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本音と建前が読み取れないまま。

「ちゃんとした大人になれなかったなあ」と感じることが、多々ある。

"本音と建前を読み取れない" という点も、そのひとつだ。

人が発している言葉と表情を、わたしはそのまま受け取ってしまうのである。その裏にある本音や意図に気づけないことが、ほんっとうに多い。

たとえば。

フリーの編集者をしていた頃。編集長との面談で、こう言われた。

「松岡さんは、これからどんなことがやりたいの?」

わたしはそのままの意味で受け取って、「こういうことがやりたいと思っています」と答えたのだけど、相手は「いやー」と、すこし眉をひそめ、続けて「それってちょっとニッチだよなあ……」とぽつりと言った。

その時わたしは「聞かれたから言ったのに、何なんだ!」と、内心すこし怒った。だけど、いまならわかる。たぶんあの「これからどんなことがやりたいの?」の中には「この媒体で利益が出るような企画で」という注釈付きだったのだろう。

プライベートでも、こんなことがあった。

歳が近く、住んでいる場所も近いフリーランスの女性と仕事でいっしょになったとき。もっとお話ししてみたいなと思ったわたしは、その仕事を終えたあとにメールでお礼を伝えたあと「もしよかったら今度お茶でも」とさいごに添えた。相手も「ぜひ」と言ってくれたので嬉しくなって、「わたしはこの日とこの日があいてます、ご都合いかがですか?」と返事をする。

しかし翌日。その人のTwitterには「仕事でいっしょになっただけなのに距離を詰めてくる人がいて、ちょっと面倒」といった趣旨のことが書かれていた。そして結局、メールが返ってくることはなかった。

これも、きっと誘いに対しての社交辞令として「(機会があれば、というかまあ無いとは思うけど、今後も仕事で会うかもしれないし一応)ぜひ」という注釈付きだったのだろう。

言語化されない注釈、つまり建前の裏の本音を読み取る機能が、どうもわたしは弱いようである。

そんな自分なので、最近はもう、本音と建前がある人と関わることを極力避けるようになった。

友達もそうだし、仕事相手も同じく。たとえば「こういうのいっしょにやりたいね」と話が出たら、「いつやる?」と具体的に進めようとしてくれる人。違和感を持ったことに対しては「ここはこうしたいなと思っていて」と率直に言ってくれる人とだけ、いまは仕事をしている。

ちなみにこれは、「ストレートにものを言う」のとは、ちょっと違う。

わたしのまわりの人たちは、ただストレートに物事を言うのではなく、相手を尊重した上で「嘘はつかない」のだ。その気遣いのある言い回しや伝え方がいつも素晴らしくて、感嘆することも多い(そしてわたしもマネするようにしてる)。

そういえば少し前に、仕事でご一緒した方とランチをする機会があった。

その人はとても良い人なのだけれど、仕事をするなかで「ん?」と引っかかる違和感が常にあった。

そしてランチ当日。話せば話すほど、わたしと相手の考え方の違いは浮き彫りになっていったように思う。たぶん、相手もそう思ってたんじゃないかな。人生や仕事において大事にしているものが違う。話していても、その根本が噛み合ってない。そんな感じ。

正直なところ、「もういっしょに仕事をすることはないだろうな」と、わたしは思った。そしてたぶん、相手もそう思ったんじゃないかと思う。

ただ、その会がお開きになったあと、「(仕事はいっしょにできないけれど)この人は信頼できる人だな」と、感じる出来事があった。

それは、別れ際のこと。相手はただ「今回はありがとうございました!」とだけ、笑顔で言って去っていったのだ。「またいっしょに何かやりましょう」とか「これからもよろしくお願いします」と、言わなかった。同じく、わたしも言わなかった。つまり社交辞令がなかった。たぶん、正直な人なのだろうなと思った。

価値観こそあわなかったけれど、信頼できる人だと感じるという、不思議な体験だった。

その場の雰囲気を良くするための社交辞令なんて、要らないとわたしは思う。その場の空気は良くなっても、別れたあとに不信感だけが募るなんて虚しいと感じてしまう。

お互いに仮面をつけて関わったって、それは交わったとは言えない気がして。それならいっそ、一瞬でも正直に交わったほうが、気持ちがいい。

そんな感じで、いま。わたしは "本音と建前が必要な世界" から逃げ出して、生きている。

周りに同じく "本音と建前を使わない世界" の住人が居てくれるからこそ、わたしはなんとか生きられているのだと思う。ありがたいことである。

と同時に、昔は建前に抑圧されて発散場所がなかった「本音」をぼろぼろとインターネットに吐き出していたのだけど、最近は建前というストッパーがないゆえに、日常のなかで本音を吐き出せてしまっていることが多い。だからたぶん、以前ほど文章の深刻さというか、切実さというか、そういうものが少なくなってしまったような気もしている。こればかりは、仕方ないね。

でもわたしにとって文章は "本音の純度を上げた言葉の羅列" であり、自分の本音の輪郭をより捉えるための試みなので、これからも書く。自分がなにを感じたのか、考えたのか。その中心にある「自分」に、触れてみたいから。


おわり


じぶんジカン」では、自分と向きあう時間をつくるノートをお届けしています。

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