SNSで映画を批判することの難しさと、映画『月』に対する批判、そしてそれとは別に映画『TATAMI』のこと

アカウントを見失ってしまって引用できないけど、先週くらいにTwitterで映画宣伝アカウントによる「映画を批判しないで、良い感想だけ書いて」というツイートが話題になっていた。映画を愛するならポジティブな感想だけ書いてください!みたいなやつである。

当然のことながら、このツイートには批判も多くあった。批評するな、と言ってるのも同然だからだ。批評が宣伝になってしまった、という以前の指摘をそのままなぞるような内容の、ある意味では無邪気で迂闊なツイートだったと思う。

しかしまあ、個人的にはその映画宣伝アカウント氏が言いたいことは分かるというか、SNSでの「批判」がちゃんとした「批評」として機能するのはすごく難しい。それは一瞬にして「否定」になり「糾弾」になってしまう。

今のSNSがコンテンツを批判しない、褒めてばかりだというのは嘘で、正確には「多数が褒めるものは我も我もと褒めるが、これは叩いていいとなったらたちまち集団で袋叩きにする」というのが実情だ。

朝ドラクラスタはその最たるものだし、『大怪獣のあとしまつ』もそうだった。今ではポジティブな評価に逆転しているが『ハケンアニメ!』の公開初日あたりにもネガティブな感想だけがバズり、ビッグネームのアニメ関係者が見てもいないのにその批判に乗っかってまたバズるという光景も見られた。

もう一つ、SNS批判が難しい点がある。
「ありがとう。あなたの批判を見て、見に行くのをやめました」
映画を批判するとしばしば、こういう感想が来る。
そうじゃないのである。それは自分の感性を他人に委ねているだけである。

文芸批評家の豊崎由美氏の『文学賞メッタ斬り』という手法はまず「文学賞の審査員になるほどの高名な作家たちがきちんと批評をできているかをチェックする」という批評への批評であり、また作品を批判するにしても、文学賞の候補になるほどのものなら批判を読む読者も読んでいるだろうということを前提に批判するわけである。みんな読んでる前提での批判の極北が村上春樹批判とも言える。しかしそこで「そうなんですね。村上春樹ってつまらないんですね。じゃあ読むのやめてゲームします」と言われたら豊崎由美氏も困惑すると思う。批評とはそういうもので、読む前に「あの本つまらないよ、やめときな」と吹き込むものではない。

つまり、ポジティブな絶賛が「宣伝」になってしまうSNSにおいては、ネガティブな批判もまた「反宣伝」ネガティブキャンペーンにしかならない。褒めれば宣伝で、批判すれば批評になるほど状況は単純ではない。

とはいうものの、やはりある種の批判を書いておかざるをえない映画というものは存在する。
タイトルにも書いたと思うが、石井裕也監督の『月』の話だ。

上で書いたように、これは糾弾とか否定ではない。こんな映画だから見るな、という話でもない。見た上でここに書いたことが正しいかどうか確かめてもらえればと思う。

石井裕也監督作品では相次いで『愛にイナズマ』も公開されていて、こちらはとても素晴らしい映画になっていた。しかし『月』に関しては、同じ石井裕也監督のスタイルと映画で扱う「障害者の大量殺人」という実在の事件を題材にしたテーマが悪い意味で化学反応を起こし、あまり良くない作品になっていると感じた。

『月』のストーリーを簡単に説明すれば、障害者施設に新人介護士として勤務することになった堂島洋子(宮沢りえ)、その年下の夫である売れない人形アニメ作家の堂島昌平(オダギリジョー)、先輩としてそこに勤務している坪内陽子(二階堂ふみ)、おなじく同僚で大量殺人を起こすことになるさとくん(磯村勇斗)が主な登場人物だ。

最初に『月』のよかった点から書く。宮沢りえ、二階堂ふみ、磯村勇斗、オダギリジョーら豪華な俳優陣は素晴らしい演技をしていたと思う。二階堂ふみは朝ドラやメガヒット映画にも出る一方、こうした重いテーマの作品にも意義を感じて出演してくれる俳優だし、磯村勇斗は『PLAN75』とはまったくちがう役柄ながらみごとに演じていた。

では、何がよくなかったのか。最終的には脚本の限界というか、「重度障害者に対する殺人」という、作り手が自ら設定したドストエフスキー的なテーマを扱いかねたまま終わってしまっている(ように見える)ことにつきると思う。

「そんなに簡単に答えが出る問題ではないのだ、安易な綺麗事やハッピーエンドにすることを拒否したのだ」という見方はもちろんあるだろう。しかしながら、この映画は実際の障害者たちを俳優として使っている。実際の障害者の映像で観客に「現実」「衝撃」を突きつけ、磯村勇斗に「こいつらに生きる意味はあるのか」と言わせ、二階堂ふみに「彼らを見て心の中で気持ち悪いと思わなかった?」と問いかけるという重い手法を秤の片方に乗せた以上、秤の片方には「その問いかけに対して作り手はどう思うのか」という作り手の体重を乗せなくてはならないはずである。しかし、この映画はそれができず、単に観客に問いかけたままで終わっている。

作り手、監督が悩んだことはパンフレットのインタビューで語られており、「ラストにはすごく悩んだ」「重い主題を扱うこの作品で、最大限の希望を書かなければこの作品に関わる資格がないと思った」という監督の率直な言葉が吐露されている。

しかしその希望が「書けなかった小説家が再び小説を完成させ、芽の出ないアニメ作家がフランスの小さな賞を受賞し、2人は生きていく」というラストでは、作り手が自分で設定し、秤の片方に乗せた重いテーマとの均衡が取れていない。それは単にクリエイターとしての私小説の問題であって、障害者の尊厳という自分で設定した主題とは何の関係もない話である。

石井裕也監督をこの点で責めるのは酷だ、という見方もあると思う。そういうスタイルの映画監督であり、実際『愛にイナズマ』のような、売れない映画監督と売れない俳優をテーマにした私小説的作品では素晴らしい仕上がりを見せている。今作に関しては、そうした石井裕也監督のスタイルとテーマが噛み合わなかっただけだとも言える。

だが、その「噛み合っていない」「打ち出した問いの重さと、作り手が答える希望の軽さがまるで見合っていない」という指摘は誰かがせざるをえないと思う。この映画は前半から中盤にかけて、「これでもか」というくらい実際の障害者の映像を使う。障害者ではなく俳優が演じている部分では、監禁された障害者が糞尿にまみれて自慰をしているかのようなショッキングな映像も見せる。その上で「障害者を生かしておく価値はあるか」と磯村勇斗演じる犯人に言わせ、そして延々と殺害シーンを描き、そしてラストに置いた希望が「宮沢りえは再び小説を描き、オダギリジョーは人形アニメを作りました」では、自分で打ち出したテーマに答えられていないのだ。

シンプルに整理すれば、『愛にイナズマ』は、「こんなにダメな私たちって、生きる価値あるかな」という一人称の問いかけに「やはり私たちは生きていきます」という一人称の答えが出せているのだが、『月』は「障害者って生きる価値あるの?」という三人称の問いかけに対して「健常者の私たちは、その答えはわからないけど生きていきます」というズレた一人称の答えを返すしかなくなっているということだ。

それを石井裕也監督のせいいっぱいの誠実さ、と評価することも可能ではあると思う。『愛にイナズマ』も『月』もそうだが、「心にもないきれいごとで作品を作りたくない、一人称で心の底から応えられることだけを映画にしたい」という思いは一貫しているからだ。

しかし、そうであるなら「一人称で答えられない」三人称の問いかけ、「障害者に生きる価値はあるか」という問いかけで映画を作るべきではないと思う。

「現実はきれいごとではない」「汚さや醜さも含めて人間である」という『愛にイナズマ』で描いたテーマが『月』では分離してしまい、障害者はひたすら映像的にショッキングに、病院の職員たちは暴力的で非人間的にという「絶望」の部分が現場の現実の人間に背負わされ、「希望」の部分は宮沢りえが小説を書き、オダギリジョーが人形アニメを作るという、監督ら作り手がクリエイターとして自己を投影できる登場人物たちに投影されている。

この「クリエイターだけが人格と魂を持った人間である」という描き方も『月』では上手くいっていない。磯村勇斗が演じる犯人も絵本を作っており、二階堂ふみもまた小説家志望で、病院の職員が「ヒトラーも絵描きのころは平和主義者だったらしい」と言わせるように、創作をある種の特権的に崇高な行為として描いているのだが、それは「自分を表現しない者に人格はない」という犯人の思想とどこかでシンクロしてしまっているように見える。辺見庸の原作である『月』は、障害者の一人称を仮想で書き綴ることで「魂はあるか」という問いに答えようとしているが、映画ではその手法が使えないために、クリエイターとしての自我を健常者に投影するだけに終わっている。

率直に言って、監督自身が作りながら悩み、迷走しているようにも見えるし、「現実にあったことで、取材を重ねた」「今は施設の環境は改善されている」とパンフレットで語っているのも、映画に対するフォローのようにも見える。しかしそれは、分厚いパンフレットの中で文字で補足すればいいというものではないはずだ。

『月』がこういう形になったのは、パンフレットにも書かれているとおり、そもそもの企画の立案者であり、石井裕也監督にこの映画をオーダーしたプロデューサーの河村光庸氏がクランクイン前に急逝してしまったことが大きいと思う、最もこのテーマに強いモチベーションを持った人物が制作前に死去したために、彼の残した「問いかけ」に、残された石井裕也監督が苦しみながら完成させた映画とは言える。しかし前述したように、この結末では、ショッキングな「問いかけ」の犠牲になった現実の障害者や職員たちに重い負債が残ったままだと思う。それは日本映画界全体がいつか返さなくてはならない負債のはずである。


『月』の感想はここまで。『愛にイナズマ』は石井裕也監督の資質と合致した素晴らしい映画になっていたので、できれば両方見比べてほしいと思う。


さて、東京国際映画祭では『TATAMI』という映画が話題になった。女子柔道で、イスラエルとの対戦を拒否するために棄権させられる女子選手を描いた映画である。この映画の舞台挨拶で、女性プロデューサーであり、映画に出演もしているジェレミー・レー・ニューマン氏が登壇し「映画の歴史においてイランとイスラエルが映画で協働したのは初めてのはず。このこと自体が奇跡」と語っていた。このことについて、そして同時に「この映画を作る時と今で、世界は変わってしまった」と語っていたことについて、月額マガジン部分で書きたいと思う。

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