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ほしいのはママ友じゃない

子育てを始めて5年になるけれど、ママ友と呼べるような存在はひとりもいない。今のところそれで困ったこともない。

長男の保育園の同じクラスのママとは顔を合わせれば世話話をする程度の仲だ。休日にわざわざ待ち合わせたり、一緒にお酒を飲んだりすることはない。

自分は、もともと友達が少ないタイプではなかった。高校や大学の頃は部活やサークルに勤しみ、友達同士の家で寝泊まりしたり旅行したりと、いま思えばまあまあ充実していた。

そんな自分が「ママ友は要らない」と信じるに至ったのはなぜか。思い返すと、小中学校時代にさかのぼる。

「女子」がめんどうくさい

私は小さいころから極端な運動オンチで、かつボンヤリしている子だった。よく聞くスクールカーストとやらの中では間違いなく弱めの存在で、どうも気の強い女子生徒につけこまれやすかったらしい。口先ばかりの「親友」たちのあいだで順番にまわってくるスケープゴート的役割になりがちだった。ちなみに「親友」ということばは、いまでも苦手だ。

中学校に入学したばかりの頃、おたふく風邪にかかってしまい数日休んだことがあった。久しぶりに登校したら、女子生徒グループから自分ひとりがはじかれて孤立してしまった。ちょうど遠足でグループ行動をしなければならない時期だったのでよく覚えている。

その遠足は、結局となりのクラスにいたアニメオタク女子のグループにひっそりと混ぜてもらった。彼女らがそれほど仲良くもない自分を暖かく受け入れてくれて、染み入るほどありがたかった。でも私ときたら、心の片隅では周りからオタクの仲間であると思われることにバツの悪さを感じていた。いま思い返すと、情けないし下らない。

そのうちまたクラスの中での勢力図が変化し、○○ちゃんと絶交しただの、休み時間一緒にいようだのと女子グループ再編がはじまった。私はいつだって主体性がなく、巻き込まれて流される側だった。部活動のいざこざや恋愛沙汰もあいまって、中学の3年間は混沌とした友人関係に揉まれたが、ふたを開ければカーストの「中の中」ぐらいで卒業となった。

あの頃は、子どもながらにこうした人間関係の移ろいにモヤモヤを感じつつも、孤立するのもこわくて「まわりに求められる自分」をがんばって演じていた。

この時期の女子どうしの関係性は、自分自身の振舞いもふくめてどうにも居心地悪いものだった。私は大人になってから中学校以前の友人たちと彼女らとの思い出に嫌気がさし、すべての関係を断絶してしまった。

女子ほぼ不在の女子校生活

高校は地元でいちばん進学率の高い女子校に進んだ。とはいっても、田舎の公立高校なので進学校と呼ぶには気がひける、全国的に見て偏差値がど真ん中くらいの学力レベルだ。

その女子校では「スクールカースト」のような概念は一気に薄らいだ。理由はわからないが、おそらく小中学校で女子たちのパワーバランスを左右していた「モテ」があまり力を発揮しない世界だったからではないだろうか。

女子校で多かれ少なかれ共通するであろうことだが、女の子しかいない世界では、ふざけたりちょっとした無茶をしたりといった共学では男の子がやるような役まわりを女の子が担う。彼女たちの言葉づかいや振舞いはお世辞にもかわいらしいとはいえない。早弁も、つまらない教師へのヤジも、体育祭の騎馬戦も、やるのはぜんぶ女の子だ。女の子だから、女の子なのにという言いまわしはもはやナンセンスだ。

さらに私たちの学校では、かわいい子も、オタクも、スポーツ万能な子も、秀才、ヤンキーもふつうの子もみんなほぼフラットに共存していて、他人に干渉しない・されない個人主義的な空気があった。生徒各々が部活や勉強、趣味、アルバイト、おしゃれなど自分が好き勝手にやりたいことに没頭していた。

ではタイプの違う人どうしがまったく関わらないのかといえば、そんなこともない。ときに利害が一致すれば交流も生まれる。たとえば、毎日フルメイクでネイルもパーマもピカピカな子と、ひっそり推しキャラの同人誌を執筆するオタクな子が同じ漫画本を回し読みしたり、ともにクラスの秀才に教えを請いながら定期テスト対策をするなんてことはよく見かける光景だった。

いまにして思えば、男の人からモテるかどうかを気にしなくていい、そして付き合う友達によって自分自身の価値が決まらない世界は、学校の外よりもずっと自由で個が尊重されていた。もちろん、世の中すべての女子校がそんな世界だとは思わない。もしかするとあの時代あの場所で奇跡的にできた環境だった可能性もある。

いずれにしても15歳から18歳までの間、フェミニズムを通過することなくこの環境を享受できたことが、良くも悪くもずっと私自身の価値観の根っこにあると思う。

ママ友よ、さようなら

自分が通っていたあの女子校は、私にとってひとつの理想的な人間関係、理想のコミュニティだったのかもしれない。それぞれの心の内で好き嫌いはあっただろうが、関わりたくない相手とは距離を置けばいい。自分と違うことを理由に他者をあからさまに排除したり、拒絶するような姿はほとんど見られなかった。

翻って、いまの自分にとって「ママ友」という存在はなんなのだろう。つくづく私は「ママ友」という言い方が腑に落ちない。ママであろうとなかろうと気があうから友達ではダメなんだろうか。あるいは、ママだからといって無理に友達にならなくてもいいんじゃないか。

少なくとも自分にとって、近くにいるママどうしは利害が一致したときにはじめて目的を共有する、ゆるくつながる相手で十分だ。中学の女子みたいに常にお互いが味方であることを示し合い、牽制し合い、求められる役割を演じ続ける必要なんてない。

もちろん、親どうしで気があうならば家族ぐるみで交流すればいい。でもそうでないならば、子どもどうしの関係は当事者にまかせておいていい気がする。無理に親どうしが付き合って拗れたときのほうが、よほどややこしいではないか。そしてもし、我が子の友人関係に大人の事情を持ち込む親がいたとして、そのために子どもたちの関係が悪くなるならば、そんな家庭とは距離を置いた方が幸せだろう。

こんなことを書いてると、ややこしい人に思われるだろうか。もちろん、保育園や学校の父母会で出会ったママ友が人生最良の友になる人だっているだろう。それはそれで良いことだと思う。ただ、ママ友という輪の中から排斥されないように振る舞うことにストレスを感じる人がいるならば、はじめからそのなかに入らないのもまた選択肢ではないか。

いい大人なのだから、自分の居心地のいい場所は自分で作らねばならない。友人と過ごすなら、一緒にいて楽しい相手のほうがいいに決まってる。

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