郊外の鉄道旅は場所と時間の多少の不自由さもふくめてたのしみのひとつ
はじめに
昨今の状況からようやく公共の交通機関の往来も回復のようすがみえてきた。なかでも鉄道は地方によっては現状は心配なところはあるが、全般的には客足がもどりつつあるのではないだろうか。
「鉄道旅」ということばにはなにか独特のおもむきがある。やっぱりわたし自身は「乗り鉄」のひとりなんだなあと思う。
きょうはそんな話。
車窓に向くと
前職のわかいころはけっこう時間があって全国各地への移動で鉄道をよく利用していた。出張の前後に余裕があると空路よりも鉄道ときめていた。
はじめておとずれる地域には鉄道でおじゃまするほうがいいと思う。かならずといってよいほどその地のよい風景に出会える気がする。車窓からながめない手はない。とくに山・川・海の3つはいつまでながめていてもあきない。その土地で生活されるヒトビトの日常のようすもかいまみえる。
それが走馬燈のようにあらわれては消えていく。つぎつぎとうつりかわる車窓の風景の変化はあわただしく、ながめつつうかぶあたまのなかも矢継ぎ早に着想がわく。こちらはだれにもじゃまされずに座席にこしかけ車窓をながめているだけ。なにもいっしょになっていそぐ必要はない。
いま畑で作業されていた方にもその地でのくらしがあり連綿とした関わりがあるだろう。当然なんだがその地のとほうもながく存在する山河のもとでの生活。いろいろな空想にあそべる。
時間と場所と
鉄道は運行時刻がさだまっている。ふつう旅の目的地にむかおうと思い立つと、運行する時刻表により行動にたががはまる。到着地での所要やたびの目的のつごうをもとに逆に旅程をたどり、どれを利用するか逆向きからきめていくとスムーズに旅程が組める。乗り継ぎがあるときほどそうするといい。
乗るまえに食事をすませておこうかとか、いや急行だから車内でゆっくり食べれば時間を有効利用できるとかいくとおりか時間のつかいみちがでてくる。行動しながら臨機応変にかえていくのもたのしいし、きっちりじぶんなりに前もって計画をたてるたのしみかたもある。
たとえば昨今の状況下のさなか。自由に旅ができない場合でも、こうしたあたまのなかで旅程をくみあてて空想にあそべる。時刻表ひとつあればそのたのしみはそれこそほぼ無限の組み合わせといえるほどある。時間をわすれられる。
場所もおなじ。旅行の目的地ひとつとってもちがいがしょうじる。となり街のはずなのに逗留先としてえらびそこなうとまったく行程がちがってしまうことさえある。点々と移動する際には、朝の出立の地を鉄道の出発地(たとえば駅前など)にしておくと、時間にゆとりがでると経験から知った。
おわりに
こうした鉄道にまつわる時間と場所について書きはじめるとほんとうにきりがない。つぎつぎにさまざまな失敗やちょっとしたトラブルに出あう。そのどれもが旅の思い出に。
書いているとつぎのたびに出たくなった。
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