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日記に書くようなことがない人生って、どうなん?

わたしの記憶では、フランス国王ルイ16世がフランス革命が起こった日に「特に何もなかった」と書いた――ということになっていた。
確かめるため、検索してみると、有名な話だったのか、すぐに答えが返って来た。
あの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃した1789年7月14日に、ルイ16世は「何もなし」と書いているというのだ。

日記に書きたいことがない日に、わたしはいつもこの話を思い出すのである。
そう、あたかも、

書かないからと言って、わたくしの今日1日に、なんにもなかったというわけではなくってよ?
だって、ルイ16世陛下だって、バスティーユ襲撃の日に「何もなし」ってしたというじゃないの。
そういうものなの!
人は、何かあったからって日記を書くってもんじゃないの。
取り立てて書くほどのことがない日も書くし、何かあった日でも書かないことがある。
そういうものなの!

誰に対してと言うことはないが、ともかく、そう言いたい気持ちにかられる。(マリー・アントワネット調?で言うかは別として。)

学生時代を経て、社会人になってからも、何度か日記をつけようとしてみたが、必ず、日付は飛ぶし、結局、続かなかった。
諦めずに、バレットジャーナルと言う、自分で日付などを書く日記にトライしてみたが、それも書かない日が続き、断念。
その後、自己受容できそうなつくりになっている日記帳を買うも、それも空白ページばかりになる。
そこで、わたしは雑記帳と名付けて、何でもかんでも書きつけるノートを作った。そこには、気づいたことや、ToDoリストめいたものを書く。備忘録ともいえる。
もう、これしかないか、とそう思っていた。

しかし、先日、日記のことをnoteに書いたので、その延長線上で、久しぶりに日記でも書いてみようと言う気になった。
人生で、もう何度もこういう気持ちになっているが、今回は、その中でも最も新鮮で、ピュアな感じがした。
ところが、その気になって新しい日記帳を買った日、なんと父が入院したのである。
我ながら、おい、そんなことってあるかー?と呆れた…。

と言うのも、前回、書いた通り、中学1年生で初めて本格的に日記をつけようとした第1ページ目は「私は、今日、生まれてはじめて、救急車に乗りました。」ではじまるのだ。
今回も日記帳を買った日からとなると、「今日、父が入院しました。」と書きはじめることになってしまう。
なんだ、このめぐり合わせは――若干、不気味でさえある。
人~生~って、不思議な、ものですね~♪って、美空ひばりさんの「愛燦燦」じゃないのよ、そんな不思議ねなんて悠長に言える気分でもないしさ…。
それで、結局、また日記を書かない日々を送っている。

では、次の日、書けばいいじゃないか?と思うだろう。
だが、書くほどのこと、今日したっけ?と思ってしまうのだ。
ゴミを出す日なので、ゴミ出しをして、朝食を食べ、昨日疲れ過ぎてお風呂に入れなったので入る。
そして、少し本を読んだり、スマホをいじったりしているうちに、気づいたら寝てしまっていた…。
起きたら夕方である。
え?わたし、今日、なんかした?もしかして、これって、あのルイ16世の「何もなかった」って日じゃね?そう思った。そして、冒頭に戻るのである。

わたしが、日記が続かない理由って、これなんじゃないか?と思った。
つまり、日記を書くことによって、「日記に書くようなことがない人生」を歩んでいることを思い知らされてしまうからである。
よく、「時間は有限なんだぞ!」とか、「死ぬ時に後悔しないよう、精いっぱい生きろ!」などと言う人がいて、そういう人を見ると、元気そうで羨ましいなと思う。
こんなふうに熱い言葉を使う人は生きるエネルギーがある人だから。
わたしのように、ボーと生きている人間は、そんなことを言われても、「うーん」と考え込むだけである。
やりたいことは見つかっているが、そんな風に熱くなれない自分がもどかしいのだ。

とはいえ、ルイ16世ではないが、バスティーユ監獄が襲撃されるような事件が起こった日でも、「何もなかった」と書くと言う、そういうことって人間、あるのではないか?とも思うのである。
あまりにも嬉しい、または、悲しい出来事に遭遇した時、人はそれを書きつけておこうと言う気になるだろうか?
そもそも書くと言う行為自体、物事を客観的に見ないとできないので、頭がある程度、冴えていないと無理だと思う。
感情が高ぶったり、やきもきしている時は、文字を綴るのも煩わしい。
そう考えると、わたしが日記に書くようなことがないと考えているのも、本当なのか怪しい。
何もないどころか、心情風景としては実際のところ、荒れに荒れてて、感情の上では今日も色々な出来事があったのじゃないか。

日記を書くのが、困難になった理由が見えてきたように思う。
当たり前だが、それだけ大人になったということだ。
そして、大人の毎日は、子どもの毎日より複雑なのは当然のことだが、それだけでなく、大人の日常は意外とセンシティブなのである。

若村紫星

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