英語の壁が氷解していく過程(希望)かもしれない体験を記しておく
(2024.5.20加筆)
はじめに
こどもが言語を習得していくプロセスはなにもテキストによるものでない。身近なヒトビトとのコミュニケーションのなかからほんの数年のあいだに急速に身につけていく。
そのプロセスはおとなにはあてはまらないものか。せめて日常生活に使う程度の英会話に不自由しない程度でかまわない。しかしなかなか容易でないのは方法がなにかおかしいのではとふとした疑問がわき起こる。
きのうとはすこしだけちがう視点から書いてみたい。きょうはそんな話。
ある経験
なにかわたしの聴く感覚にちがいが起こりつつあるときのう記した。
日常生活で母国語以上にたのしみ半分で流しつづけている。その途上で起こりつつある感覚の変化についていま一度記しておきたい。なにかの参考になるかもしれないから。
できないほう
幼いころおとなしいこどもだったらしい。その形質は受け継がれたのか下の子もことばを発するのがずいぶんあとだった(2歳になってようやく)。
さて、わたしのほう。それがわざわいしたのか、もともと引っ込み思案で言語の取得には興味がむかなかったのかさだかでない。中1の英語も同様だったし、大学の第2外国語のドイツ語もそうだった。なかなかおぼつかない。
どうやらあたまで先に考えてしまうほうでからだがついてこない。運動神経もしかり。いずれも一度聴いて(聞いて)できるほうでなかったのはたしか。何度もやって鈍感なからだがようやくついてこれるまでくりかえさないと「できない」ほうだった。典型的なタイプかもしれない。
なかばなげやり
根気がないほうではないがその一方でズボラ。そのため集中して長い時間辛抱してというのはやればできるだろうがやりたくない。そんななかば矛盾する性格をもちあわせたばかりに、この齢まで英語を積み残したまま。
最近はたまたま英語の洋楽やラジオ英会話を聞き流すばかり。とくにそれをもとに「勉強する」というわけではない。ただ単にへやでも車中でもBGMのごとく流している。すでに英語のほうが母国語に接する時間が長い。ひとりぐらしでその比率がこのところより顕著に。
すると
あきらかにちがいが出てきた。まずはネイティブの方の話す遠慮のないままの英語にはさまざまなくせのあること、しかもはやさは尋常でない。語と語はくっつき、音は省略され、強調される部分をしっかりつかまないと否定なのか肯定なのかすら判然としない。そして何語かわからない(スペイン語?)スラングがもりだくさん。
これは納得がいく。日本の南北(東西でもいいかも)の方どうしで方言を遠慮なくつかい会話するのはむずかしい。おなじ言語でもこれだけちがう。だれもが標準語でどこかの女王様のように話すことなどありえない。世界じゅうの方々の英語を自由に聞ける時代。それらを聞きつづけてようやく「聴けない」ようすがわかってきた。
それでも
この調子!とみずからを励ましたのは、だんだんとわかる語やフレーズがふえつつあること。「これは以前に聞いたことがある」がふえてきた。初出と既知の部分が区別できはじめた。わざわざ日本語に訳さない。そこだけふり返って英語のまま用法を理解して身につければいい。
これは幼児が言語を身につける感覚と共通しないか。紙もえんぴつもいらない。わが身だけ。そのシチュエーションでまねしてつかえばいい。
いいわけだが…
ひとつにはこうした多様で「生きた」言語なのにそれを置きっぱなしにしたまま、わたしたちはいきなりその難解さにげんなりするということをやりつづけていないか。あたまに押し込んで入れようとしていないか。会得をむずかしくしている要因があきらかにありそう。
たとえば「英会話」と「英語」をごちゃごちゃないまぜにしたままやろうとしていないかということ。やっぱり両者はあきらかにちがう。
わたしがいま会得したいのは日常レベルの英会話にすぎない。学術論文を記すための英語はまたべつの技術でありそれ自体の目的は果たせている。そちらをここで触れようとしているのではない。
おわりに
いまのところそんな感覚の途上にある。いつまでかかるかわからないが、はたして目標の日常づかいを会得できるかどうか。たのしい人体実験の最中。
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