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本をたずさえて思うこと:いったん手放したはずなのにふたたび増えている


はじめに

 学習をサポートするしごとを主宰しつつ、パートで研究機関にお世話になるダブルワーク。それぞれスモールワークとして無理せずやっている。昨年後半から住処を変えるまで2年ほどかけて書棚の本の大部分を手放したはず。それがどういうわけか…。

きょうはそんな話。

本は片時も

 こどものころから本は身近にいた。本というより活字かもしれない。目にはいると広告すらたしかめないと気がすまない。きっと好奇心からかもしれない。だから学校の図書室ですきなだけ本を借りて読んでいいといわれて、そのわくわくをなかなか抑えきれなかった。図書室に一歩一歩ちかづくにつれそのきもちが高まる。

上の学校にすすんで、いよいよ学府とよばれるところの地下の広大な書庫に行き着いた。ここはしずかに本がねむっている。おもて開架に出されずにここを最後の居場所とするかのよう。

なぜか研究室のあてがわれたいすとつくえ以上に、キャンパスのなかでいちばん落ち着ける場所。それこそ古今東西のあらゆるジャンルの本が数十万としまわれている。その独特の空気はここと行きつけの何軒かの古本屋にしかない。

しらべもののてがかりとして

 ここでは調べたいことがらにあわせてそれぞれ分野別にきれいに整理されて書物がならべられている。おめあての本のジャンルごとの、世にいう「日本十進分類法(NDC)」の番号がわかればればそこにならぶ。

たいてい予想をうわまわるだけのそのジャンルの一群の本をながめわたせる。さかのぼるにつれて古い背表紙に字体の文字がならび、開くとどれにもヒトが以前にこのページを探った形跡がのこされている。

この書庫だけでなく手もとにおいてたびたび手がかりとする本はあつかいがべつ。新版が出るたびに買い直してきたシリーズものや、学生時代にテキストとしていまに至るものなど、机のうえにおいて長年にわたりその背表紙をみつめるものがある。

たびたび最初から最後まで読みなおす。そのたびにほかで得たあらたな知識とともに理解が深まる。見方も変わることすらある。

紙の媒体

 大河ドラマの「光る君へ」の平安時代には紙や本は文字を知る高貴なヒトなどごく一部でもちいられる貴重なものだった。はたして紙の本は今後のこりつづけるものなのか。おそらく絵本はかなりあとまでのこりそう。

電子情報の蓄積と利用にヒトビトが目を向けてたずさわり、そのほうへ重心をうつしつつあるかにみえるなか、紙の活字をあつめたかたちでまとめる意義はどのくらいあるのだろう。

50年、100年を経たのち、記された内容は古ぼけて茶色くなった外見とちがい価値あるものでありつづけるだろうか。

たまたま現代人として糧とし生きる手助けやはげましとなり、思考をひろげる役割に紙であろうと電子媒体であろうと内容本位ならば本来ちがいはないはず。それでも手にとった本の感触は貴重。そのなかには人類の思考の過程がかならずふくまれる。

おわりに

 その情報のひろがりや深みも重さや厚みからおおまかにつかめる。必ずしも重厚なものほど価値があるといいたいわけではない。かならずそのなかに書いたヒトの考えの一端が記されているのでわたしたちはそのヒトビトのあたまのなかを覗いてながめることができる。

そのながめ方としてわたしは個人的にはこの「本」という形態はしっくりくる。そのあつかいやすさのためかふたたびじわりと冊数をふやしつつあり、おののいている。


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