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発達障害児、食べるの遅い問題について考える

Twitterで発達障害を持つお子さんと暮らしている方のアカウントをよく見させていただいている。

お役立ち情報、心があたたかくなった話、癇癪を起こして困ったこと、日常の愚痴etc.

保護者の方のツイートを見ることは、「親として向き合う発達障害」という、僕には持ちえない視点からこの事象を見るのに役立つ。
僕たちには、直が保存している「育てられた」記憶しかないからだ。


親御さんの愚痴の中の中で、ほとんど必ず上がっている要素がある。

それは食べるのが遅いこと。

他の要素と並べて「食べるの遅い」が挙がり、「もう無理」などと書かれていると、まるで僕自身が責められたかのように申し訳なく思ってしまう。


僕も幼少期から食べるのが遅いことを怒られて育ち、今もまたゆっくり食べるタイプの人間だからだ。

それなのに甘いものなどはハイスピードで食べられてしまうから、怠けている・好き嫌いをしているように見られてしまってまた困る。


なぜ、食べるのが遅いのか

当時のことは時間の感覚が薄かった(時計を習う前だった)ので時間で話すことはできないが、20代中盤になった僕たちは未だに食事に30分は必要だ。
のんびりして良いなら1時間ほしい。

それ以下の時間で急いで食べろと言われると、気が急いて余計に遅くなってしまったりもする。

昔は「食べるのが遅い僕が悪い」と考えて改善しようとしていたが、食べる遅さを「健康的だ」と褒めてくれる人が僕たちの人生に現れたこと、またどれだけ頑張っても30分以上のタイム更新はなかったことから、僕たちの特性として諦めることにしている。

たくさん噛んで、食べ物を細かくしないと飲み込めないのだ。

では当時はどうだったかと記憶をさかのぼってみると、「たくさん噛む必要がある」他にもいくつか理由が見つかった。

そもそも食事とは気が散るものだ

そもそも、食事という行為は非常に気が散ると思う。

基本的に食事の間、椅子にすわっていなければならない。
中座はあまりよくないこととされ、できるだけ食事の最初から最後まで座り続けていることが求められる。

食べ物を切り分けたりしている間はまだ「手を使える、やるべきこと」があるのでまだ良いが、では咀嚼している間は何をすれば良いのか。

時間をかけて咀嚼するタイプの人は、両手の空く時間が必然的に長くなる。

口に次々食べ物を詰めこむわけにもいかず、じっと座って、黙々と口を動かす。放り込んだ食事を飲み切るまで。
これがたまらなく暇なのだ。

じっと座っていると、食卓から見える景色は変わり映えがしない。
だからきょろきょろ辺りを見回したり、足元を通りすがった飼い猫を構ってみたり、テーブルの横架材に足を載せてみたり、今日学校であったことを考えてみたりする。リビングに広がったままの、遊び途中だったおもちゃが目に入ることもある。

その結果、本来優先すべきはずの「噛んで飲み込む」がおそろかになってしまって、「しゃべってないで早く食べて」などと声をかけられることになる。

つまり「食事」という行為そのものが刺激の少ないもので、食べる速さ以前に「気が散りやすい行為」であるのではないだろうか。

テレビの吸引力は異常

また、食事から子どもの注意力を逸らす要因として、テレビの非常に強い吸引力を語らないわけにはいかない。

テレビは強い。咀嚼するのを忘れ、黙って見入ってしまう吸引力を持っている。音声はなぜか耳にすべりこんできて、やっていることに集中しようとしてもなかなかうまくいかない。
何度手が止まっていることを注意され、怒って消されたことだろうか。

テレビは刺激の塊だ。また当時の僕は2つのことを一気にやるのが苦手で、「テレビを見る」と「ご飯を食べる」が同時にできなかった。

食卓に座っているのが暇なら、何か刺激を増やせば良いのかもしれないが、テレビはあまりに刺激が強すぎて逆効果かもしれない。

「食事」という感覚の嵐

実は、食事とはいろいろな感覚が一気に押し寄せてくる嵐のようだと思う。

感覚過敏を持つ人にとっては多大なるストレスになりうるほどに。


視覚:部屋の様子、照明の強さ、目の前の料理、テーブルセット(手の込んでいるものだけとは限らない。自宅でも、並んでいる皿や箸は目に入る)

聴覚:ナイフとフォークが触れ合う音、他人の咀嚼音、肉を切る音、野菜を刺す音、食事中の会話、テレビの音

嗅覚:食べ物の匂い(場合によっては数種類分)、キッチンから漂ってくる料理の残り香等々

味覚:食べ物の味。風味。品数が多い、味が複雑であるほど要因が増える

触覚:椅子の座り心地、足の裏が地面についている感覚、服の着心地、テーブルに乗せた腕、カトラリーの材質、食材の舌触り


軽く食事中に感じるだろう要素を五感に分けて書いたが、ざっとこれくらい挙げることができる。

これらが、一気に、とめどなく押し寄せてくるのが食事という時間なのだ。


以前、マインドフルネスを試したくて、味覚に強く集中して食事してみたことがある。

その時食べたのは食べ慣れた献立だったが、微細な風味や食材の香りまで一気に押し寄せてきて処理しきれなくなり、マインドフルネス飯の試みは一口でやめてしまった。YouTubeでほどよく気を逸らしながらでないと食べ進められなかった。


感覚過敏の強い人にとっては、食事は日々の試練になりうるのではないかと思う。

同じものを食べたがったり、食事中に同じビデオ・同じ音楽をかけたがるのは、もしかしたら刺激を減らしたいからなのかもしれない。

「食べるのが遅い」のは悪いことだろうか?

そもそも「食べるのが遅い」のは悪いことなのだろうか。

立ち食いそば屋に2時間も居座ったらさすがに眉をひそめられるかもしれないが、そもそも「早く食べなければならない」という法律はない。
社会的要請の雰囲気があるだけだ。

日本では「食事は手早く済ますもの」のような価値観が広く敷かれていると思う。

学校給食の時間が15~20分程度しかなかったり、給食を食べずに生徒指導に勤しむ教員を見て育っていたり、「早く食べなさい」と急かされて育っていたり。


他方、フランスでは、夕食には2時間程度をかけ、自宅でも3皿程度のコース料理で、みんなで会話を楽しみながら食事する習慣があるという。

もし食べるのが遅い子どもたちがこの中に混じっていたら、大した問題にはならないのではないか。


発達障害の特性は、社会と折り合いが悪いから目立ってしまうと考えている。
食事の早い・遅いはまさにこれで、国が変われば問題にならない可能性がある。日本の文化という文脈の中にあるから「困った行動」になってしまうのではないか。


変化には時間がかかるかもしれないけれど、もう24時間戦えない日本がペースダウンし、ゆっくり食事を楽しむ文化になってくれたらいいのにと思う。

そうしたら「食べるのが遅い」特性は、むしろ良い個性になるかもしれないから。


人と話しながら食べるのは楽しい。動画を観ながらだらだら食べるごはんも美味しい。

食事中のストレスが減ることを祈って。




文責:直也



サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。


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