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【洋楽雑考# 22】〜 説明しづらいその魅力〜The Who

皆元気? 洋楽聴いてる?

いやぁ、どうなっちゃうんだろうねぇ、


Woodstock 2019...

1969年の同フェス開催から50周年で、8月16日から18日までと開催日までアナウンスしたは良いが、

チケットの発売はまだだし、一旦キャンセルがアナウンスされた後も、開催場所として名前が残っていたNY州のカー・レース・サーキットも

金銭的な問題でフェイド・アウト。


あと2ヶ月で完全なオーガナイズは不可能に近いと思うけど、

ロックの歴史に燦然と輝くイベントだけに、何とか踏ん張っていただきたいもの。



さて、今回取り上げるのはそのオリジナル版Woodstockでのパフォーマンスも印象深い


The Who !!


1950年代後半からシンガーのロジャー・ダルトリー(当時はリード・ギター)が中心となってバンドの母体となるグループ、Detoursとして活動。


1964年、念願だったデビューも視野に入った矢先、

Johnny Devlin & the Detoursなる別のグループが存在していることを知ったギター・プレイヤーのピート・タウンゼントは

ルーム・メイトのリチャード・バーンズと次のバンド名を探していた。


"No One"、"The Group"などの候補が挙がり、

タウンゼントは"The Hair"を推していたのだが、バーンズが"ポップで力強い"という理由で"The Who"を提案、

ダルトリーが決断を下した(ちなみに当時の絶対的リーダーは彼だった)。

同時期に初代ドラマーだったダグ・サンダムが実力不足からバンドをクビになる。

その穴を埋めたのが、The Beachcombers というセミ・プロ・バンドで活動していたキース・ムーン。

キック・ドラムのペダルを壊したり、ドラム・ヘッドを破いたりと、

当時から相当なやんちゃぶりを発揮していたようだが、そのエネルギーにバンドは感服し、加入が決定、ラインナップが確定する(もちろん、ベースはジョン・エントウィッスル)。


同年7月に「Zoot Suit / I'm the Face」の両A面シングルをリリース。

ただし、これはThe Who名義ではなくthe High Numbersとしての作品。

当時のイギリスを席巻していたのは、モッズ・ムーヴメントであり、

バンドはマネージャーからの提案で改名、変則的なデビューとなった。


残念ながら同シングルはヒットせず、

また"オレたちゃ、モッズじゃねぇし"というバンドの反発もあり、The Whoへとグループ名を戻す。


時期を同じくして、キット・ランバート、クリス・スタンプという映画畑出身のコンビがマネージメントを手がけるようになった。

彼らのTシャツなどに見られる"Maximum R&B"というキャッチ・コピーも当時生まれている。

ランバートの強い勧めもあってオリジナルの楽曲を書き始めていたタウンゼント。


1965年1月にThe Who名義でのデビュー・シングル「I Can't Explain」を発表、

全英8位という上々の滑り出しを記録。

このヒットには、違法ラジオの後押しがあった。

当時のBBCはまだ非常に保守的、かつポップ・ミュージックに割く時間も少なかったらしい。



そして10月、サード・シングル「My Generation」リリース、

全英2位の大ヒットを記録する。

当時のロンドンといえば文化的に尖りまくっていた時代、

少し前に日本でも公開された映画、「バットマン」シリーズで有名な俳優、マイケル・ケインがナヴィゲーターを務めた、

その名も「My Generation」でもわかるように、正に流行の最先端がロンドンに集約されていた只中で、

The Whoは若者たちの強烈な支持を集めたのだった。


12月リリースの同タイトルのデビュー・アルバムも5位を記録、これ以上ないスタートを切ったように見えていたのだが...

同アルバムはシェル・タルミーの手でプロデュースされたのだが、印税の配分を巡ってバンドと対立、マスター保持&原盤権を主張、

さらにイギリスのリリース元ブランズウィックが67年に閉鎖されたこともあり廃盤扱いに。

タルミーとの和解に至る2002年まで、正式な再リリースがない、いわくつきの作品となってしまった。


1966年になり、バンドは「Substitute」(邦題「恋のピンチヒッター」...ぎりぎりセーフか、これ。)を4作目のシングルとしてリリースするのだが、

ここでもタルミーはB面曲「Circles」の扱いを巡って横槍を入れてくる。


オリジナル・ヴァージョンのシングルはわずか5日で発禁処分となるのだが、

新たなB面曲として「Waltz for a Pig」(インスト楽曲:The Who ではなく、Graham Bond Organizationというレーベル・メイトが演奏している)を用意して、再リリースした。


デビューからつきまとうドタバタ、それに伴うバンド内の人間関係の悪化(元々、ムーン/エントウィッスルの2人の関係を除けば、バンドの仲は良くなかったらしい)を反映したワケでもないのだろうが、

バンドのライヴ・パフォーマンスは日に日に暴力性を増して行く。


元を辿ると、馴染みにしていたクラブでタウンゼントがギターを演奏中、

腕を高く上げたところ天井を直撃、観客が大笑いしたのに立腹した彼が機材を破壊したのが、その後の彼らのトレードマークになった楽器を破壊するパフォーマンスに繋がっているのだが、"天然デストロイヤー"ムーンが目覚めてしまったことは非常に大きい(問題だった)。


1967年にはバンドの次なる目標としてアメリカ進出が企てられたのだが、そこでもムーンは炸裂。

TV番組"Smothers Bros Comedy Hour"でのパフォーマンスは今でも悪名高い。


キック・ドラムに火薬を仕込んで観客を驚かすはずが、ムーンは'Cherry Bomb'という爆薬を通常の約10倍仕込み、演奏の最後に爆発させる(https://youtu.be/ZF_unm13wnM)。


映像を観ると分かるんだが、ギターを壊すタウンゼントの目前でモロに爆発が起きており、

その後数十秒、明らかに彼は意識朦朧。

それもそのはず、その後彼を悩ませる聴覚障害の原因はこの時の負傷...


また、同年のモントレー・ポップ・フェスにおけるジミ・ヘンドリクスとのいざこざも悪名高い。

良く分からんのだが、出演順を巡って両者は対立(これって、プロモーターはあらかじめ決めてないのかね?)、

普通であればトリの座をどちらが取るか、でモメると思うのだが、

彼らの場合、どちらが先に出るか、観客を驚かせるか、という理由でケンカに。

アメリカ人であるにもかかわらず、最初に人気が出たのはイギリスだったヘンドリクスは、わざわざイギリスから自分のツアー用機材を輸入、

それに対して借り物の機材を使ったThe Whoとの勝負の結果は...

ライター・オイルをギターにどぼどぼかけて燃やすという狂気じみたヘンドリクスのパフォーマンスに軍配が上がったのはご承知の通り(バンドの出演紹介をStones のブライアン・ジョーンズが担当しているのも印象的)。


その後、バンドはHerman's Hermits のサポートでアメリカをサーキットするが、

このHerman's のメンバーも、相当な曲者だったようで、仲良しになったムーンは更にパワフルに(やめて〜〜〜)。

8月23日のムーンの誕生日(まだ21歳!!)

パーティーの損害額は24,000ドル...

ムーンの欠けた前歯の代わりに、バンドは団結力を手にしたらしい(こ、ここで?)。



同年末にリリースされたサード・アルバム「The Who Sell Out」はバンド初のコンセプト・アルバム。

曲間にジングルや、架空のコマーシャル・ソングを挿入し、アルバム全体をひとつの番組のように仕上げている。

シングル・オリエンテッドだったバンドが、初めてアルバムを完全に意識した作品になったという見方もできる。

ちなみに本作からのシングル「I Can See for Miles」(邦題「恋のマジック・アイ」...限りなくアウトに近い)は、バンドにとって全米での最大のシングル・ヒットになった(9位)。



そして、デビューからわずか4年。

彼らの最高傑作と称されるロック・オペラ「Tommy」を1969年5月リリース。

父親の殺人事件を目撃し、そのショックで視覚、聴覚を失い、かつ発達障害を併発した少年トミー・ウォーカーの物語。作曲、アレンジの大半はタウンゼントの手によるものだが、プロデューサーとしてクレジットされているキット・ランバートのインプットも大きい。

バンドのマネージャーでもあるランバートの父はコンスタント・ランバートという高名な作曲家/指揮者で、彼自身もオペラ、クラシックへの造詣が非常に深かった。


当時バンドの財政はかなり逼迫しており、レコーディング費用を捻出するため、作業のない週末をライヴにあて、何とか完成にこぎつけたという。

2枚組の大作となったが、全英2位、全米でも4位を記録、バンドのみならず、ブリティッシュ・ロックを代表する作品となった。


同アルバムを引っさげてバンドはWoodstockに出演。

土曜日の夜に演奏するはずがイベントの仕切りは悪く(当時は許されたんだねぇ)、実際に彼らがステージに上がったのは日曜の早朝5時...


ムーンを筆頭に、ヒッピー的"のほほんムード"をバンドは嫌悪しており、相当に機嫌が悪かったことは容易に想像できるが、演奏中のステージに政治活動家が上がってきて、タウンゼントにギターで殴られたり、

"愛と平和"とはかけ離れたものになった。


その後のイベントの評価とは裏腹に、ダルトリーは"今までで最悪のライヴ"と評し、タウンゼントは"アメリカ中がおかしくなったのかと思った"と語っている。

「See Me, Feel Me」の演奏中に登ってきた朝日を見て、

"僕たちの照明担当は神だった"と大人のコメントをしたエントウィッスルは偉い。


1970年を迎え、バンドの経済状態はようやく安定、Tommy Tourは佳境に入る。

実際にオペラ・ハウスでのライヴもブッキングされ、彼らはNYのメトロポリタン・オペラ・ハウスで演奏した初めてのバンドという栄誉も得た。



同年初頭からバンド初のライヴ・アルバムのリリースが計画される。

過去の膨大なマテリアルからベストなものをピックアップするという作業が当初行われたのだが、

タウンゼントがあっという間にブチ切れて"テープを全部焼いてくれ!"と要求(どうして、そう極端なのか...)、

その代わりにリーズ、ハルという2箇所で行う2日間のライヴを録音することを決定。

ハルでのパフォーマンスは機材のトラブルもありお蔵入りとなり、結果的に「Live at Leeds」とタイトルされたライヴ・アルバムは5月リリース。

そもそものコンセプトが、スタジオでのレコーディング・テクニックの限界に挑んだ「Tommy」と、

バンドの生演奏がどれほど違うのかを示すために計画されたこのアルバム。

オリジナル盤はわずか6曲の収録でありながら、いかに当時の彼らが優れたライヴ・パフォーマーであったかを存分に知らしめた。 

エントウィッスル、ダルトリーがバンドの成功を素直に楽しんでいたのと裏腹に、

タウンゼントは以前から師事していたインド人導師のメヘル・ババの教えと、突如裕福になった自分の生活が矛盾しているのではないかと悩み、

ムーンは以前にも増して危うい日々を送るようになっていた。



同時期に「Tommy」に続くオペラ作品第2弾「Lifehouse」の制作準備が始まっていたのだが、

あまりに複雑なコンセプトのため計画は頓挫、

アルバム用にレコーディングされた楽曲をコンパイルする形で急遽リリースされたのが1971年の「Who's Next」。

満足の行く作品とは決して言えなかったようだが、遂に念願の全英1位を獲得。



エントウィッスル、タウンゼント、ダルトリー、それぞれのソロ・アルバム・リリースを経た1973年、

2作目のロック・オペラ「Quadrophenia 」リリース。


1960年代中期ロンドンを舞台に、4つの人格を持つ少年ジミーを主役としたストーリー、それぞれの人格はメンバー4人を象徴している。

また、1979年には本作を元にした同名映画(邦題「さらば青春の光」)も公開。


アルバムは英米ともにチャート2位を記録する大ヒットとなったが、タウンゼントが語ったように、クリエイティヴィティの面でもこのアルバムをピークとして、徐々に彼らを黒い霧が覆う。

アルバム・リリース後にムーンは離婚、その粗暴性はますます増加、アルコールと動物用鎮静剤(ど、どこで手に入るの...?)を併用しステージに立ったもののそのまま昏倒するなど、もはやまともな状態ではなくなっていた。



1974年にリリースした「Odds & Sods」はエントウィッスルの編集による未発表曲のコンピレーション、

翌1975年にはダルトリー主演の映画「Tommy」が公開(監督:ケン・ラッセル:この人自身も相当にヘンだったらしい)となり、

ムーンは最初で最後となるソロ作品「Two Sides of the Moon」をリリース。

アルバム「The Who by Numbers」に伴う1年にわたるスタジアム・ツアーがセッティングされた。

75年12月にミシガン州ポンティアック・シルヴァードームで行ったライヴには屋内史上最多の78,000人を動員、

また翌76年5月にロンドンのThe Valleyでのショウでは120dBの音量を叩き出し、ギネス・ブックに「最も大きな音のバンド」として公式に掲載された。


1976年のRolling Stone誌で最優秀グループに選出される栄誉とは裏腹に、

ムーンはフロリダでもツアー途中に入院、アルコール、ドラッグのコントロールはもはや不可能に。


1977年にはドキュメンタリー映画「the Kids Are Alright」(79年公開)用にコンサートを行なうが、

ブランクのためにまともな演奏ができず、ほとんどのシーンがお蔵入りに、翌年5月撮り直しされるのだが、そのショウがムーン最後のものとなってしまう。



3年ぶりのフル・アルバム「Who Are You」リリース後まもない78年9月6日、バディ・ホリーのバースデイ・パーティに参加(主催したのはポール・マッカートニー)した後にロンドンの自宅フラットでドラッグにより昏倒、7日に遺体で発見された。


ムーンの後釜として、Genesisのフィル・コリンズらが尽力を申し出たのだが、最終的にFacesのケニー・ジョーンズを加入させ再始動。


1979年には前述の映画作品2本が公開となり、モッズ・リヴァイヴァルの原動力となった。

同年12月号のTime誌には、The Beatles、The Band以来3組目の表紙として登場。

無事に1年を終えるはずだったのだが、ここでもバンドに非情の嵐が。

12月3日にシンシナティ州で開催されたコンサートで入場ゲートに殺到した観客が将棋倒しとなり、

11人が死亡するという大事故が発生。


1981年、82年にジョーンズ参加となる2作のアルバム「Face Dances」、「It's Hard」をリリースするが、

バンド内の軋みを修正することはできず、遂にフェアウェル・ツアーを迎えることになる(アメリカ&カナダ:サポートを務めたのはThe Clash)。

翌83年12月16日、記者会見を行ったタウンゼントはバンド脱退を発表、


それはThe Whoの解散を意味していた。


しかし、それからわずか2年も経たない1985年7月、

Live Aidで最初の再結成、約10年後の1996年に開催されたプリンス・トラスト・コンサートから本格的な活動を開始、

ドラマーの椅子をゲットしたのはリンゴ・スターの息子であり、ムーンからドラムのレッスンを受けていたザック・スターキーだった。

しかし、2001年6月27日にはジョン・エントウィッスル急死。

ツアー初日を翌日に控えた状態で、死因はやはり薬物の過剰摂取であった。


そして、バンド結成40周年となる2004年のツアーの一環として、7月にようやくタウンゼント、ダルトリー2人のオリジナル・メンバーではあったが、初来日が実現。

3大ブリティッシュ・バンドと称されたThe Beatlesは遥か昔に解散、

そして実現不可能と言われていたRolling Stonesのジャパン・ツアーから遅れること14年、その波乱万丈のヒストリーに新たなページが加わったのである(バンド単独のツアーは2008年が最初)。



Stones、そしてBeatlesに比較されることの多い彼らなのだが、後続のアーティストへの影響、特にブリティッシュ・ロックについては非常に大きい。

パンクスから、ぶ〜すか文句を言われ続けたStonesと異なり、The Whoは彼らからの支持も熱かった。

前述したようにThe Clashがサポートを務めただけでなく、Sex Pistolsのスティーヴ・ジョーンズ、ポール・クックらもバンドの大ファンだった。


また、モッズ・リヴァイヴァル・ムーヴメントからは当時のイギリス、そして日本でも大人気を博したThe Jamらが登場。

非常にざっくりとした言い方が許されるなら、その後のブリット・ポップに至るまでのギター・ミュージックの始祖のひとつとなったとさえ思う。 

「Pinball Wizard」のオープニングを例に挙げるまでもなく、非常に洗練されている一方で、ロックのダイナミズムを体現するサウンド・メイキング。

日本の若いバンドにも、ジェネレーションを超えてその影響は確実に残っている。


1970年代の彼らが仮にネット社会に放り込まれていたら、タウンゼントは毎日誰かをギターで殴り飛ばし、ムーンは"今日の損害額"をレポートされていただろうか。


近寄り難いカリスマ性、これこそ彼らの本質であり、それは同時に今のロックから抜け落ちた牙だ。

※本コラムは、2019年7月3日の記事を転載しております。


■THE WHO オフィシャルサイト

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