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見立てられなかった僕たちの工作

小学1年生の頃、各自空き箱を持ち寄って工作をしようという授業があった。

空き箱を組み合わせて、何かの形をつくるのだ。

僕は空き箱が空き箱にしか見えなくて、パッケージに書かれた商品名が強烈にもともとの個性を主張していて。

だからすでに役割と形をもった箱たちに、その他のモノの要素を見出すことができなかった。

隣のクラスメイトがデスクトップPCの形を作っていた。

ああ、そういうものを創れば良いのか。お手本にしようと思って似たものを創っていると「真似しないでよ」と言われてしまった。

「真似してないよ」

当時は本当に、そう思っていた。



似た話をTwitterで見て、工作について書きたくなったので書いてみた。

結局その後、僕たちが言い争っているのを先生が発見、「こういう時は『真似して良いですか?』って聞くんだよ」と指導され、

僕「真似して良いですか?」
クラスメイト「嫌だ」
と断られて終着した。

誰も間違っていなかったが、僕だけが悶々とする結果になった。本当に本当に、真似するつもりはなかったからだ。

客観的に見ると何を言っているか分からないと思うが(僕も今よそでこれが起きたら「いや、真似しているだろう」と思う)、真似してやろうと思って真似したわけではなかった。

ツイ主さんの言葉を借りるなら、とっかかりがなかったのだ。

何を作って良いか分からなかった。……のだと、ツイ主さんによって当時の気持ちを言語化してもらった。そう、そうだった。


箱は箱にしか見えなくて、せいぜいミニチュアのビル群にすることくらいしか思いつかなくて、けれどもそれでは箱を乱立しただけであってとても作品とは呼べないから……でも、一体何を作れば良い?目の前の箱は何に見える?

……箱だ。

そういう逡巡をくり返していたのを思い出した。


今考察すれば、当時の僕は「見立てる力」が弱かったのだと思う。ASDの特徴のひとつと言われることもある。

まったく見立てられないわけではない。ごっこ遊びは好きだったし、少ない小道具で演劇ごっこをしたりもした。友達がいて「ここに○○があることにしようよ」と言われれば合わせることができた。

ただしひとりで遊んでいると、それがとても難しかった。

世のお子さんの中には、数少ないままごとセットで遊べてしまう子がいる。

フライパンがお皿にもなったり、にんじんの形の野菜がじゃがいもにもきゅうりにも変身したりする。まったく別のものと組み合わせて、予想もつかない活かし方をする子だっている。

僕たちには、それができないのだ。にんじんはにんじんである。

「カレー作りごっこをやりたいけど、じゃがいものおもちゃがないな」と思うような、ないから、買って貰わなくちゃと思うような、そんな子だった

何かをじゃがいもに見立てることができない。外部から「これをじゃがいものつもりでやればいいじゃない」と言われても、それは丸めた茶色い紙だったり、別の色をしたまるいものだったりした。
どう頑張っても想像力の中でじゃがいもにはなり得なかった。

形が違う、色が違う、機能が違う。

違いがあるとまったく違う種類のおもちゃに見えて、だから僕たちは無限におもちゃを欲しがったのだろうなと今なら思う。
木のままごと台と、蛇口から水が出るままごと台は別のおもちゃなのだ。


当時、年上の友達と「はいしゃさんごっこ」を思いついたもののそれらしい道具のおもちゃが一切なかった時、「ないから、できないね」といいかけた僕の前で「アルミホイルある?」と聞き、ホイルをひねったりまるめたりしてそれらしい道具をいくつも作りあげたのを見て驚いたものだ。




見立てるのは今も苦手だが、「ここにこういう収納があれば……」とか「ここにこういうものを工夫して……」と考えて、段ボールなどを使ってささやかなものを工作するのは、高校を卒業したあたりでできるようになってきた。

きっと18年生きてきた中で、アイデアの引き出しが充実してきたのだと思う。
これまで見てきたものひとつだけから着想を得るとそれは「模倣」であり「違法」だけれど、これまで見てきたものが個人の中で醸造され、組み合わされれば、それは「個性的な新しいモノ」になりえる。

醸造できるだけの材料が他の人に比べてゆっくり溜まっていくから、僕たちもようやく工作ができるようになってきたのかもしれない。今から図工の授業だけ出直したい。


そんなふうに思った。





文責:直也


サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。

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