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理想のとおりにならない現実のなかでどうやって折り合いをつけていくか


はじめに

 この世のなかは生きにくい、いや順風満帆だという。そんなことはないよ、平々凡々だよねというヒト。ほんとうにさまざま。なにかを決めるには多くのヒトビトとかかわりをもち侃々諤々と議論しながらどうにかこうにかまとめる。

妥協もあれば納得もある。常識も試される。

きょうはそんな話。

ひとつのことを決めるには

 どんな集団でもいい。家族、友人、会社のチーム。なにかいっしょに行動しようとすると、ほぼかならず全員の意向をたずねる。あるいは代議してもらえるヒトをたてる。話し合いでおたがいの反応をみつつ妥協点をさぐっていく。これは意外なことにひとりで何らかの行動を起こすうえでもやりがち。

ふと新たな考えがうかぶ。するともうひとりのじぶんが「それはどうかな、この点を考慮してないよ。」と反論。「でも、こうすればいいんじゃない。」とまえむきにまとめようと提案するさらなるじぶん。わたしのカランコロン鳴るあたまのなかでこれぐらいわかれて議論している。

もちろん相手がべつの人格ならばもっと気をつかうし、相手へのリスペクトもある。意見を表明するにも気をつかう。不必要な揚げ足とりや皮肉にならないように言葉をえらびつつ、なるべくまえむきな方向性をしめしながら議論に参加。

話し合いの場で

 雰囲気もだいじ。より真剣な討論をすべき段階がおとずれる。お金やヒトがからむこと。これは冗談を言い合っている場合でないし、TPOをわきまえつつ、とはいってもかたくなりすぎると、柔軟な発想を生みにくい。手堅いがすこしのちにふりえると進歩ないなあとなりかねない。

まえに進む、切り拓いていくというときほど慎重になるのはやむをえないし、だれも先がみえているわけではない。天才的なリーダーシップをそこに求めてもふつうはそんな存在はいないとこころえているのは顔を合わせるなかで共通の認識。

それでも3人集まれば文殊の知恵。ひとりよりははるかにちがいがあらわれる。やっぱり練れてくるし、リスクを回避するさまざまな配慮がそなわる。

おおかたの納得

 「ニンゲン」とは人間と書く。なぜだろうとこどものころに思った。いまはすなおに認識して、やっぱり「間(あいだ)」にこそヒトの本質がありそうだと思う。ことば・態度・しぐさ・表情とさまざまコミュニケーションをとりながらヒトは氷河時代を生き抜いてきた。共同で狩りをする、たくさんの目でみつけて採集をするからこそ生きのびた。

腹を割ってやりとりするたいせつさを示したい。知恵のある人類のはず。なにもあらそいのなかに埋没してしまうのはもったいないし、この程度の存在だったではあじけない。

あまりに大きな話をするつもりはない。まずはちいさなコミュニティーのなかでわきまえたやりとりができるか否か。それはとてもたいせつだと思う。

おわりに

 コミュニケーションをとることは反対の行動で考えるとわかりやすい。おたがいに敵愾心をぎらつかせて、威勢を張ることで相手をねじ伏せることでは成立しない。やっぱりそこには相手に対する思いやりの気持ちや慮る態度をとることもだいじ。

その点、動物はこころえているし、その集団のなかで居場所を確保しようとすればもっともだいじなことと心得ている。ニンゲンだけがちがうということはないし、とくべつなものでもない。

共存共栄のなかで競争したとしてもそれは許せる範疇でなすべきこと。そのなかで生き抜くにはこうしたルールは必須。「さあ、どうするの?」意外とたなごころのうえでためされているのかもしれない。あっさりわたしたちの遺伝子に書き込まれているのかもしれない。


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