「毒親」と「虐待親」の境目はどこにあるのか
僕たちはここまで生きてくる過程で、社会からこんなメッセージを受けとり続けている。
「親には感謝しなければならない」「親子仲が良いことが『親子の在り方』だ」
だから当初、僕は僕の受けてきた言葉や扱いを「虐待」だと言い切ることができなかった。
できることなら親と和解の道を探りたかったし、そのためには「あれは虐待だった」という認識まで行きたくなかったのだ。
そこまで行ってしまったら、あの過去は取り返しのつかない決定的な暴力になってしまい、和解どころではなくなる気がした。
一時期僕は、よりマイルドな表現にするために「毒親」という言葉を使っていた。
だがそもそも「毒親」と「虐待」という言葉には、一体どんな違いがあるのだろう。
成長過程、または家庭環境にトラウマや機能不全を抱えている人たちは、自分を説明するものとして「毒親育ち」とか「虐待サバイバー」という言葉を使う。
似たものを表す言葉ではあるが、その意味するところに違いはあるのだろうか。
言葉の意味から見えてくるもの
毒親
「毒親」という言葉の起源は、スーザン・フォワード著『毒になる親』で使用されたことにさかのぼる。(日本での初版は2001年)
今のところ正式な心理学用語ではなく、辞書の通り俗に使われている言葉だ。
虐待
一方の虐待は上のように定義され、さらに「児童虐待」で調べると厚生労働省のページがヒットする。
児童虐待はさらに「身体的・性的・ネグレクト・精神的」虐待に分類されている。
最近では同じ意味として、不適切な養育「マルトリートメント」という言い方も使われているようだ。
こうして見てみると、「毒親」と「虐待」にほとんど意味的な違いはないことが分かる。
毒親のしていることは虐待行為であり、僕が以前望んだようなマイルドな表現ではなかった。ニュアンスに助けられていただけだった。
言葉は認識を規定する
言葉には人の意識を規定する力があると思う。
赤ちゃんは「泣く」のみから始まる成長過程の中で、自分の心情を言い表す言葉を獲得しながら表現を豊かにしていく。
虹の七色を表現する言葉のない地域に生きていたら、そもそも虹を7色だと認識することは不可能だ。
同じように「毒親」「虐待」という言葉にも、人間のなにがしかを規定する力が働いていると考える。
たとえば自己認識。
「私の親は毒親でした、そんな親に育てられてきました」というニュアンスで「毒親育ち」という言葉を使ったり。
「虐待を受けて育ってきました」ということを端的に表す「虐待サバイバー」という言葉があったりする。
これはあくまで僕の主観だが、このふたつの言葉からはこんな雰囲気が読み取れる気がする。
「毒親育ち」の主眼は親であり、「こういう親の下で育ってきた、私」というニュアンス。
認識の真ん中にいるのは親。
「虐待サバイバー」の主眼は、辛い環境を生き抜いてきた(サバイブしてきた)自分自身。
不適切な養育環境は自分の周囲を取り巻いていたものであり、認識の真ん中にいるのは自分自身。
僕が主の親を「毒親だ」と認識した時、僕は無力感を覚えた。
人を変えることはできない。毒親が毒親であることは僕に変えられるものではないのだ。向こうに変わる気がないのだから。
一方で和解を諦め、勇気をもって「僕たちは虐待されていた。虐待サバイバーだったんだ」と認識を改めた時、目の前に道が開けた感じがした。
未だにフラッシュバックに悩まされ、様々な心身の不調と付き合う僕は万全ではないかもしれない。
それでも死なずにここまで生きてきた・生きてこようとしたのは他ならぬ僕たち自身の決断だったわけで。
大変な環境を生き抜いてきた僕たちには、意外と力があるんじゃないか。
生き抜いていく力や、僕自身の暮らしと人生をより生きやすい、優しい方へ動かしていく力。
「虐待サバイバー」という言葉の中から、親とは違う「自分」という存在と、親の在り方に規定されない自分の手がかりを掴んだ気がしたのだ。
だから、もしふたつの言葉のあいだで悩んでいる人がいたら伝えたい。
あなたの親は毒親だ。そしてその毒親のしてきたこと、していることは、虐待だ。
あなたは言葉で言い尽くせない、壮絶で、大変な環境を生き延びてきた強い人だ。
あなたの人生はあなたのものであり、他の誰にも渡すことができない。
もしマイルドにしたくて「毒親」という言葉を使っている人がいたら、思い切って「あれは虐待だ」と認めてみよう。
使う言葉を変えることが、自分の強さを思い出す助けになるかもしれない。
直也
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