見出し画像

つながりきれない社会の中で~デモステネス『弁論集 6』

先日の記事で、本書の面白さについておおいに語った。

本稿では主に、弁論集第6巻で扱われる具体的な裁判記録を手引きとして、当時の法体系とそれを支える思想、そこから垣間見える古代ギリシアの価値観について、具体的に触れていきたい。


2,000年以上前の文化と現代の文化の間に横たわる大きな断絶と比べると、両者の法制度の間にある共通点の多さがよほど目を引く。上の記事で書いたのは、そうした側面だった。

しかし、裁判記録から表層的に読み取れるトラブルや法の内容の共通性・類似性は、その奥に広がる彼らの精神世界と現代の我々の精神との共通性を、そのまま意味するわけではない。

社会のあり方に応じて必要な法制度や執行体制は当然に異なってくるが、そこに伏流する思想の違いはより一層顕著である。そうした差異を中心に、以下に拾っていこうと思う。

古代ギリシアの法源

まず、法律という規定がどのような意味を持つか、これが当時と現代では大きく異なっていた。

現代の日本法でいうなら、日本国憲法をはじめとする六法(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)の各種制定法が中心をなす。これらの法に国民が従うべきものとしての実効的拘束力があるのは、それが国家に基礎づけられた国家法であり、対象者が日本国民であるからだ。国民として登録されていること。第一義的には、法はその事実に依拠する。

他方、古代ギリシア世界では、そういった形式的な所属概念を超えて、一層深淵なものへの帰属と信奉が、法を現に存在するものとしていた。何よりも大きな役割を果たしていたのは、ギリシア神話である。

ゼウスは、それらの総支配者として全知全能の守護神であった。ここに、素朴だが生命力あふれる力強い宇宙哲学と、その一部として秩序の哲学すなわち法思想が潜んでいた。
...各ポリスは、もともとは部族の祖先神を守護神としてアクロポリスにまつりこれを中心に発達した都市国家であった。その秩序は、神の秩序と信じられた慣習(ノモス) によっていたが、政治権力が次第に強力となり貴族がこれを支配し平民がこれに反撥し、その争いの間にドラコンやソロンの名によって知られるように成文の立法もなされた
―千葉正士, 『世界の法思想入門』, kindle位置No. 487

本弁論集においても、弁論者が裁判員の前で宣誓を誓う場面の多くでゼウスの名が持ち出され、また同時に、実在した立法者ソロンも(ある種神格化された形で)たびたびその名が呼ばれている。

法律文として書かれたテクストそのものが法源(=法律の実行力の根拠)であるような現代の各国成文法の体系とは異なり、特にギリシア神話の訓話的性格に基礎を持つような、人々の日常のうちに強く反映された道徳意識でもある慣習法が、当時の直接的な法源であったことが見て取れる。

「法律に基づく統治」という立憲主義的な理念を持たない古代の共同体にあっては、法そのものへの服従ではなく、神の前での誠実が当然のこととして捉えられ、法律遵守の意識につながっていた。義務でなく真理と善が、人々の行動原理のうちに確かに反映されていた

西洋の長い歴史の大半において、法は神の名のもとに遂行されるものであったことを、ここで思い出さなければならない。近代法の世界標準となった西洋法制度のいしずえは、ここギリシアに存していた。

血縁集団と、境界線の攻防

法が定める具体的な内容に入ろう。

彼らの法が規定するのは、なによりもまず家族についての事柄であったようだ。具体的には、婚姻制度や血族の範囲の取り決め、そして相続にまつわる取り決めである。

弁論者の口を借り、被告は遺産目当てで家族の中に無理やり入り込んだのだと、親戚が激しく糾弾する。
自分に遺産の分配権が正しく与えられていないのだと、あの遺言書は怪しいのだと、残された子孫が懇願する。

これらの争いの中で見えてくる、当時としては先進的な、ウチとソトの区別にまつわる細かな定義と運用。しかしそれがあってなお、ウチに入ろうとする執念があり、よそ者を嫌悪し排除せんとする圧力がある。両者のぶつかり合う線上に、負のエネルギーが噴出する。

特徴的なのは、緩やかで擬制的な血縁関係だ。男系家族による強力な家父長制が敷かれる強固な集団がイメージされる一方で、血縁関係が厳密には証明できない事情が汲まれ、緩やかな血族の繋がりが制度化されていたらしい。

プラートリアーおよび区民登録
プラートリアーとは、擬似的な血縁集団。公式の出生記録など無かったアテナイでは、親が所属する、この擬似的な血縁集団に子を入籍させて、成員からの承認を得ることが、ある種の出生証明や身元保証のような役割を担っていた。通常、息子が生まれると、まずは幼少時にプラートリアーに紹介し、その後、子供が一六歳のときに改めて正式に入籍させることになっていた。
―p. 552

逆に言えば、血で繋がっている事が証明可能な”本当の家族”という観念は、行政システムと科学技術の産物でもあるということか。

こうした血縁集団や、それを一回り大きくした行政単位のデーモス(区)への所属は、特にアテナイのような民主制国家では大きなメリットを持っていたに違いない。それゆえに、ウチとソトの境界を保ち、線上の攻防を裁定する法と制度が生まれてきた。

本弁論集においてもうかがい知ることができるような、私的仲裁の領域の非常な発達は、その文明の原初性ではなく、むしろ社会集団としての洗練を物語っていると言えるだろう。

民主政と市民の義務

上記のような擬制的で規模の大きな共同体は、緩やかに”公”の領域へと続いている。当時のギリシアでは、血族集団や区の単位よりも大きな社会的共同体が、市民の手により直接的に運営されていた。前記事でも述べたような、歴史上まれに見るレベルでの民主政の実践局面である。

10歳以上の市民全員が、今で言う国会の審議に出席する権利と発言権、投票権を持ち、年に40回以上に登る民会に実際に参加していた。

必然として、その実践の難しさにつきまとう多くの問題が、制度的に処理されなければならなかった。本書にも、市民権や公共的なグループの権利・義務に関するトラブルが幾つも収録されている。前述の家族の話と同様に権利の区分についての主義主張が多いのだが、その公共性の高さゆえに問題となる点が多く現れてくる

例えば、被告が富裕者階級の納税義務を逃れて財産隠しをしていることを糾弾される話は面白い。コトが社会の利害の話に及ぶと自然と弁論にも熱が入るようで、「こんなに自分勝手な行動を取れるなんて、アイツは人の面の皮をかぶった化け物だ!」みたいな罵詈雑言がどんどん出てくる。それにしたって、熟練のソフィストによる弁舌なめらかな表現でなされるのだから、絶妙なバランス感が保たれている。

今も昔も金の亡者みたいな人は多くいるのが世の理だろうが、アテナイの政治においては、富裕者の法令遵守意識は実際とても重要だったようだ。

納税のためのシュンモリアー(納税分担班)制度は、前三五八/五七年以降、アテナイの最富裕者一二〇〇人が二○班に分かれて、三段櫂船奉仕を負担することを定めるものであったが、前三四〇年頃デモステネスによって改革された制度は、各班からの最富裕者一五人計三○○人(「三百人」と通称)に割り当て金方式で海軍経費を分担させた。
―p. 29

累進課税はまだない。もっと極端に、富裕者が国家財政の大半を直接支える構図があった。他にも、現代ではなかなか見られないような相互扶助の仕組みが幾つもあったようで、本書ではエラノスという共同出資制度も紹介されている。

エラノス(無利子融資)
ホメロスにおいては、参加者が食事を持ち寄って開く会食を指していたが、やがてこの初期の意味は失われ、前五世紀後半のアテナイでは、複数の人間が共同で出資し、無利子で融資をするような金銭の貸付を「エラノス」と呼ぶようになっていた。
―p. 556

使途を詳しく追ってみると、以下の雑誌論文に記載がある。

ミレットによれば古典期アテナイの市民たちの経済的ネットワークは相互扶助と互酬によって構成されていた。親族内部の貸借が一般的互酬性によって期限を特に定めず契約も交わさずに長期的展望のもとに交わされたのみならず、市民間の貸借は無利子が前提であり、とりわけ捕囚・難破等の非常時にあっては無利子・無期限のエラノス貸付が発動された。これは市民間の互酬性の発露とみなされ、これに貢献することが富裕市民の義務であったというのである。市民相互のあいだの貸借とは対照的に、商業上の貸し付けは高利であった。
―栗原麻子(2012). 古典期アテナイにおける互酬的秩序 パブリック・ヒストリー, 9, 6

血縁集団のみならず、市民たちが相互に支え合いリスクヘッジの編み目を張り巡らせる生活の知恵が、紀元前400年にはすでに存在しているのだ。

こうして、トラブル百出のなかでもそれぞれの市民的義務を果たすべく相互に監視・牽制し合うアテナイ人たちの姿が、朧げに浮かび上がってくる。本書から直接読み取れるのは、まずもって時代を経ても変わらない人間の富に対する汚さと利己主義ではあるのだけど、そんな負の側面を差し置いて、こうしたシステムがなんとか回っていることに、素直に驚きを覚える。

公共世界が育むつながり

もう一つ、私訴と公訴の使い分けも興味深い。

私訴は当事者同士が直接争う訴訟で、公訴は国家の利害に関わる訴訟として誰でも提訴が可能である。デモステネス弁論集もこの区分に従って、既刊6巻のうち本書と第5巻は私訴を扱い、1-4巻は公訴弁論を扱っている。

そしてこれ、どちらで提訴するかの選択が原告に委ねられていたらしいのだ。事案の性質だけでなく個人的判断も加味されるゆえ、複雑な問題も生じる。

3 公訴の場合、いわば国家の法秩序が害されたと見なされて、加害者である被告が支払う罰金は、国庫に納められた。それに対して私訴の場合には、被告に科される賠償金は、じっさいの被害者である原告に支払われた。したがって、加害者の処罰だけでは満足できず、経済的補償をも欲する場合には、私訴を提起した方が被害者には得だった。
―p. 683

現代的な感覚でいえば、このようなねじれの関係や個人主義的な選択の許容はシステムの不整合以外のなんでもない。ただ、公の利害にあたるか否かを市民個人が判別し、自らの私的利害と比較考量しながら行動選択をしていくような社会は、とても調和的な社会ではないだろうか。その制度的未発達よりも、高度な市民的規範が求められる社会性の高い共同体のあり様を、筆者は読み取った。


***

全体として制度の穴を突いた悪意に満ち満ちたエピソード満載の本書ではある。

そうではあるのだが、その端々から透けて見えるのは、”市民的”な個人同士が、様々な遠近と深度を持つ紐帯を押し引きしながら暮らす、社会性の高い共同体であるのではないか。再三述べてきたように、法制度に埋め込まれている思想がそうした市民間の互恵性を下支えしていることを発見するのは、たやすいだろう。


現代の我々が享受しているたぐいの個人的で無規定的な自由は、そこにはなかったかもしれない。村社会として敬遠すらされるそこに、一方で、人類社会の模範を見出してたくなるところがある。人と人とが相互に相手を慮り、つながりや全体を意識しながら問題を処理し、より善い共同体的日常を目指して生きる生活が、たしかにあったのである。

悠久の大海に抱かれたオリエント世界で身を寄せ合って生きたギリシア人たちの、法廷での叫びの記録の一字一句に、法の深源とともに人の集まりとしての”社会”の深源が、色鮮やかに息づいている

関連記事

社会は作られる、ということ。

それでも哲学者の見方は異なっていた。理念としての哲人国家と見比べる。




頂いたサポートは、今後紹介する本の購入代金と、記事作成のやる気のガソリンとして使わせていただきます。