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茶人メモ(私が覚えておきたいただのメモ)

確かに日記は苦手で、ここに投稿するのも案の定。子供に向けて書いている10年メモさえも飛び飛び。

しかし色んなことの衝動に駆られる性分で、思うがまま過去の記事も書いているが、ICの試験も無事合格して、少しママ時間を堪能している最近。

そしてなかなか見れないプライムで出産後トント見れなくなった映画を楽しんでいる時、「嘘八百」という中井貴一さんと佐々木蔵之介さんが主演の映画を見る。元々小学生の頃に茶道を習っていた記憶も薄らとあり、インテリアに纏わる仕事をしてきたのもあり、茶道具や茶人は尊敬の存在である。そして久しぶりにこの映画を見てしまったものだから、茶人とその茶人の特徴を知りたい!そして覚えたい!そして自分の引き出しにしたい!と熱が上がってしまい、覚書でここに投稿します。まあメモでええやんな内容なので、スルーしてください。

以下覚書

村田珠光(むらた しゅこう)****室町時代*****


僧・侘び茶の創始者・天目茶碗
足利義政に茶湯の楽しさを教えた・一休から参禅(禅を教わる)・一休に入門し、「茶禅一味」の境地を開いた・室町時代の高価な茶道具に疑問を呈し、「完全ではないものに潜む美を見出すことこそ真の数奇」
*数奇・・・「好き」・和歌が好きな人を指すが、茶湯が流行し、茶人のことを指すようになった。


武野紹鷗(たけの じょうおう)****室町時代****


堺の豪商の家、連歌師、唐物の茄子茶入/所有していたから「紹鷗茄子」(山上宗二記)
村田珠光が足利義政からもらった中国画家「徐熙(じょき)」の「白鷺の絵」表具を見て、珠光の侘びを感じた。煌びやかな表装を枯淡な物に差し替え、コントラストを感じた。利休も「白鷺の絵を見てないものは茶人に非ず。と言いふらした。
四畳半以上の茶室・・・寂敷(さびしき)
三畳・二畳半の茶室・・・侘敷(わひしき)
「枯れかじき寒けれ」山上宗二記

居士号:千利休(せんのりきゅう)
名:千宗易(せんのそうえき)****戦国時代→安土桃山時代****



堺の倉庫貸し商・称号「魚屋」・茶聖
術は紹鷗、道は珠光
天下三宗匠(今井宗久・津田宗及・千利休)→信長の召し抱えになる
織田信長→豊臣秀吉に仕えた側近
秀吉に茶室を作るように命じられ、「待庵」を完成。
大坂城に作った二畳の茶室に加え、茶庭としての露地がうまれた。
+樂茶碗(離宮が好んだ)+竹花入+焼物師 長次郎(パートナー)
禁中茶会に参加するため、必要であった称号「千利休」を天皇からもらう
「黄金の茶室」ー「北野大茶会」主管+聚楽ていに家
秀吉が増上慢(悟りを得ていないのに、得たと思念して高ぶった慢心の様子)から→大徳寺の利休像の上を潜らせたとして切腹命。

黒樂茶碗 大黒
赤樂茶碗 乙御前
黒樂茶碗 禿かぶろ/利休お気に入り表千家不審庵


丿貫(へちかん)****戦国時代→安土桃山時代****


伝説的な茶人・変わり者侘び茶の祖
武野紹鷗の門下で、利休と茶を修めた。
豊臣秀吉主催の「北野大茶湯」で、約2.7メートルの大きな朱塗りの大傘を立て茶席を設けて注目。秀吉も喜び、以後ノ貫は諸役免除の特権を取得した。釜一つで飯の煮炊きから茶を点てる湯まで沸かした。利休を自庵へ招き、世間に媚びることの多い友を大きな落とし穴に落としてから沐浴させて新しい着物を供し、落ち着いたところで茶を提供するというエピソード。


■通称古田織部(ふるた おりべ)**戦国時代→江戸時代初期**


名前:古田重然・利休の後継人・武将・大名
秀吉→徳川家康の茶堂
利休の七哲の一人(高弟とされる七人の武将)
「織部好み」茶器・建築・作庭などの流行を作った
武将として「大坂夏の陣」で徳川方につき武功を挙げたが、豊臣側のスパイと疑われ、自刀した
利休の死後、天下の宗匠と呼ばれた
「破調の美」器をわざと壊して、漆で再接着し、継ぎの美を楽しむ
大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字
流れ圜悟(えんご)
利休から人と違うことをせよ。と言われた。


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