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映画「月」を見ました(ネタバレあります)。

宮沢りえ主演で津久井やまゆり園の事件をテーマにした映画、「月」を見た。原作に同名の辺見庸氏の小説があって、それが元になっている。ただ、小説では寝たきりで言葉を発せないきーちゃんの心理描写が主体となって構成されている。それをあえて描かずに、周りに配したオリジナルの登場人物たちで物語を紡いでいく構成が驚愕だった(辺見庸氏の小説は図書館で人気でリクエスト待ちをしているので、まだ読めていない)。

関心を持たれた方はぜひ映画を見て欲しい。ショッキングな描写がないとは言わないが、相当抑えて表現していて、役者さんたちの演技や会話によって表現が膨らんでいて、とても見ごたえがある。そして、テーマ。よくこれを描いたと思うし、その覚悟を感じられる作品だった。障害についてだけではない命のテーマがないまぜに織り込まれている。仕事、作品を作ること、子ども、家族、恋人や夫婦。それぞれの背景から事件につながるように描かれていて、本当に色々なことを考えるし、思わされる。映画以上に見た人の感じ方が面白いんじゃないかとも思う。

最後に話題になっている東京ニトロさんの映画評について触れる。「FUCKすぎて見に行く人を減らしたい」と書いていて、僕は全く賛同できないし、的外れだとしか思えない。いや、いいんだけどね、感じ方は人それぞれだからさ。

では、ここからネタバレします。

宮沢りえの演じる洋子は、元ベストセラー作家だったが、当たった一作目以降作品が書けていない。東日本大震災を取材して書いた作品だったが、編集に読者は希望が読みたいんだと言われ、それに沿って書いた。そして、本は売れたが、自分の言葉が紡げなくなってしまった。それで、書くことを諦めて、居住式の障害者施設で働き始める。

オダギリジョー演じる旦那の昌平は、人形劇作家。定職にはつかず、途中でマンション管理のバイトを始める。満月のようなランタンに照らされた夜の海の上の木製の帆船で海賊たちが戦っている、それをアニメーションで動かすのだ。原作の小説では最後に事件を起こすさとくんの心象風景として描かれているようで、どこまでも優しくて頼りない昌平の作品として設定されているのも面白い。

洋子と昌平には、心臓に重度の障害を負って生まれ、3歳で亡くなった子どもがいて、2人はまだそのことを消化しきれていない。洋子は辛かった気持ち、また子供が障害を持って生まれたらどうしようという気持ちを頼りない昌平に話すことができないし、昌平は子どもが好きで、死んでしまった子の写真を見たいのだけど、洋子に気遣ってこっそり見たりする。

重度障害者施設で洋子よりも先に働く陽子とさとくんは、最初の人当たりはとても良い。しかしそれぞれ鬱屈するものを抱えている。仲良くなるとそれが少しにじみ出てくるし、洋子と昌平の家に遊びに来てお酒を飲んで、さらにそれをぶつけてきたりもする。陽子は小説を書いているが中々認められず、洋子の東日本大震災を元にした作品には綺麗ごとばかりで、現場の汚いものが書かれていないと詰るし、さとくんは昌平のアニメーションはすごく好きだし分かるが、音と臭いにこだわった方がいい、なんて自分勝手な解釈を押し付ける。

そんな陽子とさとくんの鬱屈も、社会からのマイナスの影響が強く働いている。陽子の家庭は厳しいキリスト教徒だけど、そのようにしつけた父親が半ば公然と浮気をしている。さとくんは良かれと思って施設で紙芝居をするのだが、先輩に余計な仕事を増やすんじゃねえとすごまれて、手書きで書いた紙芝居をぐちゃぐちゃにされてしまう。

他にもいろいろな人物が出てくるのだけど、価値観の違いと、それぞれが交わらない具合がとてもリアルで面白い。ああ、こういう人いるよなぁ、話通じないだろうなぁ、相手もそう思ってるんだろうなぁ、そう感じる。今思ったけど、人かそうでないかをさとくんは「話せるか話せないか」で線引きした。だけど、話せたからって通じることは奇跡なんじゃないか。

コミュニケーションが取れないのが、会社ならまだいい。だけど家族みたいに近い人となると大変だ。身近で、分かって欲しくて、でもどうしようもなく他人だ。映画の中で洋子が子供を授かったのが分かった時に、それを昌平に伝えることができない。次の子も苦しんだらどうしよう。事前検査をするのか、いっそ中絶してしまおうか。だけど、自分の事を師匠といって慕っている昌平は、自分のマイナスの感情をぶつけるにはどうしようもなく頼りない。そこで二人で思っていたことを、最初の子のお墓の前でようやく話せるシーンが二人のクライマックスとなる。

障害者施設で、話ができず窓が厚紙で塞がれているきーちゃんに、洋子は感情移入していく。胃ろうで食事を摂取するのも最初の子と一緒だった。そして、誕生年月日が自分と一緒なのである。そこで動けないのが自分であるような気もしてくる。ある雷雨の晩に一つの部屋から大きな音がする。そこはずっと施錠されている開かずの部屋で、洋子も陽子もかけつける。決まりでは開けないことになっているが、さとくんは意に介さず鍵を開ける。そこで、便のまき散らされた部屋でベッドから落ちながらマスターベーションをしている老人を目にすることになる。

さとくんはその老人の目に自分を映す。そして、何かが変わる。そこから事件に向かっていくというように、映画では描かれている。このシーンがショッキングだと言う人は多いし、障害者を貶めていると思う人もいるようだ。だが、あのシーンは障害者を貶めているという主張は、自分はその低俗とは関係がないと言う事と同じだ。性産業が発達して、でも社会の裏に置かれている。法外なお金をホストにつぎ込む風俗の女の子と、それを買い続ける男たちがいる。自分は関係ないと言うのはいい。だけど、そんな社会に住んでいる。そして、同じ体を持っているのである。

事件が起こる少し前に、洋子はさとくんの様子がおかしいことに気づき、声をかける。そこで洋子はさとくんの思想を聞くことになる。心を持たない、意思の疎通ができない障害者は人ではない。人は生きるために動物を殺して食べる。人ではない障害者は殺した方が社会のためなんだ。洋子は「絶対に認めない」と何度も叫びながら、語るさとくんに自分の心の声が引き出されていく。「陽子に綺麗ごとしか書いてないって言われたよね。それって本当なんじゃない?障害がある子が早く死んで良かったって思わなかった?施設で働いてこうならなくて良かったって思わなかった?だって、今の子、中絶しようかって思ったじゃない。」

映画の筋に関してはこれで終わりにする。人権だと言って、人の価値に線引きすることを、それ自体不謹慎だと思う人も多い。逆に安易な人権に反感を持つ人もたくさんいる。日本の死刑制度は人権侵害だと欧米からは繰り返し言われてきた。僕は死刑制度には反対の立場だが、この事件を起こした植松聖は死刑が確定した。会社で後輩から、今までの残虐かつ心がないのかというような事件を色々挙げられて、この犯人も死刑にしない方が良いと言うのか?と問われたこともある。

仏教では昔から仏性と言って、悟りを開くことができる性質は誰までが持っているのかということが議論となってきた。有名な禅の公案(なぞかけみたいなもの)に、「狗子仏性」というものがあって、犬は果たして仏性を持っているのか?と長らく考えられてきた。女性には仏性は無いと考えられた時代も本当にあった。仏性の有無を疑うというのは、言わば人間かどうか疑うということだ。

戦後日本では山川草木悉有仏性という言葉ができた。すべてのものに仏性がある。その考えは高尚だったけれど、逆に建て前感が強くなったのかもしれない。仏教の生まれたインドで、木石に仏性があるか?とは疑問になりもしなかった。日本は長く使ったものは付喪神になる国だし、八百万の神が自然にいると考えてきた国だ。一方で高度経済成長して、分業が進んでオートメーションで日用品が作られ、その中で各々は仕事をして何か社会に価値を還元しないと生きていけない。

洋子と昌平は回転すし屋さんで出会ったのが馴れ初めだった。二人でタマゴの握りに手を出して、「あっ」となったところから会話が始まった(という設定になっている)。話し合うことができた後二人は記念日に回転すし屋に行く。二人がお互いに相手が好きだ、改めて一緒に頑張って生きて行こうと誓う中で回転すしがレーンを回り続ける。そして、TVの生中継で事件の報道が流れるのだ。

さて、次に、流行っているらしい東京ニトロさんの映画評に触れたい。なんせ「月」をくそみそに批判しているのである。

見るたびに♡が増えてるな。。

さて、彼女の批評というか批判というか、怒りの絶叫?は、面白いので直接見て頂くとして、一番大きな主張は、障害者支援施設の実態が、誇張して劣悪に描かれていて、こんなひどい状況の人たちに生きている意味はあるの?との問いが恣意的でおかしい、というものだ。ガンガン利用者を閉じ込めて、劣悪な状況が支援の当たり前みたいに描かれているけれど、そんなの通報事案で、一般的ではない。施設が山奥なのはいいとして、職員が舗装されていない山道みたいなところから出勤してくるのもおかしいし、そこに這う蛇やミミズを映して、意図的に気持ち悪いものと表現しているのではないか、と言っている。

植松聖の裁判では、彼の思想だけじゃなくて、施設の管理体制にも色々とそれを育てる要素があったのではないかということが問題視されている。事件が起こったのは2016年だが、2020年に入所者の長時間の身体拘束など不適切な支援の事例が数多く寄せられ、津久井やまゆり園の支援の実態を調査することになった。そして2020年5月に一部の利用者に24時間の居室施錠や身体拘束を行うなど、やまゆり園の「虐待」疑惑の実態が明らかになっている。

調査資料を読んだけれど、身体拘束には3つの要件があって、「切迫性」「非代替性」「一次性」の全てを満たし、しかも要件の確認が慎重にされるべきとされているのだけれど、同系列の6つの園ではほぼどれか一つでいいと考えていたというアンケート結果が主だった。県側の担当者も意識が薄かったことが調査で指摘されている。東京ニトロさんは「県のマニュアルに沿ってるんだ」っていう映画の中で施設長のコメントはありえない!と言っているが、、え、全然あり得るじゃん、って思ってしまう。

参考:神奈川県障害者施策審議会 障害者支援施設における利用者目線の支援推進検討部会

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/64792/houkokusyo.pdf

映画パンフレットを見れば、監督は行ける限りの重度障害者支援施設には行って、実際に見聞きしたことしか扱っていないと書かれていた。映画の中でも夜勤中障害のある方がふらーっと出てきて(ちょっと乱暴に)連れ戻されるシーンもあったし、長期施錠されていたのは例の嵐の夜にマスターベーションをしていたおじいちゃん一人だけじゃないかなと思う。きーちゃんは動けないから施錠する意味がないし、この方が静かだと窓がボール紙で覆われていただけだ。実際に検討部会でも、外部刺激が少ない方がいいと医師の診断があったものは、疑いにくくそのままになるケースがあったと報告されている。

徒歩で舗装されていない道を通うシーンが、非現実的で恣意的だと言う東京ニトロさんの主張もあったが、これも納得できない。実際に同じホームで職員として働いていて植松聖と書簡もやり取りして著書を出版し、専修大学で教えている西角純志さんという人がいる。

そこでは、施設には男女別8つホームがあって、独自の色彩が施されているが、中の作りは同じで、1本の共通の鍵で出入りできるオートロックになっていて、初めて訪れる見学者は、美術館や博物館のように迷路と感じるのではないか、と述べている。そして、最初に外から施設を見た時に、「千と千尋の神隠し」の世界を連想したとも書いている。そこには一種の異世界性があって、それを映画のように描いても特に不思議には思わない。

映画中では確かにヘビとミミズがクローズアップで映されるシーンがあって、ホラー映画みたいに不当に障害者施設を怖いものだと表現するものだと東京ニトロさんは批判している。確かに、正直あそこは意味が分からない。障害者をヘビやミミズに喩えているように僕にも感じられた。ただ、犯行の少し前にさとくんがミミズを踏み潰すシーンがあって、じゃあ、それに共感するか?っていうとそんなことはなく(え、ないよね?)、東京ニトロさんの言うように「『ほら怖いだろう。はい、いまあなたは障害者施設を怖いと思いましたね。はい論破!』をやりたくて仕方がないというのがわかる」、と言っているが・・いや、分からない、な。

東京ニトロさんは、映画でさとくんの紙芝居が「良い支援」の代表として描かれているとして、それを批判している(もちろん悪い支援とされているものも例外的すぎると批判している)。さとくんは「はなさかじいさん」の紙芝居をするが、良い支援ではなくて、さとくんの独りよがりを描いていると感じる。さとくんがこのシーンが一番好き、と語りながら紙芝居をめくると、悪いおじいさんが犬の指示で穴を掘ると何やら気持ち悪いものがうじゃうじゃ出てきました、という場面。それで施設の人たちに「この気持ち悪いもの」ってなんだろうね?と語りかける。皆微妙な空気になる、という感じで、良い支援とは到底思えない。個人的に興味深かったのは、その「取り組み」と言えるような場に、施設長が来ていなかったことで、管理者の現場への関心の無さのようなものが表現されているように感じた。

東京ニトロさんもそうだし、文中で引用されてとても救われたとされる「窓の外」さんのツィートもそうだけど、「これが障がい者支援の現実です!彼らは生きていい?悪い?と問うのが詐欺的」だ、と言っているのだけれど、根本的にテーマがズレていると思う。

これは他にも見つけた映画評で、

こちらでも、「障害者を生かしておく価値はあるか」という問いへの答えが最後に軽くて空中分解しているみたいだ、と書いている。

いやね、そうじゃないでしょう。障害者は生きる価値がないと考えて、殺した方がいいと考えて実行しちゃった人が社会に出た、それが問題なわけでしょう。さとくんはこの社会の何を吸い取って育ったか、それはいかに我々にも存在するものなのか、それが問題でしょう。もう植松聖は生まれちゃったんだから。

石川監督は「モデルとなった事件のことは決して他人事には思えない。極端に言えば人類全体の問題のはずなのに、世間では目を背ける人があまりにも多い。」と、映画のテーマについて述べているけれど、これこそがテーマであって、だから、出産の事、自己実現の事、生産と仕事と人生のままならなさと、登場人物の各様のそれをさとくんと丁寧に輻輳させているのであって、「月」のドラマ性はそれに尽きると思っている。

東京ニトロさんは、登場人物も、障害者の方々も、リアルな生活のシーンが全然描かれていなくて、自分と同じ人間と感じられないようになっている、と書いている。いや、全然分からん。一緒に食事するシーンは結構出てくるし、昌平がマンション管理のバイトを始めたすぐに、洋子に「今日は鶏肉にしたよ」って言ったシーンでは、こいつ仕事やめたのか?だから安い鶏肉にしたのか?ってちょっと冷や汗かいた(バイトは続けてた)。

それにそもそも、差異を際立たせるなら洋子や昌平たちの生活シーンは描かれていないと、障害者だけリアルに感じないってことにならないんじゃないか?

東京ニトロさんは「この映画は人間の「本質」を、「死刑囚の首の骨が折れる音」や「死刑囚が処刑時に流す汚物」のような浅~~~いモンに求めようとする。」って書いてるけれど、それはさとくんの偏った思想であって、そのように描かれている。どう映画を見ればそれが映画のメッセージだって曲解できるんだろうか。

東京ニトロさんは人の人権の本質は「生活」にあって、社会に認められることじゃない、と述べる。ここはすごい大事なので、細かく書く。まず「宮沢りえたちは一時的に、夫オダギリジョーのよくわからんアニメが賞を取ったこと=社会に認められたことで救われる」って書いているけれど、そうじゃないと思う。昌平(オダギリジョー)は、さとくんが昌平の職場(マンション管理)に表れて、二人で喫茶店に行って議論になる。そして、「話せない人=心がない=社会では価値がない」論に、「お前の言ってること一つも分からない、息子は三歳で死んで、一言も喋れなかったけど俺は息子を愛している。価値がないなんてよく言えたな」と激高してぶん殴る。体を鍛えていたさとくんに逆にぼこぼこにされるのだけど、その帰り道でアニメが小さなフランスの賞を取った、と連絡が来る。昌平は飛び上がって喜ぶけど、それを洋子に伝えるのは、洋子が新しい作品を書き上げる後の話だし、そもそも洋子はベストセラー作家で、社会に認められたことで別に救われたりしていないのである。

社会に認められることじゃなくて、生活が大事だ、それが失われているんだっていう気持ちはよく分かる。エコノミーという言葉の語源はギリシャ語の「オイコス」にあるけれど、それは家庭的なものを指す言葉で、対極にあるのは「ポリス」つまり社会やルールだった。その「オイコス」がエコノミー、つまり経済として発展していったわけだけど、日本語でそれが訳された時に「経世済民」から「世」と「民」が抜け落ちて「経済」になった。今や「世」も「民」も、オイコスの中にさえなくなってしまった。これは単に言葉遊びに過ぎないようだけど、メタファーだけど、とても本質的なことだと感じている。

洋子が子を失くしたことに苦しめられ続けていることへの批判もひどいと思う。『映画の制作陣に「生活や営みに価値を置くことで当然のように帰結するはずの答え / かつ、ふたりを救う唯一の考え方:「失った子供との、あの3年間はかけがえがないものだった」っていう発想が生まれようがない。自分たちの生活そのものに価値を見出して、だから自分自身や他人の存在そのものを大切にすること、それ自体を排している。』って書いている。人の救いに唯一の答えを持ち出して、その人の苦しみを断罪しているのが許しがたい。生活や営みに価値を置く感じ方から、そうでない感じ方を断罪するのは、人権に線を引いたさとくんと同じだ。

洋子がもうあんな思いをしたくない、と身ごもった次の子を産むのを躊躇するのは、三歳で死んだ子の苦しみに共感したからだ。一方昌平は、そうしながらも可愛かった子どもの事を思い出して、大切にしている。僕はあまり子どもに関心がないから、どちらにもそれ程共感できない冷たい人間だ。だが、自分と違っても二人の気持ちは尊重したいし、理解したいとは思うのだ。

東京ニトロさんがあれだけ腹を立てて、絶叫して、こんな映画見る価値がないと言って、そうして何かに傷ついているようだった。その痛みは何なのかまでは僕には分からない。ただ、あの事件とその犯人に寄って映画を作ったならば、我々の社会のその犯人に近い側の世界を描くことになる。そうしたら、被害に遭われた方や、障害のある方の支援をしておられる方の目指す世界と、違う社会の側面が描かれることになるだろうし、それは誰かを傷つけるのかも知れない。意図的な悪意があると東京ニトロさんは言うけれど、そんな風には思えない。物語とそこに出てくるものはいっそ平凡だった。だけど、言葉と演技にはすごい熱量があった。それは、何かに媚びるためのものではなく、何かを抉るためのものだったと、僕は思っている。

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