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「エグい」と「エモい」のそれぞれのことばに内包するニュアンスのちがい


はじめに

 わかいヒトたちのつかうことばはおもしろいし興味深い。聞きなれない語に出会えると聞き耳をたてる。その多くはまさに当意即妙でぴったりだなといつも思う。

こうしたことばへの敏感な感応は若いヒトたちが得意にする。気心のしれたなかまうちでつかってこそなのかもしれない。

もし齢をかさねたわたしが唐突につかったら…。やっぱりムリがある。

きょうはそんな話。

ことばのちがい

 わたしの両親は結婚してまもなく郷里をはなれた。ことばのまったくちがう土地に越してきて、そこでくらした。まもなくわたしがうまれた。幼少のものごころついたころに接することばの影響はおおきい。両親はこてこての郷里のことばのままで話す。

ちいさいころは母親のつかうことばを怒っているのかふだんのままなのか判別できずに苦労した。それは地域の人たちやあそびなかまたちのつかうことばとおおきなギャップがあったから。そのちがいにとまどったままで大きくなった。

とまどいのなかで

 小学校に入って以降もことばについてのとまどいはつづく。地元のことばは荒いことで有名。ほかの土地のヒトからはいつもけんか腰に聞こえるらしい。わたしはヒトと話すときにはなるべくそうした方言や話しかたにならないように用心ぶかくはなすようにこころがけた。誤解されたくなかったから。

しゃべらくていいときにはもっぱらだまっていた。するといつのまにかおとなしいとか、たまにわたしが話すようすを聞いたヒトからは地元のヒトじゃないねとか、どこの出身なの?とかさかんにたずねられるようになった。ぎゃくによそよそしい印象をあたえてしまったらしい。すでにどうしようもない。

ルーツのないまま

 そうこうするうちに大学に進学。なんの因果か両親の郷里にちかい。幼少のころから接してきたなじみの言葉。半分ほどは理解できた。わたしはこうしてことばについてはルーツがないままおとなになってしまう。

以上のことから話しことばに対してはいまも敏感なほうかもしれない。とくにわかいヒトたちのつかうことばに気にせずにはいられないのは、ちいさい頃からのこうした言語のゆがんだ体験が関係しているのかもしれない。

ちかごろのことば

 最近気になるのは「エモい」。研究パートのしごと場で学生さんがつかうのをはじめて聞いたときにはエモーショナル(emotional)からの派生語かなと感じた。この学生さんが話題にしている内容から判断すると形容詞としてつかっているから、きっとそうだろうと思った。

どうもこのemotionalという単語はゆとり世代のあとぐらいから中学校の英語教科書のなかで見るようになった気がする。それからあともかなりテキスト中の単語数が増した。

わたしたちの世代は高校になってからようやく接した語。それがわりと最近になり若い世代に身近になったのかもしれない。音節が多い長い単語はそのまま会話に乗りにくい。こうしたとき日本語ではよくみじかくしたうえでつかわれる。そうしてスラングのひとつとしてつかわれはじめたのかも。

こちらもそう

 それに似ていて、それよりもすこしまえからある「エグい」。こちらはいい意味でも悪い意味でも両方つかいそう。「たけのこがエグくて食べられない。」はごくふつうの言いかたでわたしもつかう。ところがわかいヒトたちはそうしたのどに刺激があるという意味とはべつに、周囲では「ありえない」にちかい意味あいでプラスにもマイナスにもつかうようだ。

まったくちがうことばで「変態」ということばもそう。むかしはあきらかに異常とかおかしいという意味とともに生き物がたとえばさなぎから成虫になるという学術用語としてつかうことば。これがどうわけか野球の大谷選手へつかったり、神業的技能の持ち主へ用いたり。どこかこのことばで親近感をもちつつもどこか茶化した意味合いもふくまれているかも。

おわりに

 日本語のへんかは注意しているととても興味ぶかいし、「ことばは生きている」といかにもいえそう。べつにわるいことではないし、これも文化の一面。わかいヒトたちはそうした流行やなにかには敏感。ただいにしえからある和語のように語感がもっときれいな語が生まれるといいなと思う。

敏感にニュアンスを感じとりすかさずじぶんのものとしてつかい、なかまとのシンパシーの表現としてたのしんでつかう。わかさの特権でもある。若いヒトビトと接していて、つくづくわかさっていいなあと最近感じる。


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