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'21.05.11雑記:働くごとにちぎれる身体

前記事の最後にこう書いた。

われわれが医療の場に近づけば近づくほどに、「一」なる全体としての身体はばらばらと離散してゆく。個々の医療行為について調べ、考えれば考えるほどに、この”私の体”なるひとつのものが持つ特有の領域が小さくなり、最後には立ち消えてしまう感覚。

ここですこし”身を引いて”、歴史的な視座から、医療と細切れの身体について考えるためのプロットを見出してみたい。


産業革命以来、身体を動かすことがほとんど人間の存在意義そのものになっている

19世紀中葉のマルクスが、人間の本質を「労働力」、ことさら「労働時間」の関数として捉えかえしたとき、「身体の機能化」はすでに社会の所与としてわれわれに精神のうちにも同時に見出されていたと言えるだろう。資本に隷属して働き、自らを商品として絶えず析出していく存在。時間の流れのなかで、つまり直接的に空間的・物理的な身体として”機能しなければならないもの”として、資本主義下の人間が現れてきた。

この流れにさらなる拍車をかけたものとして、米国の経営学者フレデリック・テイラーが20世紀初頭に提唱した科学的管理法(英:Scientific management,通称テイラー・システム)を挙げたい。学者でありエンジニアだったテイラーが、工場における労働者管理の方法として編み出したこの手法は、端的にいえば科学の方法を労働管理の現場に持ち込んだものであり、企業経営のひとつの画期であった。

製品製造プロセスのあらゆる局面を定量化し、計画管理の基にさらしていく。注目すべきは、それまでは漠然と労働者個人の単位で捉えられていた労働時間-成果の関係を、作業行為の上での個々の動作に徹底的に分割し、それぞれを時間と結びつけた点だ。

テイラーは、生産工程における作業を「要素動作」と呼ばれる細かい動作に分解し、その各動作にかかる時間をストップウオッチを用いて計測して標準的作業時間を算出する「時間研究」を考案した。優れた労働者を対象に時間研究を行って、課業管理を行った。
後に、テイラーと親交のあったギルブレス夫妻(フランク・ギルブレスとリリアン・ギルブレス(英語版))は、個々の動作を観察・分析し、作業目的に照らして無駄な動作を排除し、最適な動作を追求する「動作研究」[4]を成立させた。
「科学的管理法」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。

この時、歴史上初めて、一人の人間の身振りと手振りが、個々の身体器官の機能の集積として捉え直されたであろう。

「ある労働者がレンガを積む」ということは、もはや許されていない。そうではなく、「足を置く位置、姿勢、フォーム、ふくらはぎの筋力、大腿筋の筋力、大胸筋の筋力、背筋の筋力、その他もろもろの機能がレンガを積む」のである。個々の労働者に属するはずの「理性的精神」すら、ここでは捨象される(厳密には、精神を発揮する少数の労働者とそうではない多数が腑分けされる)。身体は限りなく分節され、基準と規格の網目の中で数値化され続けることになる。「無遅刻無欠勤でこの道10年のベテラン田中さん」は、「筋力A、フォームA、速さB(※理想はA)、器用さS」に機械的に置換される。もちろん、機能単位での制御可能性・代替可能性が厳密に担保されている点が重要視される。

こうした考え方の転換は、実に飛躍的な労働生産性の増大を生み、またたく間に資本家のあいだで浸透していった。科学と手を結んだ産業社会にあっては、細切れにされた諸器官こそが<物神>であり、存在の階梯はこの非存在すれすれの裾野から、劇的に転倒している。


さて、これら社会思想によって根拠付けられた集団的諸機能の効率的な発揮に向けて、いやむしろその主要な機能として、近代医療も発展の歩みを進めてきたと考えるのが自然だろう。公衆衛生と公衆医療が急速に整備されてきたのはまさに19世紀以降のことであり、医療は国家や都市、そして産業と密接に結びつくものとして、主として社会集団の労働力を管理・回復させる機能を担うようになってきた。医療とは、なによりも社会による”生産(力)”の治癒である。医療行為がパーソナルな医療者とパーソナルな患者の間の個別的関係においてあった時代は過ぎ去り、生産構造における1変数として、身体がバラバラに診られる(点検される)ことになる。

労働者個人が怪我をすると、可及的速やかに病院に搬送され、労働力の回復が図られる。どの機能がどれだけ欠損し、どこは欠損していないかが測られ、回復・代替の可能性が探られる。

近代プロレタリアートの身体から現代を生きるわれわれの身体へと、当然ながらこの話は地続きでつながっている。むしろ、資本主義黎明期の彼らよりも現代人のほうがもっとずっと忙しいかもしれない。われわれの場合、時間的な細分化も物理的身体の細分化も、極めて緻密に行われている。ほんのちょっとした休憩時間も商品のうちであるし、ほんのちょっとした動作も商品のうちであるからだ。例えば自分が親指を怪我して、しばらく休憩時間に「いいね」を押せなくなれば、Twitterやfacebookやnoteは焦るだろう。ユーザとしての自分の指は、同時に紛れもなく彼ら事業者が他のユーザに向けて生み出している商品でもあって、実のところわれわれの身体のあらゆる部分は、今まさに資本家の手のうちにある。生活の全体が、限りなく細かな機能ごとに、どこかの誰かに包摂されている。親指を診てもらいに病院へ向かう自分も、それを診る医師も、その他周囲の誰一人としてそれが”社会医療”であることを意識していないとしても。

ゆえに日々、そこかしこの病院で、身体はつねに「一」なるものとしてではなく、部分的機能として維持・回復が欲され、治療されているだろう。理想的な働きとその欠損という関係においてのみ捉えられる、基準と規格の格子として。

トータルなものとしてはただ一つ、慢性的な欠乏感だけが、虚空を漂い続けている。


「わたし」と「わたしのからだ」は、今こうして再び並行しているのである。


最後↓


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