失った(第十三信および第十四信)。 このように述べるヴォルテールにとって、哲学においていちばん大切なのはきらめきであり、輝きであり、鋭さであった。なるべくひとと異なることであった。それは詩人の資質に似ている。哲学者も詩人も、才能がなければならないし、それよりも何よりもセンスがなければならない。
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