生きるうえで高校や大学で、そしておとなでも「倫理」や「倫理学」に注目してもっと選択してもいい
はじめに
高校で「倫理」をじっくり学べたのはさいわいだった。しかも「師」とよぶにふさわしい教師から教われた。
「倫理」ではヒトとはなにか、ヒトはどう生きるかをまなぶ。年をかさねるにつれてベースとしてこのまなびは有益なだけでなく、じつに奥がふかい。
きょうはそんなはなし。
「倫理」という教科
高校の教科で「倫理」に出あう。高校では教科名で社会はないけれど、「地理歴史」と「公民」からなる。「公民」には「現代社会」、「政治・経済」そして「倫理」の科目があり、そこから生徒が学年の進行にともない選択する。
倫理ということばはなじみがうすい。せっする機会がすくない。高校・大学で履修した経験がないとおそらくなかみを知らないままのヒトもいるはず。
倫理は、ニンゲンとはなにかという人間学でもあり、ヒトはどう生きるかという哲学でもある。規律や規範も。ほかの公民の分野として政治や経済を知ることももちろんたいせつだが、現代社会を生きるうえで「倫理」をまなぶ経験は一時期であってもとても意義深い。
さいわいにも
わたしは運よく、よい師に出会えた。高校の2年生のとき。担任でもあり公民の担当の教師。したがってしぜんに倫理をえらび、せっする機会をえた。
教師の話術はたくみ。ぐいぐい生徒たちをひっぱっていき意見を出させる。それをきっかけに授業がもりあがる。クラスの授業がおわってもほおを紅潮させて、休み時間まで生徒どうしで授業の哲学者の問いの意味の議論をつづけている。そんな授業はそれまで経験なかった。
高校生になるまでこんな学びの内容はなかった。じつに新鮮なせかいの見かた、かんがえかたが多様でおどろきだったし、どれもが興味深かった。
倫理をつうじて
せかいは科学が発達すれども、ニンゲンの根っこのところは紀元前からそんなにかわらないんだなあとか、たとえば実在したシャカやキリストってそれぞれなかなかニンゲン味のあるユニークな人物だったんだなとかんじとれた。
彼らがいずれも既存の生きかたや宗教にあきたらず、幻滅し生きかたを模索してくるしみぬいて、あらたな段階にいたり、さとる。そのすがたはまさに現在にもつうじるし、いまのだれひとり例外なく普遍的なものとしてすんなりはいってくる。
その経緯をまなぶなかですこしずつ理解がすすんでくると、さらに思想家たちの生きざまや思索のなかみを知りたくなってくる。受験勉強でありながら、まだ知りたいとかもっとかんがえる時間がほしいなと思った。
いっぽうで「あっ、そうか。」と内容がようやくわかってきたのは社会に出てからというある哲学者の言葉もある。とくに近代以降の哲学者の思索の言葉の意味を理解するのはなかなか難解。でもそれなりにいい。じわりとあじわいぶかい。
おわりに
「倫理」は人生の友。そんな気がする。いつまでも高校のテキストをかたすみにおき、ページに関係なく内容をよりふかく知りたい。そんな学問のひとつ。年をかさねるにつれてそれはつよくなってくる気がする。
理性をもちながら攻撃性をコントロールできないままのニンゲン。この今というときにおいてもその課題に解をみつけられない人類。
高校や大学だけでなく、おとなになってからせっするのでもいいかもしれない。
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