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本の風景 『赤と黒』スタンダール(1830年刊)


     

赤と黒(岩波文庫)

電車で


 ある日電車の中で、一人の若者が文庫本を床に落とした。眠ってしまったらしい。一瞬、文庫本のタイトルが目に入った。『赤と黒』だった。その瞬間「ジュリアン・ソレルとマチルダ」の名前が浮んだ、それは、半世紀以上も前に読んだ小説だった。今読んでいる小説の主人公すらなかなか覚えられない昨今、それは衝撃的な瞬間だった。マチルダがジュリアンの首を抱くシーンが浮かんできた。
 その頃、中央公論社から赤い表紙の『世界文学全集』が出版された。それを片手に、電車で通学した。幼稚な自己表現だった。
しかし本は読んだ。そして、時に浮かんでくる。

野心と愛


 『赤と黒』の主人公「ジュリアン・ソレル」はフランスの田舎町で、木挽きを生業とする強欲な父とともに、貧しい日々をおくっていた。彼はラテン語で聖書をすべて暗記しており、その才智は周囲を驚嘆させ、特権階級への彼の野心を育んだ。村長のレナール家の家庭教師を手始めに、レナール夫人との恋と破局。そして、一人逃れた後の、パリ有数の貴族であるラモール侯爵の秘書としての地位。彼の能力は、侯爵の信頼を得ていく。そして、娘マチルダとの恋と彼女の妊娠。愛する女性へ時に見せる純粋な心情。それは彼の野心の実現の、まさにその直前だった。
しかし、この時、レナール夫人によって、かつての恋の顛末が暴かれ、激高した侯爵によって追放される。野心の崩れ去ったジュリアンは、レナール夫人を銃で撃ち、ギロチンの露と消える。死体を買い取ったマチルダは「大理石の小卓の上に…ジュリアンの首をおいて、その顔にくちづけ」をする。

スタンダールと王政復古


スタンダール


 スタンダール(1783~1842年)が『赤と黒』を発表したのは1830年、フランス王政復古の時代だった。「赤」は軍服、「黒」は僧服を意味する。それは共に特権階級の象徴であった。「フランス革命(1789年)によって、「三部会」と呼ばれた身分制度は廃止された。貴族と僧侶の特権は奪われ、追放された貴族たちは海外に亡命した。しかし革命政府が、対仏軍事同盟との戦いに勝機を見いだせない中、ナポレオンが台頭、帝政となる。そしてナポレオンがロシア戦線に敗れ、失脚すると、フランス社会は再び王政に戻った。これが王政復古で、まさに『赤と黒』の舞台となっている。それ故この小説には「❘一八三〇年年代史❘」の副題がついている。アメリカなどに亡命していた貴族は一挙に舞い戻り、かつての領地と貴族年金を取り戻し、特権階級としてのその体制の維持に汲々としていた。その陰鬱で反動的な社会の中で、ジュリアンの野望と挫折が悲劇的に、かつ皮肉をこめて描かれている。『赤と黒』は当初その評判はあまり高くなかった。しかし隣国のゲーテが、複雑な歴史舞台の中での人物たちの葛藤とその心理描写を絶賛した。以来、スタンダールのこの小説は文学史上確固たる地位を築く。

恋と人生


スタンダールは裕福なブルジョアジーの家庭で育ち、ナポレオンのイタリア遠征にも加わっている。ロマンチストで自由主義者の彼は、王政復古に批判的でその思想が『赤と黒』に結実した。  パリ7月革命(1830年)によって、復古王政は廃止、立憲君主制が樹立した。以来、スタンダールは、「パルムの僧院」など多くの作品を残した。彼は情熱こそが人間の真の価値を表す、と考えていた。恋が人生を犠牲にする、そうした生き方を愛し、恋し、描いた。
パリモンマルトルの墓碑銘には「生きた、書いた、恋した」と刻まれている。(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2023年10月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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