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宗教は人の愛し合う力を規制したのではないか


I lve youが飛び交う『クィア・アイ』

最近、ネットフリックスオリジナルリアリティーショー「クィア・アイ」を観るのにハマっている。

料理、文化、ファッション、デザイン(インテリア)、美容それぞれの道のプロフェッショナルたち――Fabulous5、通称「ファブ5ファイブ」が依頼人のもとへ赴き、依頼人の衣食住を大変身させて、人生の変化のお手伝いをするという番組だ。

タイトルの「クィア」にある通り、ファブ5のメンバーは全員LGBTQ+だという。シーズン1では自分たちから「ゲイである」ことに言及するシーンも多かった。

一口にゲイと言っても5人の個性は様々で、ファッション担当のタンはシックな格好をしていることが多いし、美容担当のジョナサンはつやつやのセミロングヘアにスカートやワンピースを合わせたりしていてキュートな感じ。

彼らを見ていると、性別やジェンダーにとらわれない「その人たちらしさ」が輝いている感じがして、依頼人の大変身ぶりと一緒にとてもポジティブな気持ちになれる。


そんな「クィア・アイ」の中でよく目にする素敵なシーンがある。

それは登場する人たちが親愛の情を表すためにハグをしたり、言葉に出して "I love you." を伝え合う場面だ。

"I like you." ではなく "I love you." であるところが重要だと思っていて。この言葉は恋人同士のみならず、ファブ5同士のあいだでも交わされている。配偶者の有無は関係ない。

「love」の単語が入っているからといってすぐ恋愛に直結するニュアンスではないらしく、なんだか友達同士が「そのバッグいいね、好き」と友達のセンスを褒める時に使う「好き」に似ている感じがする。

またファブ5は、互いに頬にキスをしあう瞬間もよく見かける。
頬と頬を合わせるフレンチ・キスのみならず、頬に口付けるスタイルのキスも割と頻繁。
これにも恋愛的なニュアンスはあまり感じず、友達や仲間に親愛の気持ちを伝えるアクションのひとつという感じがして、見ているこちらまでハッピーになる。

しかし番組の中では、ファブ5たちの心の傷にも触れる瞬間がある。彼らとて幸せだらけでファブ5になったわけではない。

カラモが語る黒人差別だったり、ボビーが語る宗教とゲイの関係だったり……。

特に宗教とLGBTQ+は対立構造として語られることがまだ多く、番組内の言及によれば、アメリカ南部ではゲイ差別が根強いらしい。

僕はこの「宗教」について思うところがあった。
ボビーが心の隔たりを感じているのがキリスト教であることともうひとつの理由から、この記事内で言及する「宗教」は主にキリスト教に限定させていただく。


「アサクリ」に見る愛情表現と『クィア・アイ』との共通点

少し、別のコンテンツの話をしよう。

「アサシンクリード」というゲームシリーズがある。

僕はあまりにこのシリーズにハマりすぎていてもう5作品くらいやっている。

プレイヤーは遺伝情報や過去の遺物を頼りに、過去に生きた誰かに「シンクロ」し、歴史の中を疑似体験することができる。(史実を元にしつつ創作も含まれている)

舞台は世界史の中の様々な場所、様々な時代に渡る。

このゲーム、過去の建物や風景の作りこみがとても緻密で、もはや世界史の映像授業だ。高校で世界史を選択していたことを過去の自分に感謝した。

今回特に取り上げたいのは「アサシンクリード オデッセイ」(古代ギリシアが舞台)と「アサシンクリード ヴァルハラ」(9世紀イングランドが舞台)だ。

上記の2作品は、プレーヤーがシンクロする主人公の性別をはじめ、ゲーム内での会話などが選択制で、登場人物と恋愛関係になる可能性もある。
恋愛関係になる相手は異性に限定されていないし、特に古代ギリシアは史実としても同性愛に対して寛容だったらしい。(暗黒時代のイングランドにはあまり詳しくないので明言できない)

両者のゲームをプレイしていると、会話の中で「気軽な誘惑」が頻繁に発生することに気づく。
相手が同性だろうと異性だろうと、「魅力的な人だな」と思ったらすぐ口に出すのだ。
その言葉がきっかけで関係を持つことも、断ることも返答の選択肢として提示される。

この「気軽な誘惑」に似たやりとりが、「クィア・アイ」の中でも見られることに僕は気づいた。

ファブ5は変身させていく依頼人をめちゃくちゃ褒めるし、素敵だと思ったら素直に口に出す。「すごい魅力的」だとか「僕が10歳若くて相手がゲイだったら……告白してたね」みたいな。

だが現在の社会に目を向けると、寂しいことに街角でそういうやりとりをしている人をあまり見かけない。

そう、なぜか「相手を讃えること」「魅力的に感じて、それを伝えること」は、現在の社会の中では大っぴらに行わないもののように扱われている。

どうして愛情表現の文化は隅に引っ込んでしまったのか。あるいはひっこめられてしまったのか。

その理由を探る大きな手がかりが、宗教にあると僕は思う。


神の賛美より愛の抑圧

宗教、前述の通りここでは主にキリスト教を指すが――は、強い。

人々の意識に根付き、行動様式から何からすべてを規定する力を持つ。

アサシンクリードシリーズを通して様々な時代を覗き見ると、神々の強さがよく分かる。

古代エジプトでも古代ギリシアでも、天候や病は「神々の怒り」が原因であるとされ、神殿に行って祈りを捧げている人を随所で見かけた。
むしろ西洋医学の走りを行っていたヒポクラテスが「神を冒涜している」としてアウトサイダー的視線を向けられていたりもした。

宗教は人の人生に根付き、思考や生活様式を規定するのだ。

さて、僕はアサシンクリードをリリース順に追いかけているので、紀元前の古代ギリシアから、一気に9世紀のイングランドに時間を早回しすることとなった。

古代ギリシアからイングランドとは、宗教も服装も時代も何もかも違う。一気に北国に移ったので、主人公が着ぶくれして見えた。

それ以上に僕に強烈に印象付けられたのは、キリスト教が根付いたイングランドの窮屈そうな暮らしぶりだった。

「アサシンクリードヴァルハラ」の主人公エイヴォルはノルウェー人のヴァイキングなので、プレーヤーはイングランドにおいて少数者の位置に立たされる。

キリスト教(一神教)が強い土地で活動しながら、どちらかというと軸足は北欧神話(多神教)に置かれているのだ。

異文化の人の目を通し、所感のセリフを聞きながら触れる中世のキリスト教はとても窮屈に見える。

何かあればすぐに神の許しを請い、これ以上罪を重ねないよう祈りを捧げ、司教たちの言葉に従う。畑を耕す。
品行方正、品行方正。声のない唱和が聞こえてきそうだ。

エイヴォルは「気軽な誘惑」を受けたり、放ったりしているが、キリスト教を信仰するキャラクターから返ってくるのは大抵お堅い返事。そもそもキリスト教信者のキャラクターと、まだ恋愛関係に発展した回数が少ない。(まだプレイ途中なのだ、悪しからず)

気軽な誘惑のキャッチボールは主にデーン人(ヴァイキング)たちの間で交わされており、9世紀のキリスト教圏の人たちには縁が薄そうなやりとりだなという印象を受ける。


古代ギリシア(多神教)とノルウェー人(多神教)との間で、時代も場所も越えて交わされる親愛のやりとりが、なぜキリスト教圏となった9世紀イングランドにはないのか。

なぜ「クィア・アイ」で交わされる親愛のやりとりが、幸せなのにちょっと新鮮に見えてしまうのか。


両者の疑問を貫く答えがキリスト教にあると僕には思える。

キリスト教は多くの人々の生活と意識に根付き、世界のあちこちで人の生き方を規定してきた。
その中には「どんな人を好きになり、どんな恋愛をするべきか」というものも含まれた。

キリスト教では同性愛はタブーとされていたりする。
古代ギリシアや他の文化圏では受け入れられていた同性愛や多様な性の在り方が、強い力を持ったキリスト教では「あるべき行動様式」から外されてしまったのだろう。

同様に外されていったもののなかには、もしかしたら「相手(神以外のもの)を褒め称えること」「配偶者ではない相手を誘惑するような言葉をかけること」なども含まれていたかもしれない。

それらの規定は一瞬で定まったものではなく、時間をかけながら徐々に増えていったのかもしれない。

それらが積み重なった結果、現在の社会にまで続く影響が及んでいるのではないだろうか。

宗教では神を讃える以上に、信仰にもとづく行動の規定によって、愛の抑圧も発生したのだ。


人間らしい愛し方をしたい

僕は褒められればうれしいし、信頼する人たちが互いを褒め合ったり、認め合ったりしているのを見るのも好きだ。

ファブ5が見せてくれる姿はとてものびのびしていて、優しくて、ジェンダー的な「男らしさ」からは外れているかもしれないけれど、とても人間らしいと思う。

そしてこの「人間らしさ」を大切にできる人になりたいと思う。


アサシンクリードをやっていると見えてくるが、歴史は本当に繰り返している。ゲームで取り上げられていない時代と場所でも、繰り返されているだろう。

古代ギリシアではミューケナイ文化の崩壊によって「暗黒時代」と呼ばれる期間に入り、線文字Bというひとつの文字文化が失われている。

9~10世紀の中世ヨーロッパは「暗黒時代」と呼ばれ、読み書きは貴族や教会関係者のみが持つ、特権と結びついた能力になってしまっている。文字文化が完全に失われたわけではないが、似た状況に陥っていると言えるはずだ。


歴史は繰り返すものだとか、歴史を繰り返すのに学ばない人間は愚かだとか、いろんなことが言われている。

もし「そういうもの」なのだとしたら。
歴史は繰り返すもので、そうしてしまうのが人間の癖みたいなものだとしたら……。

せめて繰り返すたびにポジティブな方向へ変わっていってほしいと祈らずにはいられない。

世界に広がってきた愛の抑圧から自由になること、もっとのびのびした、ジェンダーにとらわれない自分らしさを出していくことができるようになることが、これからできていくといい。

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