NHKの洗脳!ウクライナ”出身”作曲家、ピアニスト
まだウクライナという国がなかった頃に生まれた
音楽家たちも「ウクライナ出身」である。
3人ご紹介。
1,
セルゲイ・プロコフィエフ
「セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Серге́й Серге́евич Проко́фьев;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeyevich Prokofiev、1891年4月27日[注 1] - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。確立された型や様式の中で作曲をおこない、作品にはオペラ『三つのオレンジへの恋』の行進曲、交響組曲『キージェ中尉』、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』、音楽物語『ピーターと狼』といったような広く聴かれる楽曲がある。習作を除くと7作のオペラ、7作の交響曲、8作のバレエ音楽、5作のピアノ協奏曲、2作のヴァイオリン協奏曲、2作のチェロ協奏曲[注 2]、そして9作のピアノソナタがある。
帝政期のロシア(現ドネツク州、ウクライナ東部)で生を受け、13歳で帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクのサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ[2]。」
2,
アレクサンドル・ジロティ
「アレクサンドル・イリイチ・ジロティ(ロシア語: Алекса́ндр Ильи́ч Зило́ти, ラテン文字転写: Aleksander Il'ich Ziloti, 1863年10月9日 ハリコフ近郊 - 1945年12月8日 ニューヨーク)はウクライナ出身のロシアのピアニスト・指揮者・作曲家・編曲家。フランツ・リストの最後の高弟の一人として、またセルゲイ・ラフマニノフの従兄として言及される。本人がドイツ語風にSilotiとする綴りを好んだため、日本では最近までこれを英語読みないしはフランス語読みして、「シロティ」と記されることが一般的であった。
1917年のロシア革命までは、最も重要なロシアの芸術家の一人であり、リスト、チャイコフスキー、アントン・アレンスキー、ラフマニノフ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらに作品を献呈されている。作曲家としての評価よりも、演奏家や、バッハ、モーツァルト、ショパン、チャイコフスキーの編曲家として評価されている。」
3,
レオ・シロタ
「レオ・シロタ(Leo Sirota, Лео Григорьевич Сирота 1885年5月4日 キエフ - 1965年2月25日[1])は、ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト。ベアテ・シロタ・ゴードンの父親。本名レイブ・グリゴローヴィチ(ゲルショーヴィチ)・シロタ。
5歳でピアノを始め、9歳までに演奏活動を行なってイグナツィ・ヤン・パデレフスキの注目を浴び、自分の門人になるようにと招かれた。しかしながら両親が、息子は幼すぎるためにそれにふさわしくないと判断したため、当初はキエフ音楽院に、その後はペテルブルク音楽院に学んだ。」
※ 日本に渡って15年間、日本の音楽教育に貢献してくれた方である。
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以下4,5は”ロシア出身”のピアニストお2人。
wikiは信用できないので、書き換えられないように保存しておく。
ヴェデルニコフさんはハルビン生まれだが…。
4,
タチアナ・ニコラーエワ
「タチアナ・ペトロヴナ・ニコラーエワ[1](ロシア語: Татьяна Пeтрoвнa Николаева;ラテン文字転写例:Tatiana Petrovna Nikolayeva, 1924年5月4日 ブリャンスク県ベジツァ - 1993年11月22日[2])はソ連のピアニスト・音楽教師。」
5,
アナトリー・ヴェデルニコフ
「アナトリー・イヴァノヴィチ・ヴェデルニコフ(ロシア語: Анато́лий Ива́нович Веде́рников、Anatoly Ivanovich Vedernikov、1920年5月5日 - 1993年7月29日)は、20世紀を代表するロシアのピアニスト、音楽教育者。ロシア・ピアニズム、ネイガウス派の一人である。
1920年5月5日、ハルビンにて誕生。
1926年頃、ピアノを習い始める。ヴェラ・ディロン[3]に師事。
1933年、ハルビンの高等音楽院を首席で卒業。演奏活動を開始[4]。
1935年、来日。東京に1年程滞在。6回にわたる演奏会を開催する。また、レオ・シロタの個人教授を受ける。」
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おまけ。関係ない話。
母は100年程前に台湾で生まれ、20代前半を当地で過ごした。
当時は日本国内だった。両親は九州人。戦後引き上げ。
「台湾出身」でもいいが、台湾人ではない。
「日本統治下の」がなければ正しく伝わらない。
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