ネット上で波長の合う記事との出会いは海岸でひとつのきれいな石をみつけるのににている
はじめに
しばらくまえ、たびで支障がなければ手につつめるほどのちいさな石をひろいあげ、ポケットにしのばせて持ち帰っていた。もちろん持ち出してはならない場所ではない。なんの変哲もない路傍のごくありふれた石。くつのひもをむすびなおすしぐさとともにひょいとつまみあげる。
ふたたびおとずれるのはむずかしいなごり惜しさからの行動かもしれない。こうして各地のちいさな石たちを自宅のつくえのたなにならべる。ちょうどnoteであらたなお気に入りの文をみつけたときとにている。
きょうはそんな話。
たびをする
見知らぬ土地をおとずれるのはたのしい。とくに地図にたよらないで名所や旧跡などをたどるわけでもなく、あてどもなく散策するのはとくにわくわくする。このさきになにがあるのか、そんなに物騒でないかぎり、ひとりで自由に歩けるとなおいい。
たいてい旅でおぼえているものといえば街の風情やふだんのままのようす。わずかな時間にすぎないが、かいまみえて以前からそこにいたかのようなきもちになったり、どこかなつかしくなったり。
たいてい下町というか、昭和の風情をのこすところほどそんな感情がでてくる。わかいころすごした時代とシンクロするのか。ふかくきざみこまれているものなのか。初対面の街で起こるのはなぜだろう。どこかにかさなる要素があるのか。
noteでの出会い
まいにちひとつnoteへ記事をのせる。とりとめないのは承知のうえ。すこし時間があれば、当時にほかのかたのあらたな文に目を走らせる。タイトルを読まないことが多い。わたしのつくる文の白さ加減とおなじくらいの記事に目がいきがち。あえて漢字の多用で文章が黒くならないように意識している。それがしぜんとできているかたの文にあこがれる。
こんなふうに文をみがけたらなあとためいきがでる。なかなかとどかないさきにあるあこがれの文。読後がここちよい。
てもとにある著名な作家のしたためる文ははるかかなたにある。あらわしているのはごくふつうの庶民のくらしだったり、街の風情だったり。さしえなどなくても文からにおいたつようにイメージできる。
日本語のゆたかさと
ふだんつかう日本語はいきもの。たくさんの語彙がうまれては消えていく。くみあわせて文を編んでいくのだからかぎりなくあらたに生成する。そして消えていく。
かたや石は消えてなくならない。石をみつめているとひろうまでのあたりのようすがいっしょにおもいうかぶ。たどりつけたnoteの作家さんや文に出会え、たびで石をひろうように(石にたとえてすみません)、見失わないようにタグや付箋をつけるつもりでフォローしていく。
これまでたくさんみつけた作家さんたちのかずは4けたに。多様なパーソナリティーをもつかたがたがここには存在する。
おわりに
noteでの出会いはたびにむかえないとき、行動の一部にとってかわりそう。引っ込み思案なわたしにとって、旅行さきで土地の方々や旅行者としたしくなる機会などそんなにない。noteならば家にいてもかくじつにそのかたのかんがえやまわりのようすの一端を知れる。
けっこう親しいお話をしていただくのにひとしいかもしれない。そんな出会いが今後もつづくようにこちらからも発信をつづけたい。
こちらの記事もどうぞ
広告
旅でのお気にいりの靴。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?