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世界を「本当の意味」で平和にするために、何を教われば良いのか【『スリー・カップス・オブ・ティー』読後感想】

衝撃の実話!アメリカ人男性が起こした奇跡

のめりこむように読んだノンフィクション。

グレッグ・モーテンソンさん著『スリー・カップス・オブ・ティー』(サンクチュアリ出版)です。

最初の出会いはカフェで

この本に最初に魅かれた場所は、とあるカフェでした。

店内に「ご自由にお読みください」という感じで面陳されていたのです。

表紙のイラスト調の風景に魅かれ、手に取って読んでいました。

けれど、そこはカフェ。

この分厚い本を、わずかな滞在時間で読み切れるわけもなく。

グレッグがコルフェ村にたどり着く……どころか、誰とも合流できないうちに、席を立つことになってしまいました。

古本屋で運命の再会!

以来、続きが気になるというか、「通して読んでみたい」と思っていたこの本。

先日、古本屋を探索していたら、背表紙が目に飛び込んできたのです!

まさに「運命だ!」と思いました。

今しも、私は読みたい本を探していたところ。

中古の『スリー・カップス・オブ・ティー』は、本棚の中から私の目を引いた。

すぐレジに持っていきました。

私のもとにやってきた『スリー・カップス・オブ・ティー』は帯つきで、私はようやくこの本のあらすじを知ることになります。

なんとこの本は、実話を収録したものだというのです。

序盤を何も知らずに読んだ時は、てっきり「K2」という実在する山を舞台にした、登山小説か何かだと思っていました。壮大な勘違いでした。

あらすじによれば、K2登山に失敗した登山家の男性が、周辺の村々に学校を建てるといいます。

一体、どんな流れを辿って学校建設を進めていくんだろう。

わくわくしながら表紙を開きました。

気のむくままに 感想たち
ポジティブが伝染してくる

この本は、単なるドキュメンタリーではありません。

あらすじとして簡潔に語ってしまえば「登山家の男性が、現地に学校を建てようと奮闘する話」となるのですが、この「奮闘」という言葉の中には、本当に様々なことが含まれています。

グレッグが戦うべき対象はたくさんありました。

・自分の生活を維持すること
・学校建設費用集め
・現地の慣習・慣例
・アメリカ人への偏見
などなど。

グレッグは仕事に苦労し、なかなか集まらない資金に心を挫かれそうになり、現地でも何度も危機に瀕します。

それでも、頑張っているうちに道が開けてくる。これが大事なところ。

グレッグのすごいところは、周りに励まされ、支えられながら、とにかく前進し続けていることです。

「どうしようか、どうすれば良いか」と考えながら、思いついたことをとにかく実践していく。

「現地に学校を建てたい」と多くの人に話す。

するとそれを聞いた人たちが親切にしてくれたり、知り合いを紹介してくれたりして、どんどん人の輪が広がっていくのです。

最初は無関係だったような事柄がふくらんで、学校建設やその他の支援に力強く繋がっていく。

その様子を本の中で追体験すると、まるで自分も成功の流れに乗っているかのよう。

自分の目標も、努力を惜しまず頑張っていれば、道が開けてくるんじゃないか……。そんなポジティブな気持ちにさせてくれます。

ただ「すごい話だね」と感動するだけではなく、「自分も頑張ろう」「やればできそうだ」と思わせてくれるのです。

美しい異国の風景

学校建設の舞台となるのは、中東パキスタンやアフガニスタンです。

グレッグはアメリカに住んでいるため、「地球を半周して」という表現が頻出します。

日本から行けば、もう少し近いのかもしれませんが……。

学校建設の最初の目標となるコルフェ村は、鋭い尖峰「K2」のふもとにあります。

文中でたびたび目に付くのが、このような自然の美しさを伝える描写です。

「美しい」という言葉をさらに細分化して伝えてくるような描写は、読者を想像上の現地へテレポートさせてくれます。

私は中東に行ったことはないのですが、「文章に書かれている景色は、こんな感じかな……」と、これまでに見たことのある風景の記憶を総動員して、描写を楽しみました。

「狂気山脈」のすごさが分かる

話が少し脇道に寄りますが、クトゥルフ神話TRPG『狂気山脈~邪神の山嶺~』の話を少し。

狂気山脈に登るにあたり集められた登山隊のメンバーは、エベレストなどの難しい山に挑戦してきた、凄腕の登山家たちです。

話題の中に、『スリー・カップス・オブ・ティー』にも登場する「K2」も出てきます。

配信等では、登山に詳しくない人も楽しめるように、専門用語の解説がなされることが多いです。

私も何度か配信を見てきて、シナリオに登場する用語や地形の意味くらいは理解できるようになりました。

けれど、氷の大地を登るのがどういうことか。

寒さの中でビバークすることがどういうことかは、説明を理解しただけでは分かりません。

『スリー・カップス・オブ・ティー』を読んだことで、雪山登山の大変さを疑似体験的に知ることができました。

ゆっくり流れる氷河を眺める登山。

できるだけ風にあたらないところを探して、体を縮めて眠るだけの夜。

医療スタッフの重要性。

高山病の症状。

グレッグの視点で語られる風景と登山の体験は、狂気山脈の配信と併せて考えると途方もない気持ちにさせられます。

しかもグレッグが登っているのは「K2」であり、狂気山脈よりは低い山なのです。

それでもこれだけ大変な思いをするのに、狂気山脈だなんて……。

配信を見た人間として、そしてプレイヤーとしてシナリオを遊んだひとりとして、自分は途方もない体験をしたんだな、と改めて思わされました。

登山する人、すごい。

「そこに山があるから登る」って、内面に言葉では表現できないいろいろな覚悟を秘めてやることなのかな。

文章から伝わる人相がイメージ通りすぎてすごい

巻末(564~567)に、いくつかの写真が掲載されています。

本に登場した景色や人々を映したものです。

グレッグのメンター、ハジ・アリや、優秀なポーター、ムザファの顔を見てびっくり。

私が文章から想像していたのと、ほとんど同じ顔だったからです。

文章は人柄を表すと、常々感じていますが、これほど強くそう思ったのは初めてでした。

ちなみに、私はここで初めて「K2」の写真を見たのですが、想像以上に斜面の角度が急で驚いています。

あんなところを登るの? これこそビレイヤーとかが必要なのかな……?

想像もつかない世界です。

イスラム教とテロ
イスラム教が悪いわけではない

本の中にはあの「9.11」テロと、それに付随する情勢の悪化も描かれています。

グレッグはあの日、パキスタンにいたというのです。

そして、その後も中東に残りつづけました。

移り変わる情勢を疑似的に一緒に見つめているうちに、私の中で腑に落ちたことがあります。

「イスラム教って、危なくないんだ」

失礼な書き方で申し訳ないです。ちゃんと意図があります。

高校の倫理で、図書館で借りた本で、「イスラム教とはどういう宗教か」を勉強しました。

なぜ、女性が肌を隠すのか。

アラーは預言者に何と言ったのか。

どういう教えが受け継がれているのか……。

だから、イスラム教の中にも「イスラム原理主義」という、特に厳格な考えを持った人たちがいて、テロはこれらの厳格すぎる人たちによって起こされることが多い、と感じています。

(少し話が変わりますが、マーがレッド・アトウッド著『侍女の物語』は、キリスト教原理主義者たちによって作られた「ギレアデ共和国」が舞台です。

アンバランスな世界観は、キリスト教とイスラム教を入れ替えただけで、根っこにある過激さ、厳格さは似ているのかもしれません。)

けれど、宗教の概要を知ることと、その宗派を信仰して暮らす人々を知ることは、大きく違うのではないでしょうか。

日本人から見ると、イスラム教の教えや戒律は厳格なものに見えます。

ところが『スリー・カップス・オブ・ティー』の本を通して見ると、「厳格」という印象はどこかへ消えてしまいます。

現地の生活に馴染んでいるというか、「戒律を守っている」という意識すらなく、そのように振る舞うことが生活の一部になっているというか。

そして、イスラム教圏の人々はグレッグに親切です。

「祈り方を教えて欲しい」と真面目な気持ちで頼めば、きちんと答えて教えてくれます。

モスクでグレッグが混ざって祈っていても、「外国人だから」と咎める人は誰もいません。

グレッグはアメリカ人だけれど、「イスラム教に敬意を払っている」と表現し、同じ志を持っていることを初めて会う人に伝えようとします。

イスラム世界に存在する、多様性のようなものを感じました。

振り返って日本を見てみると、日本の方が周りにも自分にも厳しいのでは……? と思えてきて、ちょっと寂しくも感じたり。

つまり、「イスラム教徒だからテロを起こす」わけでは決してなく、「イスラム教徒の中でも過激な人たちが、テロを起こす」のです。

「普通に暮らす日本人」がいることと、「犯罪を犯す日本人」がいることと変わりありません。

教育がテロをなくす――過激な神学校に抗うには

「19章 ニューヨークという村」から始まる急展開は、私にとって衝撃的でした。

テロリストが醸成されていくさまが、目に見えるようだったからです。

どうして、「アメリカが憎い」「世界が憎い」と思う人が出来上がるのか。

なぜ、テロに暴力で抗うだけでは駄目なのか。

その理由が、グレッグの目を通して理解できたのです。

現地には、満足に学校に通えない子供たちがいるといいます。

グレッグはその子供たちのために学校を建てていました。

しかしそこに、オイルマネーを鞄に詰め込んだ人々がやってきて、ワッハーブ派の神学校を次々に建て始めます。

神学校に入れば勉強ができ、寄宿舎もあって家との距離感を心配する必要もない。

そうやって悪気なく送り込まれた子どもたちは、高い塀の中で洗脳にも似た教育を受けるようです。

なぜ、洗脳されてしまうのか。

比較検討できるような知識を得ていないからです。

それまで満足に勉強できず、知識の源は家族が話してくれる神話やコーランだけ。

アメリカに行ったこともなければ、アメリカ人がどんな人間なのかも分からない。

そんな素直な子どもたちが、意図を持った大人によって「アメリカは憎い」「敵はあいつらだ」というメッセージを受けとり続ける。

神学校を卒業する時、タリバンに引き抜かれていく子どももいたといいます。

他の世界を知らないまま、延長線のようにテロ組織に加わってしまう。

切ない。

「ガンダム00」の刹那もそうだったのかな、などと考えはじめると、本当に悲しいです。

もしも、彼らのもとに学校が――グレッグが作るような、バランスのとれた教育を施す学校があれば。

総合的な知識を得て、自分の力で世界を観察する力を得られたかもしれないのに。

学校がないばかりに、そして今まで誰も「教育を充実させよう」と動かなかったばかりに、「テロ」という恐ろしい形をとって、これまでの怠慢や言い訳が先進国に跳ねかえってきたのではないでしょうか。

アメリカのテロ、ISの暴力で犠牲者が出たことは悲しいけれど、同時にテロを起こした側の国や人々にも、これまで数えきれないほどの犠牲と貧困がはびこっているのです。

どちらが悪い、と一方的に断じることができなくなります。

個人的に、テロの根本的原因を教育に求める視点は新鮮でした。

でも言われていれば確かにそうだし、知識さえあれば「タリバンは極端すぎる」と判断し、自分や国を守ることができた若者も大勢いたかもしれません。

途上国に学校を建てることの意味や、長期的にもたらされる恩恵の中身を、初めて具体的な形で知ることができました。

テロと向き合う陰陽――グレッグと『虐殺器官』

もうひとつ。テロについて考えたことがあります。

伊藤計劃先生の著書『虐殺器官』との対比です。

『虐殺器官』を形作る監視社会も、9.11テロをきっかけに出来上がったという設定です。

フィクション、ノンフィクションの違いはありますが、『虐殺器官』と『スリー・カップス・オブ・ティー』という2つの本は、9.11という同じ事件によって繋がっています。

『虐殺器官』の作中では、テロの原因を「発展途上国の憎しみが、先進国に向くこと」だと考える人がいました。

内戦をしている国は、自国のことでいっぱいいっぱい。他国に怒りを向けている余裕などないのです。

対して『スリー・カップス・オブ・ティー』では、テロの原因を「教育が行き届いていないこと」に見出しています。

先進国が、持てる資源をきちんと分配し、途上国を先進国に引き上げる。

その手伝いに予算を割くことが、長期的に見て自国の安全に繋がる。

だから、学校を建てて教育を広めることが大切である。

2つの考え方は「分断」と「調和」という、対象的なものの見方を体現しているのです。

「途上国は途上国の中で争っていてくれ」と突き放すのか、

「助けあいながら、みんなで豊かになっていこう」と手を取り合うのか。

『虐殺器官』はフィクションですが、架空にも真実の一端が含まれているものです。

テロを起こす国を「危険だ」と断じ、誰も近づきたがらなくなると、取り残された国はどうしようもなくなって、ますます憎しみを募らせるでしょう。

それは実際に起こりうることです。

実際、『スリー・カップス・オブ・ティー』を読まなければ、私も漠然とした印象だけを持って、「イスラム教は恐い」などと安直に考えていたかもしれません。

本を通して、

「イスラム教徒すべてが暴力的思想を持っているわけではない」

「もともとのイスラム教は助け合いを大切にする教えを持っている」

「人々は困っているひとに親切にしてくれる」

という、大切なメッセージを受け取ることができました。

テロを起こした国全体が、「アメリカは敵だ」「戦って征服する」と考えているわけではなかったのです。

グレッグをサポートする人たちはとても親切で――ひょっとすると最近の日本人よりも、人間味があるかもしれないな、などとも思うのでした。



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