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十中八九そう見えても10%の受け入れがたい現象に目をつぶるのはやっぱりよくない


はじめに

 昨今の状況下、科学者や専門家が登場して口をひらくと、いくつか「そうだよなあ。」とか「そうかなあ」と思案する自分がいる。わたしは科学を学び、科学者の仕事に就いてきた。

それなりの態度でうごいている。それでもたとえばSFに脳を遊ばせるのは楽しいし、「UFO」や「地球外生命」には興味が尽きない。つまりスイッチを切りかえている。

専門家以外は、その学問領域以外の人はいずれも「一般の人」といえるし、その意味からだれでも一般人の立場になれる。だれもがいずれの立ち位置にもいるともいえる。

わたし自身、科学者の立場でいるときには「事実」に対して謙虚に接し、「意見」を述べるときには慎重なことがたいせつと感じてきた。これは逆に書くとわかりやすい。つまり事実を針小棒大にねじまげ、意見を声高に示すのはよくない、と。

みかけと実体。その両者のあいだに科学者はいつも立たされているなあと感じている。科学者と一般の方々、そのあいだに立って考えてみた。


前代未聞の…

 情報が蓄積して、結果としてのデータの蓄積が進んでいるので、地球上に住んでいる一個人としての立場から概観したい。この2年あまりで昨今の事象のごく一端を示すデータが積み重なってきた。

それでも実体はまだまだつかめていない。ここで変なたとえをしたい。相手ひとつとりあげても暗闇のなかで鬼ごっこをしているような状況から、ことがほんのすこしだけ進んで上着の端をつかめた、もしくは尻尾の先を追いかけられるぐらいにはきたのかなと思う。

それでもその上着をどんなふうにコーディネートして着ているのか、しっぽは1本だけなのかさえわかっていないと言ってよい。

たまたま新しいタイプのワクチンや他の用途で使ってきた薬などで一時的に押し留めているだけなのか、人類の行動の抑制方法のいくつかがたまたま功を奏しているだけなのか。


事実を真摯にみつめる以外に術はない

 この期に及んでも自然は冷徹。人間がどうのこうのしようとも、もともとの「あるがまま」のすがたを時間の進行とともに事象をすすめていく。やはりこっちがよかったと言っても、あたりまえだが過去にはもどれない。

結果を受け入れるしかない状況ともいえるし、叡智を結集しつづけて多少でもその動きの軌道修正を図るしかないのかもしれない。

その際に、10%あるかもしれない不利でみたくない状況に目を向けない、意図して目をそむけたままで前に進んでしまうのは科学者としてはあぶないし、道を誤りかねない。とうぜん慎重であってしかるべき。でも躊躇はできない。ことは進みつつある。着実に一歩一歩すすむしかない。

たとえばこんなたとえ。はじめて月に降り立ち、数歩先に何が起こるかわからない状況下にあっても、それまで訓練してきた経験と科学技術の裏づけが後押しして、たんたんと実践して確実な一歩を進めるしかない。

対処法は練習してきたなかにおのずと準備されている。その段階ではあいまいさや思い込みは命取りになりかねない。

科学とは事実の積み重ねで成り立つ。そこにひとつでも誤りが混じるとたまたま柱が立っているように見えても砂上の楼閣になりかねない。基礎の裏付けがあってこそ垂直に天に向かう真の柱となりうる。


おわりに

 10にひとつでもおかしなデータがあらわれているとき、その場に立った人が試される。これはいろいろな場面で起こりそう。おかしなところに目を見け、やり直す勇気と構築できているかに見える90%の部分を精査できるかどうかにかかっていると思う。

9個がたまたまで1個のみが真実なことだってあり得るし。

 この先に何が起こるのか人類はどうなっていくのか。それはだれもわからないし知らない。それ自体は現実。もちろん想像したり妄想したりするのは自由。それは科学の裏付けにはなりえないかもしれないが、もり立てる要素のひとつかもしれない。

わたし自身も含めて一般の方は科学者の言動を自らの生活に活かすしかない。科学者の言う「事実」を事実として学び、「意見」に対しては半信半疑の態度でかまわないし、保留でも聞き捨ててもいい。「事実」と「意見」を明確にしつつ論じているはずだから、その点を明確に区別して考えたい。


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