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骨太すぎて噛み切れない超重厚入門書~『メディア文化論』

と、それについての噛み心地の悪い考察。

メディア学こと始め

かの有名なマクルーハン『メディア論』が読みたくて、その前準備として手に取った本書。入門書と銘打たれているのだが、騙されてはいけない。これがしっかりすごい本。

吉見 俊哉(有斐閣アルマ)

メディアの概要・本質理解から今日に至る発展の歴史的経緯・社会的背景に至るまで相当に濃厚で、関連する主要論文もしっかりと引きながら、学問領域としてのその全貌を見せてくれる。それでいて、未定義の専門用語が乱れ飛ぶことは無く、読みにくさもほとんどない。やはり、初学者向けに書かれた「入門書」なのだ。このバランス感はなかなかにすごい。
それもそのはず、この質の高さとバランス感覚は、本書が大学での実際の講義録をベースにして生まれた本であるが故。

入門といって騙されてはいけない。でも、ちゃんとした入門になっている。
繰り返し書いたところで別に上手く伝わるわけでもない、この歯がゆさ。

自身、理解促進のため項ごとにいちいち手元で図解しながらちょっとずつ噛み締めて読んでたら、なんだかんだ読了に半年ぐらいかかってしまった。本書の意味するところを余すこと無く理解し尽くすには、やはり大学での半期1コマの単位取得分ぐらいの気合いは必要ということだ。

実のところ、メディアとは何か

メディアが語られるとき、読み手がまず気づくのは、その扱う範囲の広大さと、社会/文化に及ぼす影響の巨大さである。
文明や科学技術の進歩、社会の動乱の前面に常に立ち現れ、それを牽引し、われわれ人間の在り様すら変えていくように思えるメディア。
新聞、電話、テレビ、ラジオ、スマホ。本書で取り上げられるこれらは、殊更言うまでもなく我々の生き方の一部を形作り、我々の文化に織り込まれて続けている。

さて、その定義に進む段になると、本書の立場もいまいちはっきりしない。あるときは装置であり、やりとりの媒介であり、そしてまた場そのものであり、身体化され人間に固着するものであり。
文化文明の結像点(結果)であると同時に表出点(原因)でもあるこれの、畏敬すら覚えるようなダイナミズムの奥で、しかしそれ自体はあまり明確な像を結ばない。

第1章の第1話「メディアとは何か」の小見出しもこんな具合である。

1.メディアは横断する
2.メディアは媒介する
3.メディアは伝達しない
4.メディアを研究する

本書では、メディアそれ自体の定義よりかは、その概念の変遷やメディア研究を巡る主要な議論の流れの追跡に多くの紙面が割かれている。決して核心的で中心的な定義がなされることは無いながらも、「市民にとってメディアは何だったのか」という問いの周縁から、メディア概念の外郭が読者の前に立ち現れる。

メディアはどう働くか

本書の後半は一転して、個別具体的な各主要メディアの歴史から、その性質や発展、時代に及ぼした影響を紹介していく流れになっている。

歴史を見渡すとき、メディアと文明の距離は常に近い。科学技術の進化が新たなメディアの形態を可能にし、それが各時代におけるメディア文化の端緒を開く。

だからこそ、本書を読んで意外に思った。電話、ラジオ、映画など、今日の形としての代表的なメディアが、近代資本主義の嫡子としていわば"商業的に"産声を上げたことが。そして、それが技術的な生みの親には全く意図も想像もできない形で広まっていったその事実が。

また、その派生型として、後にラジオにつながる無線が一度商業化に失敗して爆死したにも関わらず、世界に広がるアマチュア無線家たちの趣味のネットワークにのってコミュニティ形成を起点に広く普及していった展開は圧巻であった。

これらの歴史を知ると、「インターネットの登場」のように「〇〇の発展により個人がエンパワーされる」といった文脈は、歴史上では既に何周も繰り返されてる使い古された物語であることがわかる。
こういう歴史認識は、今この時代の特別性に対する信仰を解体し、現世世代としての無駄な奢りから自身をある程度解き放つ感覚がある。この気付きは重要であった。

1つ、面白いエピソードがあった。テレビが三種の神器として一般家庭に爆発的に普及していった時代、日本人は「テレビを買った」とは言わず、必ず「テレビが家にやってきた」と言ったらしい。世界的にこの扱いはそうとう珍しく、メディアとしてのテレビの在り方/登場の仕方が他国とはかなり違ったからと本書は言うが、思うに、その地位が我々同様以上の存在者にまで引き上げられたのは、なんらかの物語/ビジョンを見せてくれる”モノ”に特段の敬意と畏怖を感じるアニミズム信仰が深く伏流する日本の国民精神の発露なのではないか。

遠くない未来に、日本人はNetflixに神を見出しているのかもしれない。

現代のメディアと「関係の場」

さて、Twitterは、メディアだろうか。もちろん、メディアである。Slackは。TikTokは。noteは。おそらくは、LINEも、ボケても、みなメディアである。

ゲームはどうだろう。本書の中では1ミリも触れられていないが、思うに、メッセージの送り手(開発者)と受け手(プレイヤー)という構図は当然ゲームでも実現するし、開発者による何らかのプロパガンダ的な文脈を孕んだゲームも沢山あるので、これはメディアになりえよう。

ユーザに一切のゴールとルールが委ねられているものはゲームとは言わない(少なくとも狭義のゲームではない)ので、それらのゴールとルールに何らかメッセージが乗っているもの、ないし直接的なナラティブ手法が織り込まれている類のゲームは、メディア足ると考えられる。
ソーシャルゲーム(死語?)のように、MMOオンゲー内でのやりとりぐらい、ゲーム文脈から離れたコミュニケーションが成立する場であれば、広くメディアと捉えられなくもない気がする。

興味深いのは、本書終盤で読者に問いかけられる「ネットとスマホで無数のパーソナル空間に分断され尽くした世界で、我々はどう生きるか」という問いと逆行するように、現代のメディアを通してバーチャルコミュニティの再評価が現在進行系で進んでいることだ。

メディアの歴史の流れにおいて直接的な「関係の場」の希薄化が顕著であり、共同体概念は終焉を迎えつつあるという大局観に本書は基づいている。
しかし、現代において勃興し続けるニューメディアに付帯する新しい公共は、詰まる所、人には一定程度の共同体が必要で、帰属意識や共感覚なしのやりとりの場は持ちえないということを端的に表しているのではないだろうか。重厚だった入門をくぐったばかりの自分には、多少なりそう思えてしまう。

社会の学としてのメディア学

冒頭に戻る。メディアとは。かくも多面的で流転的な”やりとり”と”意味”と”場”の相のもとに、メディア学は本当に可能なのだろうか。

いや。社会が人間の集合であり、文化/イデオロギー/その他あらゆるコミュニケーションの絡まりである以上、「社会(科)学は果たして可能か」とも換言できる。使い古され、とっくの昔に超克された問いでもあるが、本書を読んで改めて、社会の中で働く”コミュニケーションの媒体”の捉え難さ、その複雑さの前にちょっとだけ立ちすくんでしまった。

これだけの学問的考察を重ねた(何しろ1専攻として成立するぐらいである)ものを概観した上で分かること、それは、人間存在にとって「コミュニケーションをする」ことのア・プリオリ性であり、むしろ、メディア研究を介して見えてくるものはそれだけでしかないようにさえ思えてくる。

資本主義というドライバーがあったとはいえ、メディアが起こるその境界には、常に消費者/ヒトの対話ニーズがあった。絶えざる送受信とそれらの意味の調停の場が、世界の必然として立ち現れること。それだけが、多様な生成の形の中で揺らがないものでありそうだ。

メディアとは、”文明の彼方より到来せし物体X”的なものでは全くなく、我々人間存在の深く根底に打ち込まれた楔であり、その文明的な表出であるとする見方はありそうだ。メディアの歴史を俯瞰する中で、このことがクリアになってくる。

メディアとしての言語・空気のこと

この視点から眺めると、本書のスコープには(おそらくメディア「文化/文明」学であるがゆえに)入っていなかったものがある。

第一義的に、言語そのものがメディアであり、書記体系もメディアであるという点だ。書記体系とほぼ同時に発明された紙から、さらに1,000年ぐらいを経て、活版印刷の発明に至る辺りより以降が本書の守備範囲であるが、よりプリミティブな形態としてメディアがその下地として存在していると考えるのが妥当だろう。そこを最初の足場として、社会学は可能なのかもしれないし、認識論からの流れではなく、社会の学としての言語学あたりにも既に面白い議論が存在しているかもしれない。

また、より敷衍すると、例えば日本人にとって特段重要な「空気」も主要なメディアと捉えられそうである。これは1つ面白いテーマではないだろうか。山本七平が『「空気」の研究』でしたたかに指摘するように、場の空気の臨在感的把握により、我々の世界は変容し、なんなら物理的な現実すら書き換わる。

今後は、”その場がどういう空気に支配されているか”、"各人がいかなる外在的な文脈を帯びているか"とかも、テクノロジーの進歩によって可視化や相互伝達が進んでいくだろう。

打ち合わせとかでARグラスかけると各人のコンテキストが表示されてたりすると便利だけど、まずはイデオロギー天気予報みたいな感じから始まるのかも。
「今月末にかけて、関東各地において過剰なナショナリズム被爆警報が出ています。」みたいな。
しょぼいSFモノにありそうなプロットだが、そのへんまでいくとエスノメソドロジー的分析が可能な土台が出来るし、空気の社会学が開けるだろう。

AIのおかげで自然言語/発話の感情判定はそろそろ出来そうだし、50年後ぐらいには出来るのではないか。誰かにやってほしい。

また、言葉がメディアであるなら、ヒト以外の動物もメディア空間に取り囲まれていることになるかもしれない。そもそも動物同士の交信に「意味」が付帯するかは微妙であるし、浅学ゆえ哲学界隈でのこの辺の議論を知らないが、この辺りもすでに相当話されていそうなテーマだろう。そういえば伊勢田哲治『動物からの倫理学』が積読山に積んであったな。

まとめ(じゃないけど)

ともかく、本書は全体としてすごく濃く、入門書にしてはオーバースペックな良書であり、メディアについて本気で学びたい人にとって、そのニーズを十全に満たしてくれるものであろう。

なにより、「メディアとは何か」というシンプルな問いへの答えを知ろうと本書のページを繰り続けた末に、読む前より一層その実態がつかめなくなったのだ。これはつまり、メディア学の門をしっかりくぐれた証左だと、初学者ながら勝手にセルフ承認したいのである。

なんにしろ、これでやっとマクルーハンに進める。

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