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【素人解説#1】ベルクソン~"生命の跳躍"を讃える端麗な実在論

新しく哲学者解説のマガジンをはじめました!趣旨は↓にまとめています。

記念すべき1記事目は、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)についてです。

ベルクソンは、他に類を見ない、壮大で美しい生命の展開を捉えたオリジナリティあふれる”生の哲学”を打ち立てました。時間と空間、意識と物質、心と体、宇宙の生成から社会道徳の発生まで、幅広い領域で思索を巡らせたベルクソンは、同時に非常な名文家でもありました。哲学者としては過去たった3人(他にはオイケン、ラッセル)しかいないノーベル賞受賞者であり、名実ともにスター哲学者である彼は、しかしその独特で霊妙すぎる思想ゆえ、哲学史においてはしばしば影が薄い存在でもあります。本記事では、その流麗で捉えがたい思想の全体に、少しだけ接近してゆきます。

質的な時間-その「純粋持続」性

ベルクソンを語る上でもっともキモになる概念は「時間」です。

古代のむかしから、「時間」や「空間」といった概念は、哲学上の難問として様々な人によって探求されてきました。「時間・空間は実際に存在するのか?あるとすれば、どのようにして存在するのか?」が、つねに問われていました。

ベルクソンの生きた1世紀ほど前の時代、科学界ではニュートン、哲学界ではカントという、それぞれの分野で最も偉大な知性が登場し、それぞれ別の仕方で、量的で画一的な時間と空間を打ち立てました。すなわち、時間も空間もその部分部分は1つ2つと数えることができて、どこを切り取っても等しいような、規格化された(カントにおいては括弧付きですが)絶対的で無機質なものとして、それらは見出されました。こうした考え方は、自然科学、特に物理学にとってとても有用な考え方だったので、急速に浸透し、広く受け入れられました。

ベルクソンはまず、こうした画一的な「時間」の概念に対して、容赦のない批判を加えます。

彼は言います。このような時間の捉え方は、われわれが日々経験していて、それを認識しているような豊かで質的な時間とは異なる、あたかも生の外側から見られた(人間には本来経験し得ない)虚構的な時間である、と。時間を、空間と同じように並べて数えられるものと捉えるのは、時間の本質を見失う、間違った考えであると切り捨てたのです。

誰しも経験があることですが、われわれにとっての主観的な時間は、急いでいるときはやたらと進みが早かったり、何かを待ち焦がれているときには時計の針の進まなさに気を揉んだりと、決して均一的なものとしては現れないものです。

また、例として、一つのまとまった曲、あるいはメロディを考えてみます。そのメロディが流れている途中、ちょうどいま「現在」において聞こえているのはたった一つの音階だけで、それ以上でも以下でもありません。ある瞬間にただ一つの音が聞こえ、その次の瞬間には、それとは独立した別の一つの音が聞こえる。絶対的な時間の中で音が流れるとは、こうした事態であるはずです。でも、実際には、我々の耳に聞こえてくるのは、断続的に流れくる一つ一つのブツ切りの音のシャワーではなく、あるまとまった曲であるはずです。それぞれが単に一つでしかない音、現在の瞬間として寸断されたはずの一つの音は、記憶の中にある前後の曲調と溶け合い、過ぎ去ったばかりの音と融合し、たった一つの音に分節し切れない意味を持ちます。そして、聞いているのがただ一つの音であっても、それを通してメロディラインの全体が、我々の意識に現前しています。われわれが各瞬間に聞いているのは、一つずつの音ではなく、その一つの音にかかわる曲の全体であり、各瞬間各瞬間において、その全体が都度ごとに投映されている。

われわれが”内側”から直観し、経験する時間というものは、こうして伸縮し続け、前後が相互に浸透しあい、質的にまったく均等ではなく、多様な色彩を持ったものであると、そうベルクソンは考えました。この、保存と変転のただなかにあり、量に還元できない時間に固有の豊かなありかたは、「純粋持続」と名付けられます。

「純粋持続」性をキーとして、ベルクソンの独特な哲学が展開していきます。

自我と自由

生の内側から、純粋持続としての質的時間の躍動を経験するとき、それを経験している自我は、”内奥自我”と呼ばれます。他方、普段われわれがなにかしら社会的な役割を演じながら暮らしているような、社会的/言語的に定められる他律的な自我は、”表層自我”として、これと区別されます。

ベルクソンは、人間の生における「自由」について考えました。自由という概念も、哲学史において多く問われてきた難問なのですが、これまた影響力の大きな思想を示したカントの、「ある一定のルールのもと生きれば自由を実現できる」とする自由観を、ベルクソンはまたも拒否します。

自我とその生き方を自覚的に省みて、なんらかの規範にのっとって生きることで達成できる自由は、彼の中では「真の自由」ではありませんでした。それは彼に言わせると、表層自我に絡め取られた態度でしかない。そうではなく、それ以前の生の原初の躍動の中で生まれる自発的な行為を、内奥自我において直観すること、それこそが「真の自由」であると、ベルクソンは説きました。自由とは、何かしらの手続きを経て獲得できるものではなく、事実として常に各自のなかに存在するものと捉えられています。

釈然としないでしょうか。まぁ、そこまでスッと入ってくる立論でもありません。しかし、ベルクソンの哲学的眼差しが、人が善く生きるための役に立つ訓話を重ねることにでなく、徹底的に世界の”システム”のあり方に対して向けられていたことは、ここからも伺い知れると思います。

私たちの行為が、全人格から発出し、全人格を表現しているとき、私たちは自由である。
―『意識の直接与件に関する試論』(通称『時間と自由』)

こうした”事実としての個人の自由”は、その後サルトルらによる「実存主義」―すでに存在してしまっている人間個人から出発して本質を形作っていく現代思想の大潮流―の萌芽としても位置づけられています。

記憶と物質の現在

ベルクソンは続けて、われわれ個々人の持つ「記憶」の働きも2種類に分けます。ここでもやはり、ゆらぎ、浸透する時間の性質が問題になります。

1つ目の記憶は”記銘された記憶”と呼ばれます。我々の身体・運動感覚と結びついて、ほとんど反射的に自動反復できるような、行為化された記憶です。要は、長年の繰り返しで体に染み付いた習慣のことですね。たとえば、ピアノを弾くとき、熟練者であれば特にいちいち指の動かし方を確認したりしなくとも出したい音が出せるし、よく弾く曲は何も見ずとも弾ける。そういう形の記憶を指します。

もう1つの記憶は”純粋記憶”といい、「あのときにあの場所でピアノを引いたこと」を具体的に想起するような、経験した出来事をそのまま保存するような記憶です。

さて、ここからがベルクソン哲学の核となる所です。1つ目の、身体に刻まれて「現在」を生きる行為としての記憶と、2つ目の純粋記憶は、”純粋持続の相のもと”に響き合い、補完し合いながら「現在」において混ざり合います。

純粋持続においては、過ぎ去ったと思われたいっさいの過去は、決して消え去りはせず、現在のこの瞬間のうちに滑りこんでおり、改めて生き直されています。序盤のメロディの例に戻ります。聞いている途中に過ぎ去ってしまった音も、しかしただ消失したわけではなく、次に来る音に浸透し、全体として一つの旋律をなし、われわれの前に現前します。今聞いている一つの音は、ただその音としてではなく、過去の音も含めた一つのメロディラインとして認知され、現在の音として聞き直される。同様に、過ぎてしまった過去の記憶も、常にわれわれの「現在」として生き直され、ゆえに自らの生のいっさいは、身体的な記憶とともに、いま「現在」の真っ只中で生じていることになる。

しかし、普段われわれがこのことを日々の暮らしの中で特別意識しないのは、脳の絶え間ない「生活への注意」が、過去の十全な展開を押し留め、ある特定の記憶、生活の目的に必要な記憶のみを常に前景化させていることによります。死ぬ直前の走馬灯や、生活への注意に駆り立てられていない子供の記憶力の良さを例として、これが語られます。ベルクソンにあって、生活への注意が完全に削がれた「夢」の中において、純粋記憶としての過去はもっとも自由に踊り、躍動します。

純粋持続としての豊かな時間によって、現在に括り付けられた記憶。この記憶が、空間的な水準と交錯してゆきます。

すでにかなり話が込み入って来ていますが、ここであともう一つだけ、「物質」にご登場願う必要があります。これでベルクソンの壮大な実在論の重要パーツがすべて出揃うことになります。

日常感覚としては、ものが「ある」こと(=実在)は、空間上に物質が配置されていることを認識したり、触ったりすることで確認できると考えることができます。しかし実際に、人は単にそこにあるものをあるがままに見ているのでしょうか。そうではないでしょう。われわれがピアノを見るとき、あるがままの対象としてのピアノから呼び覚まされた、ピアノについての様々な過去の記憶が、現にそこにある対象の上に様々に投影されているはずです。そしてそれは、ピアノについて身体に記銘された反復動作としての記憶とともに、見られた対象の上にピアノの「イマージュ」を展開すると、ベルクソンはいいます。

イマージュ・意味~実在の深みへ

イマージュは英語のイメージとほぼ同義ですが、これが直近の記憶から遠い記憶まで、どんどんとその対象に重ね合わされてゆきます。

対象がそれ自体としてではなく純粋持続の相のもとに見られるとき、現在そこにあるピアノは、過去の記憶(これも前述どおり「現在」に生じています)と現在の身体の両方に掴まれており、彼の言い方を借りれば”時間の弛緩態”―時間が過去の記憶~現在までを一度に保存し、時間が緩んだ状態―として存在するピアノに他なりません。われわれがこれまで見てきた純粋時間とは、こうした時間でした。絶対的で直線的な時間においては、こういうことは起こりえないでしょう。

われわれが対象を見るとき、対象に刺激されて過去と未来、行為と記憶が交差し、精神は記憶へと向かいながら対象そのものへと帰ってゆきます。こうして創造される「イマージュ」の総体が、具体的な物質の実在とともにわれわれにとっての「意味」をも同時に、「現在」において作り出します。その実在は、単に一般的なピアノのそれではなく、わたし個人にとっての記憶と分かちがたく結びあった、個性的な意味合いを持つ実在となるでしょう。

われわれが世界を生の内側から眺めるとき、純粋持続性において意識に与えられるがままに直観される自我と身体、そして物質は、生の躍動のもとであらゆる個性を備えた、真の実在であるといえます。

こうして、現在における現実と意味が立ち上がるのです。

生命の跳躍<エラン=ヴィタール>

生命の躍動としての個我は、この宇宙の全生命体、万物の起源としての生の爆発に端を発します。宇宙全体における生の創造的エネルギーの絶えざる保存と変転のなかで、不可避的な生命進化が生まれてきたとベルクソンは説きます。

そして、この宇宙にあらゆる生命を生み出し、あまねく存在させる原理は「生命の跳躍<エラン=ヴィタール>」と呼ばれます。ここでも、生命の純粋持続性に基づく保存と変転が、進化を促したり押し留めたりすると考えられています。

ベルクソンは、主著『創造的進化』において、この大掛かりなシステムの基礎づけを試みています。当時普及しつつあったダーウィンの進化論だけでは生命のあまりに複雑で鮮やかな進化は説明できないとして、生物学的な論証を土台にして議論を進めていきますが、この辺りはかなり神秘主義的な色彩も混じってきています。じっさいのところ、筆者もまだあまりその意味するところを正確に理解できてはおらず、ホタテ貝と人間の視覚器の類似という有名なエピソードがあるのですが、あまり意味が掴めませんでした。ちゃんと読解できたら追記していきます。

『道徳と宗教の二源泉』

他の大哲学者たちと違って、ベルクソンは倫理や道徳を語りませんでした。かわりに、これまで見てきたような彼の哲学を押し広げ、「道徳」と「宗教」の本質とそれらが歴史上で生み出されてきた源泉を生命論的に捉え直し、新たな視点で位置づけました。最後の著書『道徳と宗教の二源泉』において、それが記されます。

まず、エラン=ヴィタールの概念が、集団的生命としての「人類社会」にも適用されます。この集団的生命は、上に見てきたような個人の自我や全生命とおなじく、純粋持続の保存と変転のうねりのなかで、一つのまとまった主体のように振る舞い、自律的に自己を展開していきます

社会が展開する過程で、「社会的要請」「超越的原理」という2つの原理が働くと、ベルクソンはいいます。「社会的要請」は自己の保存・停滞としての原理であり、構成員に規律や命令を導入し、報酬として”死後の生”などを差し出します。こうした停滞を打ち破り、創造的エネルギーのもので自己刷新・自己変革を図るのが「超越的原理」で、この働きによって社会に人類愛などの”開いた道徳”がもたらされるというのです。この2つの原理がせめぎあいながら展開してきたのが人類の歴史であり、既存の道徳観念や宗教は、生命の躍動のエネルギーが原因となって生まれてきたということです。

今ある概念の成り立ちや歴史的な変遷を分析し、その一般に思われているありかたとは異なる本質を明らかにしていく手法を「系譜学」と呼びますが、ベルクソンのこうした道徳・倫理に対する見方も、彼の独特な思想の上に展開する系譜学として読むことができます。

影響

ベルクソンの哲学がカントの超越論的哲学に対する批判として始まったことは冒頭に書きました。しかし直接的には、ダーウィンの進化論を人間精神や文化にまで適応した社会有機体論を唱えたスペンサーに強く影響を受けています。

ベルクソンの哲学は、19世紀前半は忘れられていましたが、その動的な実在論がハイデガーの存在論のうちに垣間見えながら、身体図式を中心に思考を巡らせたメルロ=ポンティの現象学において華々しく復権しました。個人の記憶に基づくイマージュが折り重なる個々人にとっての個性的な世界のありかたは、差異の哲学としてドゥールーズ/セールの多様性論に受け継がれてゆきました。

また、純粋持続としての時間論は、以前記事にしたロヴェッリ『時間は存在しない』概説でも触れたような、現代物理の時間論と密接に関わってきます。双方をともに学んでいくと、より豊かな理解が可能になると思います。

終わりに

この宇宙にひしめいている幾億もの生命が、熱く息づきながらたくましく、そしてせわしなく跳躍している世界の像は、それ自体とてもエネルギッシュで個性的なイメージとして我々の心を震わせます。個人的には、この生の哲学の美しさは、ライプニッツのモナドロジー思想と並び、哲学史上で際立った輝きを放っているように思えます。本記事の中でその美しさ、瑞々しさが少しでも伝えられていれば幸いです。

リファレンス

いくつか論文も読んだのですが、基本的にはこのあたりの内容を参照しています。

『西洋哲学史-近代から現代へ』熊野純彦
『精神のエネルギー』ベルクソン
『ベルクソン』J=L・ヴィエイヤール・バロン
岩波哲学・思想事典

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