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意識をそこへもっていき、耳をそばたてる、目をほそめるとはじめて聞こえる・見えてくるふしぎさ


はじめに

 むかしからふしぎだなと思っていること。科学者のはしくれでありながらそぼくな疑問をいくつもかかえて解けないままでいる。

こうしたあまりにありふれたことがらはヒトには面とむかってなかなか聞く機会がないし、わかったところでとくに何に役にたつとかそういったものでもなさそう。ちょうどイグノーベル賞の対象になりそうなこと。それでも森羅万象なんでも首をつっこみたがるわたしには興味深い。

きょうはそんな話。

ヒトのあたま

 あたまのはたらきはふかい海の底や宇宙のはてとおなじくふしぎに満ちている。現在、あさの4時。5時にセットしたごはんの炊けるのをあさのなんやからのじゅんびをしつつ待っている。炊けてべんとうにするかまえでいる。この文章を打ちおわり、noteに掲載できたころ炊きあがる。べんとうをバックにいれ、くるまを運転して学習サポートのしごとにむかう。

一連の行動は起きぬけのぼぅ~とした状態でもなんとかこなせている。もはやnoteの文のながさぐらいならば、つらつらうかぶままPCのキーボードをなぞるようにうちこむ。

ゆびはおきぬけのあたまのようやくうごく状態でもなんとか打てている。たまにおかしな文はそんななかでしょうじる。読んでいただける方々にはもうしわけないが、まだ3割ぐらいしかうごいていない状態でつらねている。

歯みがきなどとおなじくらい慣れなのかもしれない。ほぼからだが勝手にうごいていつのまにか朝のさまつなしたくの完成するころ、つまり起きてから数十分あたりをすぎるとほとんど昼間のあたまの状態とかわりない。これならばくるまを運転してもだいじょうぶ。

ふと思うこと

 家では電池式のアナログの秒針のあるコンパクトな置時計が時刻を示してくれる。このほかにも以前にここで紹介した電波時計。こちらは物音ひとつたてずにはたらく。意識をアナログ時計にむけたとたん、カチコチときこえる。

ところがまったく置時計から意識がはなれたとたん、そのときを刻む音はなく、静謐なへやにもどり、べつのことをかんがえている。こんなときはデジタルの電波時計のほうを見がち。

これはふしぎ。意識をそこへ集中させるとその音をひろうかのように聞こえる。耳をそばたてて聞くとはどんなしくみなんだろう。意識させたいほうへとおのずとズームできる。これはほんとうにべんりだし、こんな機器をつくれればけっこうおもしろそう。

べつにそちらのほうに顔をむけずにせなかごしでも聞こえてくるし、イメージとしては秒針の音がこころなしか大きめにきこえる。わたしだけだろうか。あまりにありふれてそぼくなどうでもいいことなのかもしれない。脳のはたらきとしてはおもしろい。どのくらいわかっていることなのだろう。

目のほうも

 もしかして視覚もそうかも。見たいものへと意識を集中するとちがって見えるのでは。たとえば遠くのけしきをながめる。あの山のうえになにがあるかなと見ようとすると、あたかもズームするかのように視野がかわらないだろうか。こちらもわたしだけだろうか。

とおくを見やすくするために水晶体の厚みが変わるのはたしか。とうぜん視野はせまくなる。いやそうではなくそれ以上にズームされるように思える。そこへ意識を集中するとほんのうせまいはるかとおくがずいぶん大きく見える感じがする。聴覚だけでなく視覚もそんなしくみがそなわっていそう。

おわりに

 どうも動物の感覚とはひとすじなわではいかないようだ。脳の機能とあいまってかなり高度なしくみがそなわっているのでは、とふと思う。

AIやさまざまなセンサーをそなえたロボットなどに応用できるのかな。惑星探査などに有用かもしれない。こうしてわたしのつかいふるしのあたまはとりとめのないことに費やされつつ、なんとかあさの4時半すぎにガラガラとうごきはじめる。


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