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今最も日本人に必要なのは「空気を読まない能力」かもしれない

日本を表す「和」とは「輪」であり、「みんなが同じ」であること、「調和」を尊ぶ文化をよくあらわした言葉だと思う。

場の空気を乱さないように、その場にいるみんなが何らかの感情を共有できるように振る舞うことは、この島国に生きる人々に太古から沁みついた処世術なのだろうか。

それならば今必要なのは、この「和」こそを破っていく力だと、僕は思っている。

「和」が「嫌だ」の声を殺す

空間の和を乱すことを、僕たちは極端に嫌いがちだ。

その場にふさわしくない行動をすること。
求められているのとは別の言葉を返すこと。
雰囲気に逆行するように「いやです」「お断りします」と言うこと。

なぜならまず、僕たちはそういう教育を受けていない。

小学校の頃から言われるのは「みんななかよく」であり「自分の意見をどんどん言いましょう」ではない。

学校でなされる多くの指導の根底には幻想のように「みんななかよく」が横たわっていて、みんながなかよくできる範囲で、学生たちの自由な振る舞いは許される。

その結果起こることは何か。

「嫌だ」「やめて」「それは違うと思う」といった、その場の雰囲気をぶった切るような言葉は殺される傾向にある。

それは「和」ではなく「みんななかよく」でもないからだ。

それらの言葉が必要な時、目の前では異常な事態、歪んだ出来事が繰り広げられている可能性がある。

けれど「和」を乱すストレス、自分が乱すプレッシャーが重すぎて、言い出せない。
あるいは「自分が我慢することで、この場が丸く収まるのなら……」と考えてしまう。

しかも歪んだ出来事の中心にいる人間は、自覚的であれ無意識下であれ、その場に流れる歪んだ価値観こそが「正常である」という雰囲気を巧妙に作り出す。

歪んだ価値観は空気に慣らされた人に伝播していき、次第に無自覚に歪んだ集団をつくり上げていくことさえあるのだ。


相手が正しく、自分が間違っていると思わせること。
自分の考えることはすべて誤りだと思わせ、自尊心の土台を損なうこと。

これは心理学で「ガスライティング」と呼ばれる手法で、人間の精神を著しく損なう。

あからさまに、あるいは巧妙に、これは虐待、DV、デートDV……2人~多人数、すべての空間で起こりうる。人数の多少は問題にならない。

ガスライティングの厄介なところは、長期間をかけて慣らされて行ってしまうこと。

人は急激な変化にはすぐ気付けるが、じわじわと浸透してくる歪んだ「間違い」と「正解」には、徐々に慣れて行って気づきづらい。
気づいたころには価値観に毒され、それまで感じた違和感を全否定するに至ってしまうこともあるのだ。

たったひとりのガスライティングは伝染していき、歪んだ集団をつくり上げることさえある。

同調圧力を手に入れた彼らは、容易に新参者の価値観をも歪ませてしまう力を持つ。

声を上げることは孤独を選ぶこと

そんな集団と関わってしまった時、中に入って出られなくなってしまった時。
あるいはもう逃げられないように見える時。

「嫌だ」「やめて」「それは違うと思う」という声は、健全なのにその場の空気を台無しにしてしまう。

流れていた予定調和の和やかさは失われ、訪れた突然の不意打ちにみんなどうして良いか分からなくなる。

最初に声を上げる人間は、片手で足りるくらいの少人数であることもあり、そんな彼らは同調圧力のきつい集団の中で、圧倒的少数派となってしまう。

異常な集まりの輪の辺縁にいた人が、決定的に輪を離れてしまう瞬間だ。
告発は孤独である。和を乱す言葉を発することは孤独をもたらす。

必要な孤独を。

「孤独」という言葉にうっすらとした恐怖を覚えることもある。それはきっと僕たちが「みんななかよく」の土台の中で多感な子ども時代を過ごしてきたからだ。

仲が良ければ、なんでもいいわけではない。
円滑な人間関係はもちろん大切だが、その根底には本来「自分が尊重されている感覚」や「人権意識」がなければならないと考える。

自分を殺して周りに合わせる仲の良さは、はっきり言って嘘だからだ。自分に、他人に嘘をついている。ひずんでいる。

ひずみはその場の「何か」が変わらない限り増していくだけだ。


歪んだ集団の「何か」を告発する時、集団の外部にいようが、距離を取ってから被害を訴えようが、声を上げた人は一時的な孤独を味わう可能性がある。

だがこの歪みが横行する日本社会を多少なりとも変化させていくには、今孤独を選ぶことが必要であり、また自分を含めた人を救う選択になりうるのではないだろうか。

孤独はかりそめでしかない

ここまで散々「孤独」について書いてきたが。

告発者が感じる孤独。
あるいは口を封じておくために植えつけられる「お前が間違っている、誰もお前の味方なんかしない」という疎外感は、一時的あるは嘘だと考えている。

SNSは遠くにいる、似た価値観を共有できる人の発見を可能にした。

何らかの違和感を覚えたことのある人、同調圧力につぶされて疲れきってしまった人、損なわれた自尊心の中で苦しんでいる人たちは、現実的に自分の手が届かないところに同志を見つけることができるようになったのだ。

家庭、友人関係、職場、趣味の集まりの中には、自分の傷を分かってくれる人が見つからなかったとしても、SNSで広がった浅く広い繋がりの中でそれを見つけることができる。

その時告発者は、あるいは被害者は、「私は間違っていなかった」「声を上げている人が他にもいる」と励まされ、自分が「おかしい」わけではなかったことを確信し、もしかしたら「私も」と表明する勇気さえ湧いてくるかもしれない。

もしも空気を読み続けていたら、ひとりで萎まされていくだけだっただろう。

空気を読まない、強い決意

個人的な話になるが、僕は空気の読めない子どもだった。今でも時々読めない。

小学生の時は、担任がテストの実施を忘れ、クラスメイトたちが喜んでいるところに「先生、今日テストやるって言ってませんでした?」と発言し、みんなから白い目を向けられたりしていた。

場の雰囲気に合わせるなら、黙って通常授業を受けているのが正解だったであろう。


それでも年齢を重ねるにつれて「周囲に流れている雰囲気を察知する」「とりあえずそれに合わせる努力をする」力は身に着けてきたつもりだ。

結果、抱いた違和感に蓋をして、苦手な相手の前でも愛想笑いをするようになってしまった自分を嫌悪し後悔している。

それは相手に「今のままでいいですよ」「あなたは間違っていませんよ」というメッセージを発することに繋がると考えているからだ。


断るのが苦手な上、場の雰囲気を分断するように「それは違うと思う」を言えなくなってしまった僕は、かつてならそれらを言っていただろう場面でフリーズするようになってしまった。

必要なことが口から出てこない。

そうしている間にも社会は歪んだ部分をどんどんあらわにし、勇気ある人たちは次々に声を上げている。

僕が失った「それは違うと思う」「こんなやり方は嫌だ」という表明が、今必要とされ、世界を微々たる速度ではありながら変えはじめていくのを目の当たりにしている。

ある部分で、僕は間違っていなかったのだと思うことができるようになった。


昔から声を上げることは必要とされていたのだ。

人類がSNSによって、告発の孤独は狭い範囲でのみ起きると気づきやすくなった今。
似た違和感を持ち、同じような傷を抱えた人が他にもいると見えやすくなった今。

僕たちには「和」を乱し、日本人の苦手な「NO」を突き付けていくことが必要とされているのかもしれない。




直也


※最近、性被害に遭われた方の文章に触れる機会が多く、この構造はいじめ、虐待、児童虐待、モラハラ等あらゆる暴力に共通すると感じて書かずにはいられなくなった。

この記事に書いたのはあくまで僕の価値観であり、人によっては「それは違う」と感じる部分もあるかもしれない。同調できなくてごめんね。

あくまで一個人の意見として読んでもらえたらいいし、何かを感じてもらうことができたらさらにうれしいと思う。

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