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"ロジカル"をやめてみる~論理的思考の陥穽とエートス的思考について

「なんでそう言えるの?」

「もっと論理的に考えなきゃ」

新人の頃、仕事をしているとよく上司からそんなことを言われた。

最初のころは、鋭いツッコミに対して上手く説明ができずにあたふたすることが多かった。ちゃんと考えられるようになりたくて、思考法に関する本とかアイディア発想に関する本とかを、それこそ100冊以上読み漁ってきた。

そうして手に入れたたくさんの”考える枠組み”を使って、いろんなものごとを整理して、どんどん型にはめていく。ロジックツリーを書いてみたり、ダイアグラムを書いてみたり。やれイシューアナリシスだ、やれ仮説思考だと、色々やって過ごしていた記憶がある。

いつしか、

「そうですね~、a,b,cの理由からAという仮説を持っていて、A'で検証できると思ってます。で、打ち手はa',b'の2つの評価軸で見ると、A''とB''になるんじゃないかなって」

と、ものすごい早口でまくしたてられるようになった。

目指していた理想の自分に、一歩近づいた。じっさい、わりと多くの問題はそういうやりかたで解決できるもんで、仕事がそれなりにうまくいくことは多かった。うまくいくと、そういう方法論にもっともっと傾倒していく。良いとされる手順をちゃんとたどっていけば、誰だって、なんだってできると思っていた時代だった。

でも、大きな仕事をすることが多くなってくると、「なんでそう言えるの?」と聞かれることが少なくなった。代わりに、「なにをするの?」と自分で自分に問いかけなきゃいけないことが多くなる。与えられた問題を解くのでなくて、自分が問題を作る。もしくは、”正しい根拠”ではなく、やる意義やビジョン、想いとかが大事になってきた。

「なぜ客観的にそう言えるか」ではなく、「なぜ自分にはそう思えるか」が、中心になった。

最初の問いを発すること、たった一文のコンセプトを作ること、あるいは、希望を語ること。

そういったものは、実のところ論理的思考とほとんど関係がなかった。直観や感覚、自分の中からにじみ出てくる方向性とか違和感とかをこそ、大切にするようになった。

畢竟、”問題解決のフレームワーク”みたいなのに頼ることがどんどん少なくなる。システマティックなアイディア発想法も然りだ。

会社を離れても、やることが変わっても、それは変わらなかった。昔とくらべて、体系立てて論理的に考えるのでなく、天衣無縫にふわふわと思いを巡らせることが多くなった。自分の感覚とか、無意識的な心の動きとかを観察して、それに従ってみることが多くなった。目の前にある1000のロジックよりも、1つの心の声の方を信頼してみる。そして、そういうのが案外いい結果を生むということがわかってきた。


エートス(ethos)という言葉がある。古くは古代ギリシャのアリストテレスが用いた言葉で、道徳的行為に結びつく習慣・特性といった意味を持っていた。今ではそれが転じて、ある集団のなかに蓄積する慣習や行為の様式といった定義になっている。

集団的な叡智は、馬鹿にできない。われわれが暮らす社会が、大局においては歴史からよく学び、数千年のスケールにおいては滅亡の危機をうまく避けながら前進してこれたのは、過去の失敗の数々から少しずつ集団として学ぶことができたからだ。なぜこんな習慣や作法があるんだろう?と首をかしげるようなものでも、実はその環境下での生き残りにとって欠かせない理由があったりすることも多い。

重要なのは、そうした慣習がなぜ存在し、どういうふうに社会のなかで具体的に作用しているかが、論理的に説明できないことが多いということだ。現実世界はあまりに複雑で、あまりに多くの変数を持っているので、われわれが使う程度の言葉と論理では因果関係が捉えきれないのだ。その説明不可能性にも関わらず、そうした集団のエートスは十全に効果を発揮し、時を越えて受け継がれる。

社会のような大きなものだけでなく、個人の頭と体の内側でも、そうした学習は常に起こっている。自分ですら気づいていない細かい癖、ものごとを受け取ったときの感じ方や考え方の傾向などなど。必要がない傾向性もあるけど、理由があってそうなっているものは自分で思っている以上にたくさんある。

社会がエートスを受け継いでいく場合、人と人とが分かり合ってうまく学んでいくには、言葉という媒介物が絶対に必要になる。「以心伝心」と言われる状態もあるけど、本当にそれが以心伝心になっているかを確かめる唯一の評価尺度として、やっぱりどこかでは言葉というフィルターを通過する必要がある。でも、自分の中だけの学びに、言葉はいらない。微妙なニュアンス、微妙な感情、「こういう感じ」というまさにその”感じ”は、言語化しなくても、自分になら伝わる。意識的に言語化することで初めて明らかになってくるような観念もあるけど、言葉は常に現実の複雑さやダイナミックさを矮小化してしまうという誤謬をはらんでいる。

そうした「論理」や「因果性」「言葉」から解き放たれた感覚に素直に耳を傾け、それらを信じてついていってみることは、論理的思考にガッチガチに縛られるよりも遥かに豊かで律動的で、思ってもいなかった場所に自分を連れて行ってくれる行為なのだ。


「思うがままに生きよう」みたいな話ではない。アース、ミュージック&エコロジー、みたいな話でもない。

論理的思考がまったくの無用の長物かというと、当然そんなことはない。たとえば、自分の考えを人に説明するときには、論理的にバシッと整理することもある。ロジカルシンキングには、「分かりやすさ」という大きな効能があるので、伝えたいと思っている意味内容を効率的に、誤解なく伝達するためには結構役に立つ。それ以前に、「因果性」なしには、人は何かを考えることもままならない。それは意識のア・プリオリな”形式”であって、避けようと思ってもそうした枠組みからは人は逃れられない。

そうでなく、自分の内なる声に耳を傾け、自分が日々生きてきて、たくさん貯めてきた経験の積み重ね、「自分の歴史」に対する”信頼”を、ものごとを考える中心に据えてもいいんじゃないか。そのほうが、物事がうまくいくようになるんじゃないか。今の自分は、そっちにこそ多く信を置いている。

なにか変だという感覚を持ったら、まずはその感覚からスタートする。その警告が自分の中から発せられたという事実と、それがどんな感じかをすくい取ろうとしてみる。

論理はそれ自体冷たく、単なる反復でしかない。そうでなく、自分の生きた歴史に従って、自分の生の内側から考える”エートス的思考”を、ここに提唱してみたい。

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