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理科で細胞の単元を生徒に教えていて草食とは細胞壁を好んで食べることと気づいた


はじめに

 ヒトやタヌキは雑食性のいきもの。ライオンは肉食だし、ウサギやウシは草食。いずれもホ乳類にちがいない。何のちがいなんだろう。

それらの動物たちのちがいについて理科で触れる。目のつき方や歯の形状のちがいの説明があるにはある。中学生たちははたしてそれでしっくり納得できるのだろうか。

これって見たままじゃないか、理由ではないよなあ。理科はなぜを追求する学問。

あらたな疑問やなにかが浮かんでこないか。学習サポートをしていてふとそう思う。

きょうはそんな話。

「教わる」と「教える」

 ちょうどいまごろ中学2年生は理科で細胞について習うころ。ほんのすこしだけ予習ぎみに学習サポートでは教えている。科学者のはしくれのわたしは生命科学の論文を書いてきた。

なんの因果かいまは中高校生を中心におしえて、兼職の研究パートで研究の機会に接する大学生や大学院生のめんどうをみたり相談にのったり。その一方でさまざま彼らから発想のヒントをもらう。

生徒たち、学生たちの理解度や考え方はさまざま。生命に関するとらえかたもいろいろ。話すとおもしろい。むしろこちらが「へえ~そうか。」とか「うんうん、なるほど。」とさまざまあらたな考え方や見方を知れる。

教える作業はこんなふうにサポートするほうも教わる側からまなびを一歩すすめたり、ちがう見方やあらたな視点に気づかせてもらえたりする。学校や大学の先生方は意外と専門の研究で教育からヒントや手がかりを得ているのかもしれない。

学習サポートを長年やっているとまさにそうした生徒たちとのやりとりはたいせつ。よりわかりやすく理解しやすい手順やてがかりをいっしょにみつけて、よりよいサポートのための糧にさせてもらう。

理科で習うこと

 ちょうどいま細胞についてまなぶのは中学2年生。ここからさき高校で教える内容はさまがわりし、充実している。高校の「生物」の教科書のなかみはわたしの高校生当時とくらべてべつもののよう。いまや当時の大学の1,2年生で習ったことを要約したなかみといっていい。

わたしの1世代まえの方々にとっての生物とはおそらくイメージは大きくちがうはず。系統分類学的な要素は中学校にはのこるが高校ではむしろ分子生物学的な側面がつよい。細胞についても観察だけでなく、微細で精巧な言うならば「分子機械」としてのはたらきをとりあげている。

20世紀後半から大きく進展した分子として生命を概観するところを意識してとりあげている。そこからはじまり生命現象の根幹で重要な要素の遺伝や情報伝達などもその詳細な機構のうちもっとも基本的なものを高校でとりあげている。

動物と植物の細胞

 そのてはじめとなるのが細胞。中学生はそれまでの肉眼によるかんさつや身近な生き物のようすから生命をとらえていた世界観からガラリと変わり、顕微鏡下でしか知ることができない微細な細胞や生命に関する分子などへと目をむける。抽象的でとらえにくい。いよいよ現代生命科学の入り口にさしかかったといえる。

とはいえ中学生たちの接するなかみは30年来さほどかわりない。というのもそこからさきはどこでくぎりをつけたらいいかわからないほど深淵だから。いわば中学生はおもてから入口のとびらの表札を外観するにすぎない。

それはそれでいい。そうでないときりがない。大学生ですら数年かけて20世紀までの生命に関してあきらかになった重要点についてその骨格を知れるぐらいだから。

おわりに

 ようやくきょう触れたいことにたどりつけた。数日前に細胞について中学生に説明していてふと気づいた。

わたしたちは植物をたべる。葉っぱや茎、場合によってはふくらんだ根。それらはたとえばほうれん草であり、アスパラガス、そしてダイコン。いずれも植物特有の動物にはないとされるかたい細胞壁をもつ。

そのかたさゆえに植物はみずからのからだをささえることができる。わたしたちが口にするにはゆでたり、煮たり、焼いたり。こうしてやわらかくして食べやすくする。

たべる対象としての植物は基本的にこの細胞壁をいかにたべやすくするかにかかっている。ヒト以外のどうぶつでは基本的に生で食べる。とくに草食動物たちは腸内の微生物のちからをかりて、植物のおもにセルロースからなる細胞壁などを消化し栄養分に変えられる。ヒトはより食べやすく効率よく消化吸収するすべを心得て、調理したうえで食べる。

結局のところ植物と動物の細胞のいちばんのちがいはこの細胞壁と葉緑体の有無。わたしたちは植物を手にとりこの細胞壁を好んでたべていることになる。そこが肉や魚を食べるときとの大きなちがい。今回教えていてこの当然すぎる見方にあらためて気づいた。


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