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このところただひとりで山栗をひろうきもち


はじめに

 今年も栗がみのりはじめた。豊穣の時期をむかえ、山のみのりに感謝しつついつも拾ってきた。

しかしここ数年はおなじ作業をやりながらもどこかちがう。その理由について記したい。

早起きして山に入る

 東の空がほのかにあかるくなるころに身じたくして里山にはいる。ぽつぽつと道ぞいに点在する山栗のイガを長靴のさきで広げながら、感謝しつつ実をとりだす。そして自分の果樹畑の栗についてもおなじ作業をくりかえす。

ここ10年ちかくこうして栗ひろいをおこなってきた。きれいにひとつずつふいて赤いナイロンのネット袋に入れて販売所で売る。数か月の自らの食糧代をこれでまかなえるだけの収入になる。(昨今の状況下なので販売は休止中)

毎年この時期には、朝起きるとまずは栗をひろう作業にはじまって、そのあとに里芋の収穫や秋の葉物野菜の世話。栗については山の標高の高いところからはじまって、日がたつにつれてくだりながら実るので、それを収穫していく作業が2~3週間ほどつづく。

はっと気づいたこと

 3年前のこと。朝、山に入り山栗ひろいをはじめたときにふと気づいた。ここ数日、毎朝ひろえている。里山なので集落のだれもがひろってよいはず。ところがいつも自分のものになっている。つまりだれもここには訪れていないことになる。

そういえば山菜もそうかもしれない。年明け後から山でツワブキ、そしてゼンマイ、ワラビの新芽がたてつづけに採れる。伸びた新芽のひと葉だけを大事にいただきながら山を歩く。残りは残していく。

やはり草を踏んだあとや通りぬけるのに抵抗するつるをはらったあとがない。山に入るわたしがなたではらっている。

「山に人が入っていない。」どうやらここ数年でこの地域の状況が変わったようだ。

以前ならば時期をつかんでいるはずでも、いずれもだれかが収穫したあとだった。日頃から山にかようことをせず、早起きのできていないずぼらな自分のせいと思っていた。いまもその性格に変わりはないはずだが、それでも山栗をひろえている。

山栗の価値はだれでも知っている。山菜も同じ。栽培品種とくらべてもおいしい。にもかかわらずだれもひろっていない。

ほんとうに事態は進んでしまっている。

さびしい作業

 それに気づいてからは山栗を手にするたびにそのことを思いかえしていたたまれない。たったひとりの作業。

ひろうたびにそれを思う。わたしのあとはだれもこの栗のことは気づかないままだろうか。ひろわれることなく冬が過ぎ、実はそのまま朽ちていくのだろうか。

見あげると空が抜けるように青い。


おわりに

 無精者のわたしがひろいつづけてよいものか。それを生活の糧にかえてきた。バチがあたりそう。やはりよくない。それでなるべくひろった山栗については日頃お世話になる人にさしあげている。

たまにとなりの山でイノシシを追いかける猟銃の音がする。人の行き交うようすは皆無にひとしい。イノシシにまちがわれないようにあわてて山を下る。

ささ竹を切る作業にしても、草払いの作業にしても早朝に入り昼前には集落にもどるが、そのあいだにだれにも会うことなく家にたどりつく。ここ数年このようにすごしている。

やはりさびしい。


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