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「二人の自分」のバランス

自分のなかのバランスが、悪かったのだろうなと思う。

なにをしても満たされず、明日が憂鬱で、生きていることがつまらなかったとき。

わたしのなかに居る二人の自分、「理性的な自分」と「無邪気な自分」のパワーバランスが、大きく偏っていた。ぶっちぎりで「理性的な自分」の優勢だった。

周囲から認めてもらえる人であらねばならない。ちゃんとした人だと思われなければ。そんな理性的な "大人の自分" の声が大きく脳内に響き、わたしは「ちゃんとすること」と「周囲から浮かないこと」に囚われた。

もう一方の子どものように「無邪気な自分」は、発言を許される雰囲気すらなかった。「こんなことやってみたいなあ……」と小声でぼそりとつぶやいてみても、"大人の自分" からギロリと睨まれ、「そんなの甘い、できっこない」とピシャリと言われ、萎縮する。

それで日々は色を失い、ただ「ちゃんとした人だと思われるために生きる」というものになった。自分が感情を持たないサイボーグとなって、時がすぎるのを待つような毎日だった。

わたし達のなかには、"大人の自分" と "子どもの自分" が共存していると思う。

当たり前だけれど、わたし達はずっと前に、子どもだったのだ。あの頃のわたし達は無知で、だからこそ、自由だった。

「将来の夢は?」と聞かれて「セーラームーンになりたい!」と目を輝かせていた。やってくる明日は、言うまでもなく楽しみなものだった。「明日はあっちの公園に行ってみよう!」とか「あの漫画の最新刊が楽しみだなあ!」と、日々はわくわくで満ち溢れていた。

でもわたし達は、すこしずつ大人になった。

ただ楽しかったはずの友達とのおしゃべりは、浮かないように、外されないようにと、空気を読んだりメッセージを早く返したり、「しなきゃいけないこと」や「しちゃいけないこと」が増えた。

そんなことの積み重ねで、やらなきゃいけない作業、仕事、社会のルール、期待に応えること、こうあらねばならない、ちゃんとした人でなければならないという思いに、溺れていく。

社会を知ることで "大人の自分" が育つことと引き換えに、"子どもの自分" は居場所をなくし、楽しみな気持ち、わくわくする気持ちは、優先順位の最下層に追いやられていく。

「あの時は "大人の自分" の声が大きくなりすぎていたなあ」

と、振り返れるぐらいには、いまのわたしはバランスが取れるようになった。

「こういうことやりたーい!」と無邪気に叫ぶ "子どもの自分" の声も、しっかりと聞こえる。かといって、"大人の自分" が居なくなったというわけでもなく、その無邪気な声を「ほうほう、それならこうしてみるのはどう?」と広げてみたりしている。

つまりは、この二人の自分の関係が、だいぶ対等になったのだと思う。

自由に発言できる空気となった無邪気な自分は、とても嬉しそうだ。

「どうやって対等な関係をつくったのか」

と聞かれたとしたら、答えはとてもシンプル。

"大人の自分" が、 "子どもの自分" の話をちゃんと聞くようにした。それだけ。

ただ、そうやって言葉にすると簡単なのだけど、実践するのはハイパー難しい。そもそも話が聞けないから、理性的な自分の独裁政権がのさばっていたのだから。

手段はいろいろある。紙に書くこと、人に話すこと、無邪気な人のそばにいること、自分の話を聴ける環境を整えること、思考の枠を外すきっかけを得ること。

でも正直なところ結局は、根気・・しかない。

地道に、あきらめずに繰り返していくしかない。これまで "大人の自分" が抑圧してきた期間と同じくらいの年数をかけて、じっくりと "子どもの自分" の話を聞くのだという、覚悟。

わたしの中での二人の自分のバランスが良くなったと書いたけれど、そのバランスはいまも絶えず揺らいでいる。

やはり思考の癖というのは強烈で、だいたい "大人の自分" の声が大きくなりがちだ。それで、現実的な(でもわくわくしない)道を選ぼうとする。

でも最近は、"子どもの自分" も負けてない。

「ねえ、そっちの道はいつでも選べるじゃん?いったんわくわくするこっちの道に進もうよー!!」と、一丁前にプレゼンをしてくる。

そういえばこの間、幼稚園の前を通りかかったときに、お母さんに手をひかれて幼稚園から出てきた小さな女の子が、勢いよくズべっと転んだ。じわじわと泣き出して、こう叫んだ。

「ママー!いたいー!傷口を水で洗いたいから、幼稚園の蛇口のところに連れて行ってー!!!」

顔をゆがめて、泣きじゃくりながらの的確な指示に、わたしは感心してしまった。子どもって無邪気なだけじゃないよな、と。

ちょっと脱線したけど、そんな的確さというか、まっすぐに本音を言う力が、わたしの中の "子どもの自分" にもあるなあと感じる。だからやっぱり、無視なんかしちゃいけない。

いま、これを読んでくれているあなたの、「二人の自分」のバランスはどうですか。

"大人の自分" と "子どもの自分" の関係性は、どんな感じですか。

もしもどちらかの声が大きくなっているとしたら、もう一方の声を聴くための時間をつくっても良いかも。

二人の関係が良好になって、自分のバランスが取れてくると、「自分を生きている」という実感が、きっと強くなっていくから。


おわり


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