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畑でぼんやりと思うこと。


怪獣の卵みたいだ。こんな見た目でも中身は美味しく食べられる作物の神秘。しかし、中でもこの株は虫喰い多めで結球も弱かった。この様な外見だと皮を剥いても、もちろん中に幼虫が居るのでそれは取り除く。幼虫を食べても問題はないと思うが気持ち的に難しい。それでも農薬を摂取するよりはいいだろう。

「なんだこれは!?」

岡本太郎にとっての芸術の出発点は、フランスへ行ってピカソの絵を見て、なんだこれは!?と驚愕した時だそう。
そこから、芸術とは既成概念をぶち壊すもの、爆発だ!と思い至り、自身の背景へと目を転じ「なんだこれは!?」を探してみたら縄文に行き着いたとか。

写真の白菜も中々の”なんだこれは!?”ぶりではないだろうか。

そういえば岡本太郎は久高島のイザイホーも取材に訪れていたと記憶している。男子禁制のこの祭祀に岡本太郎が取材に行けたのか、踏み入ったのか、カネで買ったのか、私は知らない。
案外、島人の大らかさも相まって、”有名人枠“を急遽こしらえたのかもしれない。今も昔も人間は有名人が大好きだ。

きっと有名人は「羨望」と「お墨付き」の代名詞なのだろう。不安と自信のなさが生み出す虚像だと切り捨てるのはいささか乱暴か。

しかし岡本太郎を悪くいう人にお目にかかったことがない。
なぜだろう。
たしかに何だかチャーミングなところがある。
彼が書く文章には必ず人の心に響くフレーズがあるように思う。
きっと人間味が豊かで、総じて人間力の高い人だったのだろう。
いやらしい業界人の鼻持ちならない変な噂話が聞こえてこないのだから、正直でさっぱりしたところのある人だったのではないだろうか。

人間誰しも聖人ではない。皆、聖人ではないのに悪く言われてしまう人とそうでない人とで差ができてしまうのは、隠蔽したり、せこかったり、後ろ暗いところがあったりするからではないだろうか。

飲む打つ買うの三拍子が揃っていても、「豪放磊落」と言われる人もいれば、「どうしようもない落ちこぼれ」と言われてしまう人もいる。
そこの線引きこそがある種の人間社会における「野性」とでも言えるのではないだろうか。野性とはとどのつまり生きる力だ。

もしくはそれを処世術と言うのかもしれないが、どちらかというと危険な街の空気を肌で感じ取り、危ない目に遭うのを避ける感覚に近い話であると私は考えている。

踏み越えてはならない一線を直感で感じ取りながら、自分の思うままに振る舞える、もしくは振る舞っているように見える人が、この現代社会をサバイブする力に長けた人間であると言えはしないか。

現代社会における「野性」とは、そんな相反する警戒心と大雑把さがないまぜになった様な矛盾を抱える、繊細かつ大胆な理性と直感的な反応のことだと思うが、これではこの話自体が大雑把に過ぎる。

人間社会が急速に本質とずれていったのは第二次世界大戦以降のことと思う。
戦争そのものが人間の愚かさを正直に反映するものだったが、さすがに一度は人類はその悲惨さと阿保らしさに反省をしたのだ。

なにしろ我々はホモ・サピエンスという地球上に一種類だけの同胞なのだ。ライオンだって殺した同種を食いはしない。自らの利益と感情的な誘導によって同種間では考えられないような残虐非道の行いをするのは、実際に食べたわけではなくても他者を食い潰しているという意味では同義である。無論のこと、極限の飢餓状態での人食やカニバリズムも存在はする。

きっと4万年ほど前だったら人間社会はもっとシンプルだったのではないだろうか。
今ではすっかり歪んでしまった「野性」つまり生きる力は、現代ほど人目を気にしたり忖度したり権謀術数をこねくり回したりするような性質のものではなかったはずだ。

ライフラインを全てカネで買うのではなくて、質素で身体的なコストがかかる一方、生きることとその技術はもっと直結したものであったと思う。

そんなぼんやりとした感覚を10代の頃から持ち続けているうちに、私は美術と出会い、美術を通して他者と関係を持ち今に至り、3年前から畑や山歩きを通して具体的な地球との関係も持ち始めた。

地球との関係と、人間社会で生きるということを考え出すと、前述の通りすっかり歪んでしまった本質と対峙することになり、誰もがそこで思考的な苦労をしている。

「自給自足と口では言ってみるものの、それを現代の生活に慣れきった人間が本当に行えるかどうかはかなり難しい。」

というのが、ライフラインの自給率を上げた人達の共通の言であると思う。
今ではその類の本や言説はかなり増えてきたと感じる。
それだけ現代を生きる人々にそうした情報が求められているという証左でもあるだろうし、政治や社会は苦手だけれど、なにかこの社会システムの外に本質がある様な気がする、と思う人が増えてきたのではあるまいか。

その感覚を持って社会参加の意識を高めることは即ち知識社会化につながるものだと思うが、事はそう簡単には運ばない。

なにしろ日本人は前提を疑わない。
現社会を支える前提は「評価と価値」だ。

年末の芸能人格付け番組が馬鹿らしくも恒例化しているのは、価値の真偽、羨望対象の暗部を通して、一時的にでもその評価に動きが生ずるところに面白さを感じる人間が多いからだろう。
おそらくそれが日本人にとってはお気に入りのガス抜きの一つになっていると思われる。

「何かおかしい」と感じてもこの社会における評価と価値の前提を疑わないから、そこから外れると生存が脅かされると本能的に思ってしまうために、その前提から逃れることができない。
しかし感覚は社会からの逸脱を求める。そこで出てくるのが数々のガス抜きだ。

芸能人という戦後日本で培われてきた絶対的評価と価値が、目に前で一時的にでも崩れたりして、なぁんだ彼らも人間なんだと安心するのも、サウナで何が整うのか知らないが整ってみせるのも、ツールを買いまくって大自然にキャンプへ行って戸建て級の快適さを求めるのも、全て一時的なガス抜きだ。

そんなふうにして、日本人はどんな社会になっても順応を試みる健気な民族性を備えている。
即ち、順応が生存における主要命題になるということは、前提を疑うことが選択肢にないということを意味する。

前提を疑うということは根本を問い直すことに繋がり、そこには結果的に抜本的な改革が起こりうる可能性が秘められている。
しかし、前提を不動の価値観として据え置く限り、その前提から構築された自身を包括する枠組みにはけして抜本的な見直しや変革は起こりえず、結果的に順応するしか生きる術が無くなっていくのだ。これをジリ貧という。

冒頭の「なんだこれは!?」という素直な驚きで大事なのは、前提を疑うことへの思考を刺激するということなのだ。

日本ではイラストみたいなのも含めて芸術とは「視覚的に見て理解できるもの」という価値観の範疇を中々飛び出せない。
たとえ制作者がそれを試みたとしても鑑賞者についてこれる人が少ない。
また、制作者が下で鑑賞者が上という無意識的な上下感覚も少なからずあるだろう。
芸術家は貧乏でカネが欲しくて、鑑賞者や購入者はカネを払ってやっているという感覚のことだ。

しかし、芸術表現とは人類社会に寄与する行為であって、本質的には営利を目的としない。
無論のこと、世界には巨大なアートマーケットが存在する以上、芸術表現が非営利であるとはいえないが、カネを通した関係性は人類社会における新陳代謝の一部であり、思考的には我々の未来へ寄与するものであるとすれば、そこに生じるカネの動きは表面的な虚像に過ぎず、本来は価値観の提示とその受け取り、そしてその結果、そこで喚起された思考が社会に反映されていくという意味において制作者と鑑賞者の関係は同じ地平上にある平等関係である。

だから、制作者は鑑賞者の声に耳を傾け(売れたいからと忖度するのは違う)、鑑賞者は制作者の込めたメッセージを感じ取るべく互いに全力を尽くし合うことで、芸術行為における文化的、歴史的、社会的共通資本としての価値はようやくにして適切な機能を果たすことができるのだ。

作品という概念が生まれる以前、暗い洞窟の中で制作者によって描かれた像を媒体として、互いがイメージの授受をストレートに行い共有できた頃、美術表現は音楽や空間などと隔てられたものではなく、全てがイメージへの没入と共有のために収斂された極上の創造時空であった。

それが分かっていても中々そうできないのは、自給自足がそう簡単ではないことと似ていると私は思っている。

それは我々を取り巻く社会が4万年前とは著しく異なっているからだ。
そこでの葛藤、戦いの痕跡こそが私のアーティストとしての眼差しであり、現代を生きる人々と共有できる価値観であると私は考えている。

私の表現行為からも、少しでも「なんだこれは!?」と思ってもらえたら幸いである。
むしろ、癒されますねー、などと言われてもあまり嬉しくない。言われたことはないが。

無駄に長くなってしまったので触れられなかったが、並行して最近お気に入りの服部文祥について頭を巡らせている。彼は登山を身体表現と言う。実際、あいち芸術トリエンナーレでも写真家の石川竜一と出展している。
彼は一ヶ月の半分ほどを廃村の古民家で暮らしている。彼自身が持ち表現しているその問題提起と生き方そのものに、私の中にある「なんだこれは!?」と現代社会における葛藤と同じものを見ている。

服部文祥も数々の自然体験からたくさんの「なんだこれは!?」と遭遇したに違いない。そしてその「なんだこれは!?」という単純な感動から自身の生を担保する社会的前提への問いを醸成してきたのだと想像している。

一人の登山家がアルピニズムとは一線を画して生きることそのものに対し全身全霊で取り組んでいる様は、益々、身体表現としての精度を磨き上げているのではないだろうか。
私はそこにどこかしらアール・ブリュットと通じる、人間の表現行為における根源性を感じている。

冒頭の白菜の中身と小松菜🥬 虫喰いだって洗えば綺麗なものだ。


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