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頭のなかにある思考のエッセイ

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自分のなかにもやもやと浮かぶものの輪郭をとらえたくて綴る、文章の置き場所。主に自分のための言葉たち。
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2022年12月の記事一覧

「好き放題やるぞ」と決めていた一年が終わる

「2022年は好き放題やるぞ」 ちょうど一年前のわたしが、こんな決意をノートに記していた。 2021年末でクライアントワークを辞め、「2022年はじぶんジカンにフルコミットしよう」と決めていた。それで、とりあえずこの一年は思うようにやってみよう、と考えた。 ……という書き方をするとなんだか格好良く聞こえそうだけど、勝算があったわけでも、貯金がたんまりあったわけでも無い。あっ、でも高まる気持ちと、「きっと大丈夫」という根拠のない自信だけはあったよ。 まあ、割と安定してい

「二人の自分」のバランス

自分のなかのバランスが、悪かったのだろうなと思う。 なにをしても満たされず、明日が憂鬱で、生きていることがつまらなかったとき。 わたしのなかに居る二人の自分、「理性的な自分」と「無邪気な自分」のパワーバランスが、大きく偏っていた。ぶっちぎりで「理性的な自分」の優勢だった。 周囲から認めてもらえる人であらねばならない。ちゃんとした人だと思われなければ。そんな理性的な "大人の自分" の声が大きく脳内に響き、わたしは「ちゃんとすること」と「周囲から浮かないこと」に囚われた。

コミュニティじゃないな、ただの「場所」だ。

ひとりが好きなのは、人が嫌いだからではなく「人といっしょに居ると自分が固くなってしまうから」だと思う。 わたしはどうしても他人の目を気にしてしまう。誰かの意見に大きく影響を受けてしまう。 一時期は「人の目を気にせずに生きる!」なんて鼻息荒く自分の思考を変えようとしたけれど、もはやいまは「人の目を気にする自分を乗りこなすほうがいいな」と思うようになった。つまり、まったく気にしないなんてことは、わたしには到底難しかったということだ。 そんな自分なので、「コミュニティ」と呼ば

本音と建前が読み取れないまま。

「ちゃんとした大人になれなかったなあ」と感じることが、多々ある。 "本音と建前を読み取れない" という点も、そのひとつだ。 人が発している言葉と表情を、わたしはそのまま受け取ってしまうのである。その裏にある本音や意図に気づけないことが、ほんっとうに多い。 たとえば。 フリーの編集者をしていた頃。編集長との面談で、こう言われた。 「松岡さんは、これからどんなことがやりたいの?」 わたしはそのままの意味で受け取って、「こういうことがやりたいと思っています」と答えたのだ

社会不適合のままでも、きっと。

「生きづらい側の人間なのだ」と気づいたのは、13歳の時だった。 みんなが当たり前にやっていることが、わたしには息苦しい。集団のなかで上手くやれない。連れ立ってトイレに行かなきゃいけないのはなぜなんだろう。ひとりでいることは集団のなかでの死を意味する空気すら漂い、それを無視する強さのないわたしに、ずしりと重くのしかかっていた。 それからずっと、なんとなく居心地が悪いまま、生きてきた。 中学高校大学社会人と、変わらずに在り続けるこの息苦しい場所が「社会」なのだと思った。そこ