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まだまだ続くよ家庭菜園総括の前置き🥕

さて、今日こそは2022年度、家庭菜園の総括をしたいと思っています。とは言いながらもちょっとだけ。
さわりは今週のvideonewsから。知っている人は知っている。知らない人は知らない。一部の人には既に伝説的なインターネット番組である。

どこら辺が既に伝説かというと、世間にいち早く先駆けてインターネット番組を始めたこと、骨太ジャーナリストの神保哲生と異端社会学者の宮台真司というコンビに加え近年では幾人かの強力な協力者も得てパワーアップしている点、そしてクオリティーを落とさず、いやむしろ増しながら20年以上も番組の発信を続けており、無論のこと余計な忖度は一切なく、番組放映のシステムも改善され、時々の社会問題に対応したスピーディーかつ内容の濃い取材が行われ、視聴者が料金の支払い意義を実感できる民主主義的関係性の創出において、私は既にしてこれは一つの事件であり伝説であると思い毎週視聴している。

ちょっと褒め過ぎな文章ですが、好きなものはとことんベタ褒めするタチです…

今回のお題は「神宮外苑前の再開発の是非を問う」内容だった。
その中で私の心に響いたのは、環境倫理学者のキャリコットを引き合いに出した宮台真司の発言で、要約すると「場は生き物である」ということを前提に場という生き物と人間では持っている生のスパンが大幅に違う。故にその立脚点からのスケールも違う。なのにそこで人間本意の合理性に基づいて開発をすれば、必ず場という生き物の生命をズタズタに傷付け消滅させるものになる。しかし残念なことに人間は記憶の生き物であるが故に場に依存する存在なので、その自分を自分たらしめる根幹を傷付け失うということはこの世界において存在の根拠を失うことを意味する。といった内容だ。

まず人間が記憶の生き物であるという部分に注釈を加えたい。
人間の脳はまず「記憶、連想、想像と創造」の4つが基本的な機能であると私は考えている。そこに感受や認知、認識という反応系もプラスすべきだが、それらは全て記憶、連想、想像と創造に集約される。つまり、反応は経験値でストックの材料であり、そのストックを元に連想、予想、想像を駆使することで人間は自然を相手に奮闘し、やがて人間を相手にその知力、労力を費やすこととなったのだ。

話を戻すが、私という存在を規定するのは私が最初に根を張った環境なのだ。その環境を自らの手で破壊していくという自殺行為は果たして本当に合理的なのだろうか。環境破壊に必ずしも直接手を加えていないとしても、民主主義社会では全ての社会的責任は一人一人の市民にあるのだということを忘れてはならない。どんなに承伏しかねる社会的決定がなされても、その意思決定をした人間を擁立しているのは我々なのだ。

最初の根を張る環境が存在の根幹になるというのは、多少なりとも植物を育てている人であればすぐに共感してもらえるに違いないと思う。直播きとポット播きの差を考える時ふと頭をよぎる事柄ではないだろうか。目の前にいる子の生まれて最初の環境を考えれば直播きが良いに決まっているけど、育苗管理を考えるとポット播きの方が楽なんだよなぁ、と。無論、根菜やほうれん草、小松菜などは最初から答えは決まっている。

我々が「場という生き物に包括された存在」であるという部分には一体どれだけの人が共感できるだろうか。
これはとても重要な問題であると思う。この共感があるかないかで今後の日本社会は大幅に変わっていくことだろう。

なにしろ、そもそも場を生き物と認識しないで、そこに自分という存在の根拠があるとも思わない根無草のような人間が多くなれば、自ずとこの世界は人間の合理性のみで整理された、徹底的に無味乾燥で過度に安全・便利・快適というまやかしに特化したものとなるだろう。

安全・便利・快適がなぜまやかしかといえば、現代人の合理性に基づいたこれらの快適性は例えば安全を確保し過ぎるが故に注意力や思考力の低下を招き、利便性の追求はプロセスを失うことにより創造力と適応力を損ない、快適さの欲求はウイルスや菌や昆虫を過度に忌避し、我々を包括する環境がまさにその極小の生物たちに支えられているものであるということを忘れさせ、決定的に致命的な社会的間違いをいつ我々人類が犯すとも限らないという危険性を孕む。

私は2014年に大学院を修了し4年間の工事現場アルバイトを経て作家活動に専念し始めた。そして2020年から家の狭い庭と近所の家庭菜園で土を耕すようになり、初めて、人は生まれた土地を耕して生きるべきだという考えに至った。しかし、その考えを持つには一世代遅かったのかもしれない。

私が眺めている生まれ育った地域はまさに宮台真司の言うところの新住民化によって、森林や畑が嘘のように急速に召し上げられていき、開発の末の安全・便利・快適さを基に地価が上がり、しなくてもいい区画整理が断行され、20年以上前の説明会を根拠にいきなり何百万〜一千万を超える請求を各戸に迫るという人倫に悖る行いを平気で行政が行ってきた。この区画整理に憤り地域を出ていった家もある。

無論、これで喜ぶのは不動産屋と選挙の度に献金をもらうどこぞの議員だろう。自民党が地主と企業を抱き抱え、公明党が取りこぼされた大量の信者たちを動員することでこの国は動いているのだ。これもまた宮台真司の言葉だが、まさにどこをどう切っても金太郎飴のように日本の捩れ腐った顔が現れる。

ここでの行政というのはまさに場という生き物と人間存在との関係性など微塵も理解せず、負の遺産のみを残して死んでいく悪そのものの集合体ではなかろうかと私は思う。

ただ、一言付け加えておかなければならないことは私が公明党批判をしたところで創価学会を批判するものではないということだ。

問題は政教分離違反と宗教法人免税制度であり、政教分離の原則において公明党が違反しているのは公然の事実であるし、宗教が免税されているのは道理的におかしい。
そして、免税を利用し献金を大きな資金源として政治にまで影響を及ぼすという害悪においては制度上の観点から言って全ての宗教法人に差異はない。

そして、私が文化を信じているように、何を信じ生きるかは個人の自由だ。

それにしても前置きが長くなった。
これではさすがに一旦は筆を置かねばなるまい。

次回こそは…!!!

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