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「現在」と「連続性」の崩壊~『時間は存在しない』概説【前篇-2】

― 第一部 時間の崩壊 (2/2)―

前回記事に続いて、今回で本書第一部が完結する。

場の理論

前記事で見てきたいくつかの性質により、時間はあらゆる状態で均一なものではない。そして実は、空間にも同様のことがいえる。空間もまた、われわれが日常的な感覚で捉えているようなものではなく、様々な状況に応じて伸縮する性質を持つ。

これらの時空の歪みは、物理学では「重力」として捉えられ、その基本的性質は重力場という場において記述される。この「場」という概念は観念的なものというよりは実在性を帯びたもので、例えば日常生活において馴染みがあるものとして電磁場がある。そこらへんにあるモノに電気の力(引き合う力)や磁力の力がごく普通に働いており、それらの作用の場は電磁気学において「マクスウェルの方程式」で定式化されている。

同様に、時空間の働きとその歪みも、アインシュタインが発見した一般相対性理論に基づいて重力場において記述される。そして、それらの場同士も互いに影響しあいながら、この物理的世界を動かしている。

世界はキャンバスの上に描かれた絵ではなく、キャンバスや層が重ね合わされたもので、重力場もそれらの層の一つなのである。
しなやかで、伸びたり、ほかのものとぶつかったり、押したり引いたりする。物理学の方程式は、すべての場が互いに及ぼし合う影響を記述する。そして時空も、そのような場の一つなのだ。

「現在」の消失

こうした重力の場の振る舞いを前提としたとき、異常としか言いようのない事実が、我々の眼前に横たわることになる。

本書での例示に沿って書いていく。遠く離れたプロキシマ・ケンタウリbという惑星に、自分の姉が渡航していったとする。地球にいる自分がこう問われる。

「お姉さんは今、プロキシマ・ケンタウリbで何をしていますか。」 

著者が言うには、「その質問には意味がない」
ちょうどヴェネツィアにいながら、「ここ、北京には何がありますか」と尋ねられるのと同様に、その質問は意味を成さないというのだ。

姉が何をしているかを見聞きする場合、プロキシマ・ケンタウリbから情報が届くのに早くとも4年かかるので、いま手元に届いた情報は4年前のものである。それであれば、地球で今届いた情報からちょうど4年が過ぎたときに姉がやっていた事が、「いま姉がやっていたこと」に当たりそうである。しかし、質問の直後に、姉がプロキシマ・ケンタウリbから地球に向けて飛び立った場合、自体は複雑になる。姉にとって4年が経過したとき、姉は地球に帰還しているが、その時に(姉の速さによる時間遅延の影響で)地球時間では10年経っているかもしれない。

つまり、地球から見て4年前の過去は分かるし、姉が帰還した4年後の未来も分かるが、実際に往来した姉にとっての「現在」は、地球から見聞きしたいかなる情報とも対応しない。

ここから帰結するのは、実は「現在」は、確実な「過去」と確実な「未来」に挟まれた合間としてしか存在しないもので、その合間にあるものについて、決定的な仕方で何かを語ることができないということだ。

我々は、ただ単に無視できるレベルでの距離と速度で暮らしていることにより、全世界で同時に時が流れると感じているだけなのである。ここにおいて、「現在」という虚構は崩壊する。

わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。
では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。...そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。

泡という例えは、ドイツの哲学者/生物学者ユクスキュルの「環世界論」を思い出させる。

『生物から見た世界』において、一人ひとりの人間を取り囲むシャボン玉が可視化される。

みずからにこの事実をしっかり突きつけてみてはじめてわれわれは、われわれの世界にも一人一人を包みこんでいるシャボン玉があることを認識する。...主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただこの言い古された 譬え話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。
-ユクスキュル『生物から見た世界』

この箇所では、ことさら人間の視界の限界と、限界点以遠のハリボテ画像化が意識されている。カントの理性批判とそれに連なる環世界論は、人間がその感覚器によって縛られている先経験的な世界認識の限界をあらわにしたが、現代物理学上の最大の発見により、時間そのものの普遍的なあり方すら、我々とともに個人のシャボン玉の内側に引きつけられることになる

時間の機序と揺れる円錐

このような、今この瞬間といえる現在が存在しない時間の機序は、家系図における親子関係に分かりやすく例えられている。親からどんどん枝分かれした子孫は、上下の順序関係だけは保ったままで、それぞれ更に異なるタイミングでどんどん枝分かれしていく。枝ごとに分かれていく早さが異なるため、どこかの時点において、「今は最初の親から数えて第何世代目だろうか」という問いは意味をなさない。家系図においてはありえないが、時間においては一度分かれた枝が合流することがあり、その時点でのみ、各人にとっての現在があらためて一致することになる。

ゆえに、時間はしばしば、未来に向かって枝が広がっていく円錐として表現される。と同時に、今この時点は、過去の無数の枝が現在に交わった点とも言えるので、今を頂点にした逆円錐でもある(前記事で触れた「過去と未来の対称性」からも、これが言えるかもしれない)。過去から未来への時間の流れは、現在を砂時計の中心に置くような2重の円錐で図示される。もっとも、上記の説明は、本書内の豊富な図解を見てもらうのが圧倒的にわかりやすいのだが。

時間の円錐が無数に存在し、重力場の影響を受けてバラバラに揺れながら、更に大きな質量によって傾いたりしてもいるのが、時間の様相の、できる限りの概念的把握なのだ。

時間を巡る思考

時間は絶対的な尺度ではなく、出来事の系列である。

実は、時間をこのように捉えた最初の人は、およそ2,500年前を生きたアリストテレスであったと、著者は解説する。アリストテレス(色んな記事で触れているが、人類史上突出した天才である)は、著書『自然学』において、まず空間を事物の関係であると捉え、ある事物の場所とは「それを囲んでいるもののことである」と定義する。ここにおいて、ニュートンが唱える絶対座標と鋭く対立する、相対的な場所概念が生まれる。アリストテレスにおいては、時間も、空間における事物の移動と紐付けて捉えられ、出来事の順番としてしか存しえないとされる。その後の物理学史上において、およそ2,000年後のニュートンの絶対時空間説の方が優位に立ったと思われたが、本記事でさまざま触れてきた事情は、それを打ち消した。

ここに、アリストテレスとニュートンの時空間を対置し、それを昇華したところにアインシュタインを位置づける、3,000年に及ぶ壮大な弁証法を著者は描き出す。重力場(時空間の作用の場)は実在するという点でニュートンはあっていたが、それらは絶対的なものではなく、世界の他の物事と関係し合いながら存在している。時間をめぐる人類の思惟の系譜をこうした形で掘り返し、描写することの価値は言い尽くせず、ゆえに本書は単なる科学書を超えた稀有な存在となる。

本書では触れられていないが、アリストテレスを見出すまでもなく、より実際的な形で行われた時空間を巡る議論として、17世紀の天才ライプニッツとクラーク(のバックにいたニュートン)による「ライプニッツ=クラーク論争」が有名である。アリストテレス同様、ものごとの関係と差異の中に世界の本質を見た彼は、ニュートンを激しく批判する書簡の中で、”単なる座標のみの違い”が個物の均質化を生む時空間の絶対性を「観念的な可能性に過ぎない」として退け、個体ごとのありありとした違いが全宇宙に展開する壮麗なモナド論の世界を立ち上げた(『モナドロジー』)。

そして、アインシュタイン以降の哲学もまた、当然ながらこの時間観と疎遠ではいられなかった。円錐形の時間の概念もまた当然のように哲学の世界に大きく影響を与えた。例えばベルクソンは、同時代のアインシュタインの相対性理論を批判しつつも、著書『物質と記憶』において円錐形の図を挙げ、内的質的な時間観に基づく独自の「生命の哲学」を展開した。また、イギリスの哲学者ホワイトヘッドも、こうした概念を踏まえて、時間的な連続性と非連続性から世界が生成・展開していくプロセスを描き出した。

量子力学の登場-時間の粒子性と非連続性

本書に戻ろう。

本記事でこれまで触れてきた重力場の理論をベースにした時間の謎の解明は、その発見からほぼ時を待たずして、再度新たに問い直されることになる。量子力学の登場である。

量子力学は、物理的な変数が粒状であること(粒状性)〔ゆらぎや重ね合わせにより〕 不確定であること(不確定性)ほかとの関係に依存すること(関係性)、この三つの基本的な発見をもたらした。そしてこの三つの発見の一つひとつが、わたしたちの時間の概念の残滓をさらに破壊する。

いまだ破壊されていない残滓が存在したのかと呆れるほどに、「もうやめて!とっくに読者のライフはゼロよ!」状態なのだけど、しかしこの事実もまた、時間に関する驚異的な帰結をもたらすことになる。

物理的な変数は、 ―換言すると、世の中の事物はその基本的な性質として― 上記の量子的性格を持つ。アインシュタインが気づいたように、時間もまた実在なれば、その軛を逃れることはできない。

時間が量子的性格を持つとは、どのようなことだろう。

まず、時間は、粒状である。もっともミクロな視点で見ると、時間は連続していないらしいのである。

時間には最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。もっとも基本的な意味での「時」すら存在しないのだ。 連続性は、きわめて微細な粒子である対象物をなぞるための数学的技法でしかなかった。

そしてゆらぎ、重ね合わされる。過去と未来が重なりあい、その区別はおぼろげになる。「ある出来事がほかの出来事の前でありながら後でもありうる」。そしてそれらの状態がわれわれにとって決定するのは、他の量と相互作用したときに限り、それ以外においては具体的ですらない。

このことが何を意味するか、この時間の振る舞いについて、脳内でどう明瞭な像を結べば自分にとって把握しやすい形で受け取れるのか、この時点ですでにわからない。

本書において、ブラックホールの巨大な質量ゆえにその周囲では時間がとても遅くなり、ついに「事象の地平線」と呼ばれるその縁で時間が止まってしまうことが紹介されているが、われわれが時間の正体に近づくにつれ、言語の限界もまた、「言語の地平線」とでもいうがごとく近づいてくるように感じる。時間へのチャレンジは、また同時に、我々人間の認識様式へのチャレンジでもあるのかもしれない。

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前編終わり!皆さんへの紹介したさゆえ、ノリでガチ解説始めちゃったけど、この粒度で書くのめちゃくちゃ大変や。。。死にそう。。次はいよいよ中編~~


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