エリンジウムの花ことば 第8話
福沢 和也。
飯田さんが言う『カズヤさん』は誰のことだ?
以前飯田さんは、福沢さんのことを「どこかで会っているのにどうしても思い出せない」と言っていた。つまり、ふたりはもともと知り合い? いや、ちょっと待て。さっき飯田さんは、その『カズヤさん』と、ずっと一緒にいる約束をした、と?
頭が混乱してきた。
僕は今日、早番で16時に退勤するから、22時からの夜勤の福沢さんとは顔を合わせない。次に福沢さんと勤務がかぶるのは……。
明日は福沢さんが夜勤明けで朝7時に退勤、僕は遅番で13時からの勤務。明後日は、福沢さんが遅番、僕が夜勤、つまり明後日だ。
僕は退勤すると、すぐさまデイとショートの事務コーナーへ行き、鍵のついた棚を開けて飯田 結美子さんの個人ファイルを取り出した。
「おぅ、久保田くん、お疲れ。どうしたの?」
トイレに行っていたらしい航平リーダーが戻って来て、話しかけてきた。
「お疲れさまです。飯田さんの様子がちょっと……話の辻褄が合わないことがあって、気になったので」
「どうかした?」
「今日の午後、入所してきたんですけど、連絡帳に最終排便の記入がなかったんです。リビングには他の利用者さんもいたんで、メモに『お通じがあったのはいつですか』って書いて見せたんですけど。そしたら『男の人が来て、それでここへ来た』と。僕の言っていることが、理解できない様子でした」
「あ~、そうかぁ。ほとんど認知症見られなかったのになぁ。進んじゃったのかねぇ。引き続き、様子見てて」
「はい……」
急いで情報に目を通す。飯田さんは離婚されていて、ひとり息子である59歳の長男とふたりで暮らしていた。当然だが、福沢さんとの関係性がわかるようなことは、書かれていなかった。
福沢さん本人に聞いてみるか……。
翌日、思いっきり消化不良な遅番勤務をやっつけて、遅番の福沢さんとかぶる夜勤の日、僕はいつもより30分ほど早く、ショートのリビングへ出勤した。
福沢さんは、リビングの大きなテーブルの一角で、ノートパソコンで利用者さんたちの記録を入力していた。驚いた様子で顔を上げる。
「どうした久保田、ずいぶん早いな」
「お疲れさまです。ちょっといろいろ確認しておきたくて。福沢さん、今日は皆さんどんな様子ですか?」
福沢さんの左隣りの椅子を出して、腰かける。
「特に変化はないよ。ほぼほぼみんな寝たぞ、感謝しろよ」
「それはよかったです、確認しておきたいのは、飯田さんのことです」
「え……」
まっすぐに福沢さんを見つめて言うと、福沢さんは一瞬目を泳がせた。その動揺を、いつものポーカーフェイスでごまかされないうちに、僕はたたみかけた。
「飯田さん、おととい入所してきた時、『カズヤさんとずっと一緒にいると約束した』っておっしゃったんです。カズヤさんって、福沢さんのことですか?」
「そんなに珍しい名前じゃないだろ、昔の恋人とかじゃないか。結婚したくても引きさかれたとか」
「それも考えました。ただ、少し前、5月末ごろに飯田さん、福沢さんのことを『どこかで会っているのに思い出せない』って言ってたこと、覚えてますか?」
「あぁ、そんなこともあったな」
「福沢さん、飯田さんのこと、何かご存じなんじゃないですか? 昔、恋人どうしだったとか」
「いやいや親子ぐらい離れてるぞ。この前もそう言っただろう」
「はい。でも僕には直感で、おふたりの間には何かあったんじゃないかと考えたんです」
明らかに福沢さんは動揺している。いつも何事にも動じない、あの福沢さんが。
「福沢さん、僕も、親子ぐらい年の離れた女性を好きになっちゃったんです。この先、どうしたらいいのか……。何が正解なのか、興味本位じゃないんです、聞かせてくれませんか」
福沢さんは、がっくりと肩を落とした。
「まずは仕事だ、先に申し送りをやるぞ」
「はい!」
28年前、福沢さんは25歳の時に介護の仕事に就いた。その前、大学を卒業して就いた仕事は営業職で、人と関わる仕事ではあったけど、単純にモノを売ることに嫌気がさしたんだそうだ。いろいろあったのだろう。
営業の仕事を1年で辞め、介護の資格をとるため、僕と瞳子さんが初任者研修で通ったあの専門学校に入り、介護福祉士の資格を取った。すぐに勤務した施設のデイサービスで、当時53歳の飯田 結美子さんと知り合った。飯田さんは、その施設で介護職員として福沢さんより1年早く働いていた。
「あの頃俺はさ、大学からつき合ってた彼女と別れたばっかりで、すさんでたんだよな。俺が働いてたのは、まあまあ大きな会社で、給料も悪くなかったし、結婚相手として見てたんだろうな。俺が介護やるって言ったら振られたんだよ」
「そんな人、別れて正解です。介護職を下に見てる人なんて……」
「声が大きい、そんなに熱くなるな」
「すみません」
深夜のショートステイのリビングで、声をひそめて話す。夜勤は、利用者さんに何も変わったことがなければ、読書などをしていても許される。もちろん、常に気は張っていなくてはならないが。
「飯田さんは、当時50代とは思えないほどきれいでな。利用者どころか、ドライバーから職員から、いろんな人が色目を使ってなんとか接点を持とうとしてたよ。人妻だってのに」
「え? 個人ファイルには、離婚されているって」
「まぁ聞けって。ドライバーが足りてなくて、俺がデイの送迎もけっこうやっていた時にさ、利用者のじいさんが、添乗の飯田さんの身体を触ろうとしたんだよ。飯田さんは、きっぱり『こらこら、だめですよ。そういうサービスじゃありません』って言ったけど、俺がすっげームカムカしてさ。思わずそのジジイを、ふだんは座らせない助手席に座らせたんだ」
「福沢さんて、けっこう嫉妬深いんですね、意外」
「ほっとけよ。で、帰りの送迎でふたりきりになって、お互い気持ちを打ち明けて、相思相愛だとわかって」
「相思相愛、今どき言わないけど、すてきです……。で、どうなったんですか」
一瞬、福沢さんは申し訳なさそうな表情になり、寂しそうに、ふっと笑った。
「俺は本気で、旦那と別れてくれ、一緒になりたい、と伝えた。だけど、男女の仲になったことが旦那にバレて、有無を言わさず離婚されたらしいんだが、家から出されてその後一切彼女と連絡が取れなくなった」
僕は絶句した。
なんだか、僕と瞳子さんの状況と共通点が多くて愕然とした。
「今はスマホとかLINEがあるからな。連絡は簡単かもしれないけど、28年前はまだ、ガラケーが普及し始めたぐらいか」
「それで? どうして今、ここでばったり再会できたんですか?」
「偶然としか思えない。飯田さんの旦那は、腹を立てて俺と飯田さんのことを当時働いてた施設に告げ、俺は退職を余儀なくされた。その時の理事長の息子が、専門学校の同期でな。系列ではあるけど、親父とは別の施設をつくるから、福沢にも手伝ってほしい、と。ただ、俺の方から条件を出した」
「条件、どんな」
「決して経営サイドにはならない、ということ。ユニットのリーダーもやらない。定年まで、手当てがつくような役職はつけてくれるな、と」
「飯田さんとのことが理由だったんですか? どうしてそんな」
「俺はあの人の家庭を壊したんだ。それでも、この仕事を辞められるわけもない。せめてもの罪滅ぼしとして、出世とかは手にしない、と決めた」
福沢さんの覚悟を目の当たりにして、僕は瞳子さんと僕の関係とを重ねた。僕には、どんな覚悟があるだろうか。
福沢さんが帰って行くと、時間は23時を過ぎていた。スマホでLINEを開き、瞳子さんに送信した。
『遅い時間にごめんなさい。今すぐにでも、瞳子さんに会いたいよ』
すぐに既読がつき、返信がきた。
『お疲れさま。どうしたの? 何かつらいことでもあった?』
『ううん、そうじゃないよ。いつも、僕のこと気にかけてくれてありがとう』
『夜勤が終わったら、うちへ来る?』
嬉しい。ほんとうに、生きてて良かった。介護の仕事に就く前、瞳子さんに出会う前の僕は根っこがなく、空っぽだった。今、瞳子さんの存在が、僕の心を満たし、僕の生きる理由になっている、と言っても過言じゃない。
『急に、行ってもいいの?』
『朝ごはんつくって待っているね』
ともすればネガティブな感情に引きずられる夜勤の仕事だってなんだって、今の僕ならじゃんじゃんこなせそうな気がしてきた。
翌朝、7時に退勤して瞳子さんの自宅へ急ぐ。瞳子さんは小ぶりのおにぎりやみそ汁をつくって待っていてくれた。ダイニングテーブルの南向きの席について、「いただきます」と手を合わせた。好きなひとの手料理が、疲れた心と身体にじんわりとしみてゆくのがわかった。わかめと豆腐のオーソドックスなおみそ汁をゆっくりと味わってすすり、ひと息ついて僕は言った。
「ね、瞳子さん。初任者研修とって、その後また介護の仕事をするつもりはないの?」
シンプルな赤いエプロン姿の瞳子さんは、僕の右隣りの椅子に落ち着き、自信なさげに首をかしげた。
「更年期の不調で仕事を辞めてから、まだ体調に波があってね。利用者さんの命を預かるのだと思うと、簡単には戻れないわ。自信がないの」
「そうか……。前に、僕が野宿とかしてた、って話した時、居場所づくりをしたら、って提案したこと、覚えてる?」
「もちろん。そんなことができたらすてきね」
「これから一緒に、それをやってみようよ」
「え? 居場所を?」
「そう。僕もまだ、いろいろ調べたり、苦手な勉強もしなくちゃならないけどさ。瞳子さんと僕でデイサービスみたいな、お年寄りがもう少し気軽に遊びに来れるような居場所を、これからふたりでつくりたい」
「デイのお誕生会の時、100歳のはつ子さんて方が言ってたわよね。『ここしか来るところがない』って。あのひとことで、すごく考えさせられた。私にできることはないのかな、って。葵くんとなら、できるかな」
僕は勉強が苦手で、起業なんて難しいことができるとは思えなかった。だけど、今こうして目の前にいるひとりの女性と、魂がつながっているような気がしていた。結婚とか、そういうことはどうだっていい。瞳子さんとこれから先も一緒の道を歩いていきたい。福沢さんは飯田さんとの結婚を考えたと言っていたけれど、僕は違う。はっきりとそう思った。瞳子さんが形式上、自分のものにはならなくても、心は結ばれている。
「僕は、瞳子さんと結婚できなくても、心がつながっていれば幸せだよ。だから、これからもずっと、僕と一緒にいてください」
「ふふ、プロポーズみたい。でも葵くんらしくて好きよ。ある意味、結婚の約束よりも、ずっとずっと強い絆で結ばれているね、私たち」
「瞳子さんと僕がずっと一緒にいる方法を見つけたんだ。ご主人と別れてなんて望んでない、ふたりで、いろんな人の居場所をつくることで、僕たちはずっと一緒にいられるんだよ」
瞳子さんの目から、はらはらと涙がこぼれた。朝の光を受けて、みずみずしく輝く。
「実はね、葵くんには黙っていたんだけど」
瞳子さんはエプロンの裾で涙を拭って、話し始めた。
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