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意識の深淵~『タコの心身問題』

副題『頭足類から考える意識の起源』

哲学者である著者が、興味が高じてタコの生態の研究に打ち込み、そこからヒトの意識に迫るという本。

タコの神秘に満ちた生態や、意外と知らなかったカンブリア紀周辺の生物の進化の歴史が知れて面白かったが、肝心の人間の意識の謎に迫る部分はわりとあっさりしてて拍子抜けした。

要点は以下3つ。

①タコは脊椎動物以外で唯一巨大なニューロン群を持ち、高度な判断能力を有している。社会性や知的好奇心をも持っていそうという研究報告も近年増えてきている。

②脊柱動物と比べ、彼らの神経系は脳に集中しておらず、その少なくない部分が手足に分散して存在している。故に彼らの手足も自律的な情報処理/行動を行い、さらに嗅覚や味覚も持っていると思われる。脳はそれら各々の調整役として働くが、時には必要に応じて手足が脳に一元管理を委ねたりもする。

③このような、明らかに人間と異なるタコの神経伝達に、意識や主観的経験と言われるものは生じているのか。そして、彼らの「知性」とはどのような在り方でありうるか。少なくとも、彼らは人間以外で唯一”社会性”や”知的好奇心”を持った動物である可能性があるとの研究結果が増えてきている。彼らが見る世界は人間とは全く様相を異にするものだろうが、それでも「意識」や「知性」の謎に迫るための大きなヒントが、そこには隠されている。

・・・という感じで、細かく関連論文を引きつつ、他の生物種における知性の事例も多く引き合いに出してくれており、とても面白い論点がたくさん出てきた。

本書が言うように手や足が独立して出来事を知覚・経験するのであれば、これまで伝統的に<客体>や<他者>と対置されて捉えられてきた<自己>や<主体>といった概念は、突然揺れ動かされ、窮地に陥ることになる。「認識」という行為の様式やその諸相についての過去の体系化と議論も、大きく修正を強いられるのではないか。

カントは、人間に特有の経験・認識様式が現象界(の限界)を規定するとして、近代に至る人間理解全体にとてつもない衝撃を与えた(コペルニクス的転回)。しかし、ここで認識の主体となるのは、人間の脳だ。

上記の議論を自然科学的に敷衍し、人間以外の生物も主体になりうる可能性を『生物から見た世界』(これめっちゃ面白いのでまた今度記事にする)において探ったのがドイツの生物学者・哲学者ユクスキュルであり、彼はその「環世界」論の中で、生物それぞれがその特有の知覚-作用系を以て世界の形を認識し、それぞれ全く異なる”世界”に住んでいることを説いた。しかし、ここでもまた、世界を構成するのは、ある一つの認識主体 ―統合された判断主体たる生物の脳(というと厳密には語弊があるけど)―であった。

その後、知覚と感覚を頼りに世界を構成しようと試みたカルナップの哲学なんかもふくめ、1つの生物における知覚と経験の主体は中央の1つという前提は守られていたし、特権的な情報処理機構たる脳によってなされる経験・認識とそれが生み出す時空間認識が前提とされていた。

そして今日、本書が様々な例とともに示すように、目も高度な情報処理機能も持たない足や手の知覚が脳の特権を脅かし、生物における<自己>は粉々に砕け散る。

ここに至り、何が、どう世界を感覚し、意味を作り出し、他者と交信するのか、我々は分からなくなってしまった。そもそも、タコにとって、自分の足は<自分>と言えるのか。我々の「経験」にまつわる知識は、18世紀のイギリス経験論における「観念の束概念」にまで引き戻され、再検討を余儀なくされるのかもしれない。


本書においては、③の着地がやや尻すぼみで、独自の仮説提示や知性の定義の提案なども無かったので、この大いなる謎の全体も、まるっと読者に引き渡される。受けたバトンは仕方ないので、今後自分でテツガクすることとする。

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