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【体験談】環境の変化に弱いので、ちょいちょい「適応障害」になります

病んでるつもりも、メンヘラなつもりもないのですが、これまでの人生で明確に2度(「おそらく」を入れると3度)、「適応障害」になりました。
普段はとっても元気でのんびりマイペースなのですが、環境が激変したり、それにともなう悲しいことが起きると、バキッと心が折れてしまうのです。
社会人になってから1度目の診断のあと、自分はメンタルが弱いということを自覚したうえでセルフケアに気を付けていたのですが、このたび2度目もやらかしまして……。精神的なものの制御はなかなか難しいなあと実感しています。

「部署異動」+「恋愛難航」=1度目の適応障害

なんでそんなことになっちゃったのか

初めて適応障害の診断を受けたのは2016年のことでした。
その年の夏に、入社から6年間所属した管理部から引きはがされて、営業部の事務方に部署異動となったのが最大の要因です。
部署異動。
一言でいえてしまうこの言葉ですが、悲喜こもごも、詰まってます。いや、「喜」はないか(笑)。
何がそんなにわたしの心にダメージを与えたのかしらと振り返って、ぱっと羅列するとこのような状態でした。

  • 管理部に骨を埋めたい!と思うほど当時の業務内容が自分に合っていた

  • わたしより後に入社した男性社員が、わたしの異動と同時に係長に昇格した(厄介払いされた気分になった)

  • 「ジョブローテーション」という名目で、わたしの異動先から同レベルの女性社員がわたしのポジションに異動。直後、社内報の部署紹介コーナーで、わたしがいた部署が取り上げられた(わたしがいるはずだった居場所を奪われた気分になった)

  • 異動先の部署は昔から嫌われている部署だった

  • 異動先のチームでリーダーに任命されたが、コミュニケーションや業務内容の理解を進めようとするも「お客さま扱い」で疎外感の日々

もともと異動先の部署に対してマイナスイメージしかなかったことに加えて、実際に異動した後も、作業効率や雰囲気の悪さに辟易としてしまっていました。コミュニケーションがうまくいかなかったのは、「改善は無理じゃないかしら」と諦めモードなわたしの気持ちがメンバーに伝わってしまっていたのかもしれません(今だからこそ冷静に振り返られることですが)。
自分の居場所や存在意義が失われてしまった気分になり、「わたしって……必要?」と思い悩むようになりました。
そして、とある昼下がり。
高層ビルにあるスパの露天風呂につかりながら、「ここから飛び降りたら楽になるかなあ」、などと本気で考えてしまいました。その日の晩、涙が止まらなくなって、翌朝は体が動かなくなって。ああ、これは、ダメなやつだ。その日から会社に行けなくなってしまいました。

どうやってお休みして、何をして過ごしていたのか

異動先の部署の実務メンバーはみんな自分のことで精いっぱいな様子でしたが、部署のトップである部長は全体を見てくださっていました。部署へはお休みの連絡も入れることができなかったけれど、部長にその時のありのままの気持ちをメールして、会社に行くことができない旨を伝えたら、すぐに電話をくださり、長時間話を聞いてもらいました(今考えるとはずかしい~)。
部長のアドバイスで初めて心療内科というところを受診して、そこで「適応障害」と診断されました。主治医と話して、ひとまずゆっくり休みましょう、ということで。特にお薬の処方などはなく、仕事のことを考えずひたすら楽しいことをして過ごしました。本当に不思議なもので、仕事のことさえ考えなければ元気なんですよね。
この頃お付き合いしていた彼氏と食フェスに行ったりして、とにかく美味しいものを食べまくりました(笑)。母親とも日帰りで温泉に行ったり、銀座のちょっといいレストランで食事したり。平日の昼間にゆったりと遊びまくりました。

恋愛面も原因のひとつだったかも

職場における疎外感や孤独感が要因だったと考えていますが、今思うと恋愛面も影響していたかもしれません。
この頃、彼氏にプロポーズされて結婚に向けてワクワクしていたのですが、なんと彼がわたしに内緒で会社を辞めていたことが発覚。しかもずいぶん前に。転職先も決めずに!
「む、む、む、無職の状態でプロポーズしてうちの両親に会ったんかー----い!」と、理解不能な事実に一気に不信感が募ってしまいました。まあ、彼が無職だったおかげで、休職中平日に散々デートできたんですが……(笑)。
直接的な決定打ではないですが、遠因にはなっていたかもしれませんね。ちなみにこの彼とは年明けにお別れしました。会社辞めたの黙ってた事件からすれ違いが多くなって、修復不可能になってしまいまして。ちょっと会社で言いふらしてしまっていたので、浮かれてしまったことを後悔しました。後の祭り。

1ヵ月半で復帰

「仕事していない自分」という状態がソワソワして逆に不安になってきてしまったため、1ヵ月半で復帰することになりました。心身を休められたことはもちろん、年明けに組織変更があることを部長から聞かされて、心機一転できる!と気持ちに区切りをつけることができたからです。ゆっくり過ごす間に、あまりにも悲観的になりすぎていたなあと自省することもできました。サラリーマンである以上は部署異動は宿命。むしろほかの部署を経験することで厚みを増すことができるかもしれないと、前向きに考えられるようになりました。
ただ、1ヵ月という期間はすこし性急だったようで、復帰後すぐに体調を崩してしまって、年内は数えるほどしか出勤できませんでした。年末まで思い切って休んじゃえばよかったです。

「母の死」+「父との溝」=2度目の適応障害

乗り越えられると思っていたのに……

それから6年が経った2022年の夏、2度目の適応障害で休職することになりました。
6月に最愛の母が亡くなったのが最大の引き金。脳腫瘍の母を、平日は在宅勤務の姉が、週末はわたしが泊まり込みで介護する生活が1年半ほど続いていたので、気疲れがドっと出たのは事実でした。
ただ、余命宣告されて過ごしてきたので、喪失感に対する心の準備はそこそこできていました。また、母の死におびえる日々からの解放感も、正直ありました。なので、母が亡くなった、というだけで心が折れることはありませんでした。

しかしこの「死」にナーバスになっているところに、お世話になった会社の幹部が急死するという事態が発生。母の葬儀の翌週のことでした。所属部署総出で社葬の対応にあたり、何百人もの参列者の対応をする疲労は相当なものでした。単純に、お世話になった方が亡くなったことへの悲しみも大きいです。母の死でダメージを受けた心がさらにすり減り、「やめて!もうわたしのHPはゼロよ!」状態です。

そこに、父によるストレス爆弾が炸裂しました。

元々、父が原因で母がメンタルを病み、別居することになっていました。姉も父とはソリがあわず、仲は良いものとは言えませんでした。わたしもそんなに「お父さん大好き」という訳ではなかったのですが、70歳を過ぎた父親が家庭内で孤立するのは見るに堪えないという思いもあったので、一家離散後、月に1度は父と食事をするようになりました。一人暮らしになった父の健康を案じて、時にはおおめに作ったお惣菜をタッパーに詰めてお土産にしたり。母の様子を伝えて、父の暮らしぶりを聞いて……と、母・姉サイドの仲を取り持ち、父の考え方や気持ちを理解しようと努めたつもりです。
が、
母の死後、毎日お金の話をする父。
葬儀代がどうこうは仕方ないものの、死亡保険がこれだけしか出ない!とか、口座の解約がどうとか云々かんぬん……。
「まだ悲しみに浸っていたいから、お金の話はちょっと後にしてほしい」と何度言っても、「わかった!」と返事からの、翌日にはまたお金の話。
さすがに耐えかねて「毎日お金の話ばかりでしんどいからやめてほしい」と伝えると、「毎日なんてしてないだろう!」とご立腹。さらに、「お父さんの方が悲しいんだ!!」と謎の悲しみマウント。からの、「早くやらなきゃいけない理由はないけど俺が早くやりたいんだ」と、娘の気持ちより自分のやりたいこと優先宣言。

母の介護やそのための休息にあてられたはずの時間を、父との親睦や理解を深めるために使ってきたわたしの気持ちをすべて蔑ろにされた気分になりました。
手が震えて、汗と涙と動悸が止まらない。
もちろん、寝ようとしても眠れない。
これはやばいやつだと理性では分かって、ひとまず何も考えずに寝るべきでしたが、
ここまで話し合いができない父とまともに向き合ったら、病気になる。
そうか、お母さんは何十年もこうして向き合おうとしたから、病気になったんだ。
つまり、お母さんはお父さんのせいで死んだんだ。

……という思考回路に陥ってしまって、もう、そこからは眠れず食べれずです。

週末をはさんで月曜日、身支度を終えて出勤直前。息苦しさを覚えて、少し横になってから会社に行こう……とおさまるのを待っていましたが、おさまらず悪化。Twitterで状況を呟いたら即座にフォロワーさんたちから「救急車!」「医者!」「救急安心センター!」とアドバイスをいただき、結局救急安心センターに相談してから救急車を呼ぶことになりました。

心因性の過呼吸ということで、あーもー、がんばれてたのに、大丈夫だったはずなのに、父ちゃんのストレス爆弾のせいで心折れちゃったじゃないか!と悔しさでいっぱいになりました。毎日涙です。

今回のお休みはどう過ごしたのか

またも心療内科へ行き、「適応障害」の診断。2度目ともなると、嫌になってしまいますが、仕方ありません。上司にも理解いただき、しばらくお休みをすることになりました。

今回の原因ははっきりと、仕事ではなく「母の死」と「父」と分かっていたので対処がしやすかったです。

まず「母の死」については、すぐに乗り越えられるものではないので、泣きたいときは思い切り泣く!ことを自分に許してあげました。
納骨前に、おりんを鳴らして線香をあげることで少し心が落ち着いていたのを思い返し、自宅にも小さな祭壇をつくりました。
きれいな音色のおりんを買って、母に最後まで添い寝させていたうさぎのぬいぐるみを写真の隣に置いて。話しかける対象があるというのは、心が休まるものですね。お線香の香りもリラックス効果があるのかな。

もうひとつの原因である「父」に関しては、姉が間に入ってすべてをブロックしてくれることになりました。ストレス爆弾炸裂のときに、「全部お父さんのせいだ」、「でも親に対してこんなことを考えるなんて」、「年老いてきた親を嫌うのは人としていけない気がする」という気持ちを姉に打ち明けたところ、「いやまず自分の健康を第一に考えろ。たとえ実の親でもストレスの原因にしかならないんだから距離をおきなさい。なるべく優しくしようとしていたあなたにそこまでのことを思われるのは、父の自業自得だから、あなたが気に病むことはない」と断言してくれて、心が軽くなりました。姉は元々父のことが嫌いでストレス爆弾の一件でさらに嫌悪が増しているので、語り口に躊躇がありません。いっそ笑ってしまうほどの容赦なさです。

数ヵ月経った今でも、父に対する申し訳なさはありますが、LINEが来るだけでも気分が悪くなるので、既読をつけられずにいます。相続のことなど事務的なことはすべて姉がやりとりしてくれていて、わたしは姉経由で状況を把握しています。何年かしたら、もしかしたら父と話せる日が来るのかもしれないけれど……まだ当面、無理ですね。そんな日が来てほしい、とも思えない心境です。

ともあれ、ストレスの原因から離れ、のんびり夏休みをさせていただくことで、心はだいぶ落ち着くことができました。こんなに長い休暇はこの先2度とないだろうと思うと、なんだかもう少し休んでいたいかも……というずるい気持ちが出てきてしまうのも、元気になってきた証拠だと思います(笑)。

2ヵ月半で復帰予定

体調の波があったり、前回焦って復職して結局休みがちだったので、今回は2ヵ月半のお休みをいただきました。10月に会社に戻る予定です。仕事起因の適応障害ではないので、もう復帰したくてたまりません。心療内科の主治医も、会社の産業医も、特に就業制限は必要ないだろうとコメントをくださっているので、復帰後はバリバリ!働きたいと思います。

幼少期のアレももしかしたら適応障害だったかも

実は出生直後から、父の仕事の兼ね合いで渡英し、幼少期を英国で過ごしていました。英国の幼稚園は大変自由で、やりたいことをやりたいようにやらせてもらえる環境だったようです。
そんなやりたい放題のびのび育ってきたわたしが5歳のときに帰国し、日本の幼稚園に入園し、規則正しい生活を……送れるはずもなく(笑)。母から聞いた話によると、ストレス起因で顔面麻痺?になってしまって、登園できなくなった時期があったそうです。
こころの病が現代病として理解されるようになったのはここ数年のことかな、と思いますが、あの時のわたしが今診断を受けたら、やっぱり適応障害と言われるのかもしれないなあ、と振り返ってみて感じました。



幸いにも、わたしは「うつ」までは行かずに、精神状態を回復することができています。でも、「うつ」と隣り合わせタイプの人間なんだろうな、という自覚はあります。これに関してはもうきちんと自覚をもって、そんな自分と向き合って、こまめにセルフケアを続けていくしかないんだろうなぁ……。

最愛の母をうしない、部署異動にも慣れ(あれから2度異動してます)、もうそんなに大きい環境の変化はないんじゃないかなあ!?と考えていますが、いつどうなるかわからないのが人生です。弱い自分を受け入れて、変に思い詰めないように、日々明るく生きていきたいものですね。

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