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「地域に根ざす社会科教育」から社会科教育80年を考える(8)

おはようございます!
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東京大学助教授時代の藤岡信勝氏は、安井実践を、社会認識教育の根幹にも関わる問題提起になるものとして、『「共感」から「分析」へ(上)』(「歴史地理教育」1983.8 No.355)・『「共感」から「分析」へ(下)』(「歴史地理教育」1983.9 No.356)において、分析しています

藤岡氏は、社会(現象)を研究し認識する方法として、
社会現象を客観的な事実として分析し、事実相互の間に因果連関を見出し、そこからさらに法則を発見してゆくというすじみちである「分析」の方法と、
社会のなかに生きる個々の人の行為を自分にひきつけて共感的に理解し、追体験する「共感」の方法の、二つがあるとします

そのうえで、安井氏の実践史は、一面的な「分析」の方法に立つ授業から、「共感」の方法をとり入れた授業へ、さらに「共感」の方法の意識的適用による授業づくりへと発展してきた歩みとしてとらえることができる、と評価しています

他方、大阪歴教協 大阪市立汎愛高等学校教諭(当時)の岩田健氏は、「教える側が考えるにふさわしい十分な材料も与えもせず、時には″もし何々だったら〃などと非歴史的な発問などを行って、一問一答的=悪くいえば誘導尋問的に子どもたちを引っぱってく結果、なるほど子どもたちはわいわいがやがやしゃべり合い、発言はよくするといった類のもので、それを″子どもが動く″などといっている場合もあるのではないか
と、安井氏の授業方法に疑問を呈しています

「共感」から「科学的社会認識」へのわかるすじみちは、歴教協 安井・岩田論争の核心である「考えるにふさわしい十分な材料」が与えられるかどうかにかかっているのです

藤岡氏は、共感の方法をくみこんだ科学的社会認識教育のすじみちは、共感と対比される「分析」の契機をとり入れ、「共感から分析へ」ということばに集約されるような全体的構造をもつべきである、というのが私の考え、と述べます

子ども自身が探究するプロセスをもっともたいせつにしつつ、同時にその探究活動のなかで子どもがみずから視野の限界をうち破っていけるような教育方法原理を私たちは考え続けていかなければならない、と、今日の「探究学習」に通じる論点を提示しています

また、藤岡氏は、『社会認識教育論』(日本書籍 1991)で、「共感」の方法論的限界として次の二点を指摘しました
第一に、「共感」が人物学習に限定されたものであり、それも教師が選択した人物の視点からしかものが見えなくなること
第二に、「共感」個々の人間からでは見ることのできない社会現象のレベルの認識が不可能であること

さらに、一橋大学助教授(当時)の中村政則氏は、『科学的社会認識が深まるとは』(「歴史地理教育」1983.3 No.349)で、「その共感・感動をバネにしてその感動性の根拠を問うことである。その根拠を明らかにするためには、その時代の構造なり枠組みを明らかにしなければならない」と指摘しました

安井俊夫氏は、『共感と科学的社会認識 ―ふたたびスパルタクスの反乱をめぐってー』(「歴史地理教育」1983.3臨時増刊号 No.380)で、「子どもが構造・枠組み・原因・背景などを見ようとする目が育っているかどうかである」としているのです

今回の前段は、第八回目(8)の内容です

第2節 子どもの人格形成と「地域」
  (1)子どもの社会認識育成と「地域」の関係
  (2)子どもの主体形成と「地域」の関係
  (3)子どもの人格形成と「地域」の関係


第2節 子どもの人格形成と「地域」

(1)子どもの社会認識育成と「地域」の関係

 子どもの社会認識育成と「地域」の関わり合い(教材構成の視点)を、鈴木正気氏の実践『川口港から外港へ』(小学校四年生の実践)(60)の分析・検討を通して考えてみよう。

 本実践は、まず屋上から旧川口港・現漁港(久慈漁港)・日立港の全体を俯瞰し、位置・規模などを確認し、現在の久慈漁港の一斉見学、ここでは漁港としての機能を果たすための最小限必要な施設を確かめ、それらをもとに旧川口港にある遺物がそれぞれ何に当たるのか予想を立てさせ、グループごとに実地調査、古い写真、老人たちからの聞き取りによる照合を経て旧川口港の復元図の作成、地域の関係者を招いて中間報告会と下絵の訂正、このなかでテーマに対する児童の問題意識のめばえ ー なぜ川口港から外港へ、そして人びとの願いにもかかわらずなぜ漁港が寂れているのか ― をふまえ、授業において追究、という構成となっている。

 教材を構成するにあたってのねらいを鈴木氏は、「この教材で、旧川口港と現在の久慈漁港とを子どもたち自身の調査や聞き取り等によって、具体的に目で見える形で把握させ、旧川口港と現漁港との間にある歴史的変化を子どもたちに追究させることによって、子どもたちの歴史認識や地域認識を育てることができるのではないか」と捉えている。

この歴史認識・地域認識とは、地域の生活を支えた川口港、これを守り育ててきた漁民たちが一層の発展を願ってつくりあげた外港、しかしながらそれとほぼ同時の工業化の嵐のなかで地域准民の願いが崩れ去っていく過程を子どもたちが捉えることによって、育つであろうことを期待する生活者としての認識である。

 本実践で子どもたちは、自然的条件や社会的条件にも負けず外港をつくりあげた漁民たちの姿に、より発展していくであろう久慈の漁業についての展望をみ、他方、漁業人口や大型船舶、漁獲量の減少、工業都市日立の繁栄に、日本の産業構造の変化をみ、久慈の将来に思いを馳せている。

 鈴木氏は、「ある事実を自らの足で歩き、自らの目で見つめ、耳で確かめるという丹念な作業は、必ずその背後にある見えないものを見えるようにしてくれる。

なぜなら、事実というものは、必ず他と関連しあい結びついているし、その結びつきは、しばしば人間のおかすような飛躍を許していない。事実は他との連続のなかで存在するのである。だから事実を丹念にみればみるほど、みえないものがみえてくるのである(強調引用者)。(61)」、と述べている。

鈴木氏が述べる「事実」とは、本実践においては、久慈漁港の現実 - 子どもが生活し、親を含めた民衆が生産し、働く場としての「地域」の現実 - であった。

 第Ⅱ・Ⅲ章、本章第1節で明らかにされた「地域(地域社会)」の性格と鈴木実践を考え合わせると、久慈という地域の矛盾(久慈漁港)を、子どもたちが、自分の目・(マ)耳・(マ)足で目の当たりに見たとき、高度経済成長による産業構造の変化という日本の矛盾が、自分の地域にも貫徹していることに気付き、その克服のために努力をする漁民たちと、久慈のより良き明日の創造とに心をやっている。

 このようにみてみると、「地域」は、事物の連関 ― 見えるものから見えないものへ ― をみることを可能にし、社会を分析・連関する鋭い目を育て得る。つまり、「地域」を教材構成の視点に据えることにより、子どもの科学的な社会認識育成がはかられる。

(2)子どもの主体形成と「地域」の関係

 子どもの主体形成と「地域」の関わり合いを、安井俊夫氏の実践「スパルタクスの反乱(中学校一年生の実践)」(62)の分析・検討を通して考えてみよう。

 本実践は、古代ローマ帝国の授業であり、古代ローマ帝国=奴隷制社会のしくみそのものを、子どもたちに追究させるため、そのしくみのなかで生きる人間(奴隷たち)の姿を中心に据えるべく、奴隷たちが古代ローマ帝国のなかで生きていく具体的な姿 ― スパルタクスの反乱を教材としたものである。

 安井氏は、本実践の意図として、反乱の経過を追いながらも、子どもたちが、ローマの奴隷がふだんどんなくらしをしていたのか、その姿にふれられるようにすることを挙げている。

また、そういう姿から子どもは、「ひどいじゃないか同じ人間なのに」「自由になりたいと考えるのは当然だ」と切実に受けとめ、奴隷たちをそうさせているものに目を向けさせていく、とする。

 安井氏は、本実践について、「子どもはこの反乱を『ひとごと』として見ていなかった。自分自身も自由を求め、どうすればそれが実現できるか追究していた。

奴隷の願い(自由解放・祖国帰還)がわかるとは、そのような心の動き(共感)を通して初めて子ども自身のものになる

子どもが自分とかけ離れた人たち(例えば、奴隷)のくらし、願い、たたかいがわかるには、自らともに考える。つまり、自分もそこにかかわっていくという主体的な活動・追究心がなくてはならない(強調引用者)。(63)」と述べている。

ではなぜ、本実践で、子どもたちは奴隷たちの反乱をひとごととはせず、自ら主体的に関わっていけたのであろうか。

それは、奴隷たちが、「自由解放・祖国帰還」のねがいを果たすべく、奴隷制という矛盾を克服するために勇敢にたたかった、ローマという地域の矛盾の貫徹のなかで、人権・自由という普遍的価値の推進者として成長していったことに求められよう。

ここには、既にみた「地域(地域社会)」の内実としての、民衆の人民的成長の過程がある。それをこそ、教材構成の視点に据えた点に、子どもの主体形成の要因があるのである。

(3)子どもの人格形成と「地域」の関係

 社会科教育における人格形成とは、主権者意識形成を基礎として、民主的な社会を創造していく(当然、他者や他民族の人権・自由・権利を守り、それらを阻害するものと、共にたたかっていくことを内含する)資質を形成することであり、それは、(1)、(2)でみた、科学的社会認識育成(それは、主体形成の契機であり、主体的に社会に目を拓くことにより、科学的社会認識育成が助長される、というような相互連関的なものである)を通して養われるものである。

 科学的社会認識育成を土台にして、「地域」に内在する様々な課題を自分自身の問題として捉え、それを自分自身の生き方に結びつけていく ー 地域の創造主体(人民)として成長していくことが、人格形成である。すなわち、「地域」は、子どもの人格形成をはぐくむ発展性を内在しているのである。


<註> 

(60)鈴木正気著『川口港から外港へ』草土文化1978年・第五章に掲載

(61)上掲書41頁より引用

(62)安井俊夫著「スパルタクスの反乱」(『歴史地理教育』348号1983年3月)

  安井俊夫著「『自分の目』で歴史をとらえる」(大槻健・臼井嘉一編『中学校社会科の新展開』あゆみ出版1986年)

  安井俊夫著「自分の目で歴史をとらえる」(『学びあう歴史の授業』青木書店1985年)

  以上参照

(63)上掲論文(『歴史地理教育』348号1983年3月・21頁)


私は、学生時代、教科研 鈴木生気氏の実践を、子どもの「科学的社会認識」育成と「地域」との関係においてとらえていました

久慈という地域の矛盾(子どもが生活し、親を含めた民衆が生産し、働く場としての久慈漁港の現実)を、子どもたちが、自分の目・(マ)耳・(マ)足で目の当たりに見たとき、高度経済成長による産業構造の変化という日本の矛盾が、自分の地域にも貫徹していることに気付き、その克服のために努力をする漁民たちと、久慈のより良き明日の創造とに心をやっている

 「地域」は、事物の連関 ― 見えるものから見えないものへ ― をみることを可能にし、社会を分析・連関する鋭い目を育て得ます

「地域」を教材構成の視点に据えることにより、子どもの科学的な社会認識育成がはかられる、と仮説を立てたわけです

さらに、鈴木氏は、
「子どもたち自身の調査や聞き取り等によって、具体的に目で見える形で把握させ、歴史的変化を子どもたちに追究させることによって、子どもたちの歴史認識や地域認識を育てることができるのではないか」

「ある事実を自らの足で歩き、自らの目で見つめ、耳で確かめるという丹念な作業は、必ずその背後にある見えないものを見えるようにしてくれる
事実というものは、必ず他と関連しあい結びついている
事実は他との連続のなかで存在する
事実を丹念にみればみるほど、みえないものがみえてくるのである」

と、述べています(地域の関係者を招いて中間報告会も取組まれています)

これは、現行「学習指導要領」の3観点のひとつ「主体的に学習に取り組む態度」評価にかなった取組みとなっています

私は、拙稿「教員の働き方改革への提言(5)」(2024年3月17日発表)で、「主体的に学習に取り組む態度」評価に関わり「パフォーマンス課題」について論述しています

「パフォーマンス課題」とは、リアルな文脈の中で、様々な知識やスキルを応用・総合しつつ何らかの実践を行うことを求める課題です。具体的には、レポートや新聞といった完成作品や、プレゼンテーションなどの実技・実演を評価する課題です

例えば、「地理探究」の「現代世界の地誌的考察」・単元「西アジアと中央アジア(北アフリカ)」の授業では、標準時間数3時間を7時間(若しくは8時間)とし、次の「パフォーマンス課題」を第1時授業開始時に提示します

「あなたは総合商社に勤めています

米調査機関ピュー・リサーチ・センターの予測によれば、世界のムスリム人口は2010年に約16億人で世界人口の23.2%を占め、2050年には27億6千万人で世界人口の29.7%を占めることが予測されています
欧米中心の「グローバルスタンダード」では説明しきれないイスラーム世界の社会様式は、特に日本において表面的・特徴的な部分で関心を集めるものの、言葉や文化の壁が最も大きくて理解しづらい・わかりにくい文化・社会として、「ステレオタイプ」的な見方にとどまる傾向が強くあります

ムスリムの人々にとって生活が豊かになるような商品開発のチームリーダーに指名されたあなたは、開発チームで、どのように商品開発をし、欧米中心の「グローバルスタンダード」にとらわれない、新たなビジネススタンダードモデルを構築しますか」

パフォーマンス課題はルーブリックで評価し、併せて第1時に予め生徒に提示します

最初は汎用性のある基本的なルーブリックを活用し、教科・科目で実践を積むごとにアンカー作品が増えていくので、教科・科目の教員でアンカー作品をそれぞれ評価することで単元に応じたルーブリックを作成する必要があります
※SGH指定校時に私が作成した課題研究評価のルーブリック

授業では、「西アジアと中央アジア(北アフリカ)」に関する「思考・判断・表現」のための「知識」を3時間かけて身に付けていきます

第4時は、教師からの指定、若しくは生徒たちの任意で共同研究(探究・プレゼンテーション)を行う4,5名のグループを決め、中間発表会の準備に充てます

第5時は中間発表会。ワールドカフェ方式で、発表3分・質疑応答3分。5ローテまわすことができればグループ全員が他のグループに対して探究内容をプレゼンすることになります

質疑応答で気付いた課題や研究の方向性について、新たに全校生徒や官公庁、企業、JICA等へのアンケート調査や聴き取りを行ったり、モスクを訪問したり、探究の質を高めるために、本発表までに粘り強く自らの学習を調整して本番のプレゼンテーションに臨む

これこそが「主体的に学習に取り組む態度」評価で期待されていることです

第6時は、発表会に向けての準備

そして迎える第7時発表会。グループごとに、プレゼンテーション3分・質疑応答3分。予め提示したルーブリックで発表者は自己評価、聴き手による他者評価、担当教員、見学教員による教員評価を行います

「パフォーマンス課題」プレゼンテーションで、「思考・判断・表現」評価の6割と「主体的に学習に取り組む態度」評価の7割、「知識・技能」評価の3割を一体的に評価します

私は、「パフォーマンス課題」の設定は年に1回若しくは2回で良いと考えています。

グラデーションポリシーに基づき、先生方が教科・科目において1年間で身に付けるべき資質・能力を踏まえ、一番本質的な学びだと考える単元(若しくは、一番教えていて楽しい・充実感溢れる単元)を選び、そこに「パフォーマンス課題」を設定して、「思考・判断・表現」と「主体的に学習に取り組む態度」を一体的に評価することで新学習指導要領・観点別学習状況の評価の理念に基づく適正な学習評価・授業改善を実践していきます

「パフォーマンス課題」取組み始めの計画・準備はかなりの労力・時間を要することになりますが、年に1回若しくは2回の実施で、教科・科目の一番本質的な学びだと考える単元、若しくは、一番教えていて楽しい・充実感が溢れる単元を選ぶことで、生徒の学びは深まりを見せ、先生方の負担感は軽減されるのではないでしょうか

「平常点」=「主体的に学習に取り組む態度」と思い込むことで生じてしまう、情意も含めた授業の取組み態度の評価やノート・プリント点検等の業務も、「パフォーマンス課題」で「思考・判断・表現」と「主体的に学習に取り組む態度」を一体的に評価することで不要となります

発表後には、個人論文・レポート・提案書・ジャーナルを書かせます
探究の今後の方向性や、新たに気付いた提案、協働のなかでの個人の頑張り・努力、等々書くためのテーマはたくさんあります

これで「思考・判断・表現」評価と「主体的に学習に取り組む態度」評価の残りの部分を一体的に評価します

但し、教科・科目による「パフォーマンス課題」の集中による生徒たちの負担を和らげるための教員間の調整が必要になります

これらの観点で、現場での研究・開発・実践・リフレクションを積み重ねること、研究者の先生方の専門性に学び、指導・助言をいただくことで、適正な学習評価として、生徒・保護者に対する説明責任を果たせるように努める必要があります

「定期考査の廃止と平常点作業の見直し・削減」はこれで可能となるはずです


歴教協 安井実践についても最後に触れておきます

愛知教育大学助教授(当時)の折出健二氏は、『共感とわかるすじ道 ―授業を思想化する手だてー』(「歴史地理教育」1984.12臨時増刊号 No.376)で、

藤岡氏によれば、「共感」も「分析」も、「社会というものを研究し認識するため」の「方法」であり、

”共感”の方法」とは、「社会のなかに生きる個々の人間の行為を自分にひきつけて共感的に理解し、追体験するという方法」であり、

”分析”の方法」とは、「社会現象を客観的な事実として分析し、事実相互の間に因果関係を見出し、そこからさらに法則を発見していくというすじみち」である

すなわち、社会認識の教育としての「共感から分析へ」という方法論であると分析しています

発問を手がかりにして子どもが表現していく「共感的発言」は、客観的事実の相互の連関を分析していくさいの方法を見つけだすきっかけをうみます

たとえ未熟ではあっても、その”予想しながらの共感”は、私たちが社会現象の内部に分け入って分析していくさいの主体的側面(感情)でもあります

「ある個別的な事象(ある人物の行為)を見つめさせ「共感」させることで、かえってそれから離れて、周囲の状況との連関を意識させ、子ども自身の意味づけを行わせる。こういう指導過程が、藤岡氏のいう、社会認識の教育としての「共感から分析へ」の方法ではあるまいか」

「子どもの「共感的発言」をひきだし組織化していく活動のなかに、「分析」方法を身につけさせていく配慮がどうなされているか。ここに、教師の発問・助言などを分析していくときのたいせつな視点があるように思う」

と、指摘されています

専修大学教授の土井正興氏は

子どもに対してはたとえ「自分の目」が育っても、それが「共感」にとどまったままならば、授業の最終目標である科学的社会認識を鍛えることが出来ないのではないかと批判しました

この主張の背景には、厳密な史料批判と歴史研究者間の不断の議論を経て確定された研究成果(歴史学の共有財産としての学説)が、子どもたちの「共感」の前にいとも簡単に覆されることに対する危惧を感じることもできます

しかし、子ども自身が「共感」を通して、歴史事象ばかりでなく時代の構造や枠組みまでも自分なりに解釈し、オリジナルな歴史像を形成していく
このことが、歴史研究と歴史教育の共通の土俵に挙げられたことは注目されることであるとされました

安井実践はその後の歴史教育における議論の中心的な事例となり、多くの研究者や教師を巻き込むようになっていきました
そのなかで、高校教員である加藤公明氏の討論学習が生まれました

千葉大学教授の宮原武夫氏は、『子どもは歴史をどう学ぶか』(青木書店 1998)で、

この討論学習では、例えば徳政一揆を行った農民に対して有罪派と無罪派に分かれ、史料などを通してその理由を主張させる授業が高校生に対して行われている。この授業実践では、生徒達は現代における常識的な考え方を克服し、例えば中世の土地所有観念という歴史的な見方や考え方が獲得している様子が明らかになっている。」

宮原氏は、加藤実践に対し、論理的で実証的な思考力を媒介にして歴史認識を高められているという点で、安井実践の問題点を克服したと評価しているのです

次回は、「卒業論文」の最終回分、『「地域に根ざす社会科教育」における「地域」の視点』で、私が最も重要だと認識している「子どもの人格形成をはぐくむ「地域」の視点の考察」についてまとめていきます

何かのきっかけで、現場の生徒たちや先生方が幸せになっていくような議論が拡がればと願います

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします

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