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読書は、自らが教師となり自分に教えること

■本を読むことは、筋トレ

読書は、自ら内容を理解しなければならない
そのため、本を読む際は、その内容を自らが
能動的に創造する必要がある

一方動画は想像された内容を伝達してくれる
そのため動画を見る場合は、受け身で内容を
評価する消費者のままで構わない

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読書は、自らが教師となり自分に教えること

 今日インターネットの中には、膨大な情報があります。その内容は、要点がまとめられて、わかりやすく、もはや読書は必要ないと考える人もいるくらいです。しかしインターネットのまとめ記事や動画を見ることで本当に読書の代わりになるかというと、そうとは限りません。なぜなら、インターネットでは、自分が考えずとも内容が理解できるように作成されており、情報を受け取る姿勢はいつでも受動的な立場になりがちだからです。
 
 読書をする場合、自分が能動的に理解する姿勢が必ず必要となります。そのため本の内容が難解であれば自分の理解が足りないと考えますが、インターネット上のすでに誰かがわかりやすく編集した動画を見る場合、内容がわかりにくいと相手の責任にします。つまり、読書の場合は自分が、自分に対して理解させる教師にならなければいけないので課題の中心は、自分になりますが、動画の場合、自分は、受け取る消費者でいるため、よくわからない場合は、相手の責任とし、次の動画に簡単に以降するのです

 読書は、単に知識や情報を集める受け取りの行為ではありません。読書は、能動的に本の内容の理解に努め、自ら、自分自身に理解させていくために創造をしていく行為です。小説であれば、文章の表現を材料に自らが監督となり頭の中に映画を作り出します。本を読む人の中には、消費者として自分を楽しませてくれる内容だけを好む人もいます。しかしそれは、手に取っているのは書籍でも、やっていることの中身は、ネットサーフィンと変わりません。大抵の人は、「創造」よりも自分を楽しませてくれる内容の「検索」をしたがるのです。頭の中に映像を作ることを面倒だと考えるか、楽しいと考えるかは、人それぞれの価値観ですが、作られた映画を見ることと、自ら映画を作ることには大きな違いがあるのは、確かなことでしょう。

 今あげたことを料理に例えれば、レトルト食品がインターネットで自炊が、読書といえるかもしれません。 質の高いレトルト食品であれば、生きることに十分な栄養は取れるでしょう。しかし、レトルト食品は、その手軽さゆえに、自炊した時の「作る喜び」や「他の人に食べてもらう喜び」は、ありません。わざわざ、手間暇かけて自炊することを美化するわけではありませんが、物事を効率化することは、単純に無駄を省くという意味と同じではないのです。

 

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