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繊細な「私」と一緒に向き合う差別・偏見【白尾悠『サード・キッチン』読後感想】

明るい黄色の背表紙と、印象的なタイトルに惹かれて手に取った物語。

白尾悠先生著『サード・キッチン』(河出書房出版)。

読んで、私なりに感じたことをまとめていきたいと思います。

個人的な結末への印象を書く部分がありますので、ネタバレが苦手な方はご注意ください。

『サード・キッチン』を読んで考えたことなど
英語が話せること≠友達が増えること

物語の主人公は、「私」。

「私」はアメリカの大学に留学中で、拙い英語に苦労しながら頑張っています。

実際、「私」のセリフは拙い英語を表現するように、つっかえつっかえなことが多いです。

どういう英単語を使って話しているのかなー、と、私もさらに拙い知識を回して考えながら読んだのも、楽しかったことのひとつ。

文中でも触れられていますが、しみじみ思うことがあります。

英語が話せるようになったからと言って、自分と違う自分になることはできないということ。

私はどちらかというと人見知りな方。

多少の英語はできますが、いざアメリカに行っても急に活発になったり、友達を増やしたりするのは苦手です。

少人数でじっくりおしゃべりするのが好きな気質は変わりません。

さらに、いくら文法や単語を覚え、語学力を磨いても、誰かと話せる話題がなければ、中身がない箱を持っているのと同じ。

どこまでも言語とは手段であり、相手に何を伝えたいのか? こそが重要であると思い知らされます。

拙い言葉でも、頑張って単語を並べれば親切な人は理解しようとしてくれます。

テストで良い点は取れないけれど、実際はそれで大丈夫だったりもするのです。

同時に読み進めている中で感じたのは、「私」が持っているある種の勇気。

前述の通り、「私」が英語で話すセリフは文節で区切られ、拙い感じが演出されています。

拙くても、頑張って話す。話し続ける。

それってとても勇気のいることだと思うのです。

少なくとも私に同じことはなかなかできません。

正しい文法はなんだっけとか、単語はこれで合っているっけとか……。

「形」から入ることばかりを考えて、黙り込んでしまうだろうから。

拙くても話してみる。「伝えたい気持ち」が先に出る。

それは紛れもない、「私」の魅力のひとつです。

表紙のメンバーが名前を得ていく

『サード・キッチン』の表紙には、外見の多様な人たちが、一緒にご飯を食べているイラストが描かれています。

最初にこの本を手に取った時、私は単にこう思いました。

「多国籍の人たちが、ごはん食べてるな」

しかし物語を読み進めているうちに、驚くべきことが起こったのです。

表紙に描かれた「多国籍の人たち」が、名前を持った個人に変わりはじめました。

まず、表紙の真ん中付近でこちらを見つめている、黒髪でチェックのシャツの女の子と目が合いました。

これが、おそらく「私」なのでしょう。

そして、その隣でにっこり笑っている赤い服の女性が、きっと「アンドレア」。

物語が進んでいくにつれて、「表紙のこの人はきっと○○、それでこっちが……」と、キャラクターとイラストがリンクしていくのです。

まるで読んでいる私自身も知り合いが増えていくような、嬉しい錯覚に陥りました。

繊細で非社交派な人々――繊細さんにも居場所はある

物語の中で、特に好きなシーンがあります。

「私」とアンドレアが、ふたりだけの「非社交派お絵かきパーティー」を開くところです。

アメリカ人は社交的で、さわがしいパーティーが大好き。

そんな「ステレオタイプ」を抱く人は多いものですが、人間はそれほど単純に国籍で区切れるものではありません。

HSPについて詳しく書かれた本『ひといちばい敏感な子』にも詳しいように、国・地域に関わらず、生物の2割(5人にひとり)は「繊細さん」です。

著者のエレイン・アーロン先生がアメリカに住んでおられる事情もあり、本の中にはアメリカの「繊細さん」が実例として多く登場します。

アンドレアもきっと、こういう「繊細さん」のひとりだったのでしょう。

パーティーに出てみんなと騒ぐよりも、ひとりで静かに絵を描くことを優先していました。

この姿に、私はほっとするものを感じました。

「『みんな』(大多数の人)がパーティーに行くっていうから、私もいって盛り上がらなくちゃ」

「『みんな』に合わせて楽しいふりをしなくちゃ」

ともすると多くの人が、姿の見えない『みんな』に合わせようと無理をしてしまいがちです。

本当に大切にすべきなのは、自分の気持ちや気質だというのに。

アンドレアは『みんな』から少し離れて、自分がやりたいことを優先していました。

そして、彼女と共に楽しい時間を過ごした「私」も、きっとこちらの方が向いています。

もちろん、パーティーに出るのは楽しい体験です。

しかし、無理して出席したり、楽しくないのにお愛想笑いを続けるのが、本来の楽しみ方でしょうか。

自分が楽しめるだけの時間(30分でも1時間でも)だけ楽しんで、早めに帰る。

途中で休んで、また合流する。

そもそも、パーティーに行かない。

人の数だけ、イベントとの上手な付き合い方があるものです。

マイナスとプラスを行き来する――リアルな「私」の姿

物語の文章は「私」から見た留学生活を描いています。

主語が「私」なので、「私」の心情描写も深くてリアル。

「ああ、分かる」と感じるところがたくさんありました。

「私」の感情の起伏も、そのひとつです。

「私」は様々な事情から、物事を否定的にとらえたり、自罰的な傾向の思考をすることが多いようです。(ここも共感したところ)

だから物事が順調に進みそうなとき、ブレーキをかける描写が髄所に見られます。

冷静な読み手の立場でいると「素直に喜べよ」などと思ってしまったのですが、いざ自分の身を振り返ってみると――すごくよく分かる。

ちょっと前までの自分そのものだからです。

「素直に喜べよ」などと思ってしまったのも、昔の自分を見ているようだと感じたからかもしれません。

私は物語の中に、ハッピーエンドを期待する節があります。

だから「私」を取り巻く状況を見て、「このまま好転していくんじゃないの。好転してほしい」と思います。

でも、そこで「私」が舞い上がる思考にブレーキをかける。

読み手の私のテンションにも「キキッ」とブレーキがかけられた気になる一方で「これも自然なことだな」とも思うのです。

嬉しい出来事が起きれば、もちろん嬉しい。

でも素直に喜ばず、最悪の事態を想像しておいた方が、傷つかずに済むような気がする――。

だから、喜びにブレーキをかけてしまうのです。

ちなみに、私が予想した「最悪の事態」がそのまま現実になったことは1度もありません。

自分を責めがちな思考を持っている人は、大げさな思考を展開するクセを持っているのでしょうか。

ちょっと昔の自分に思いを馳せながら、「私」に「うんうん、分かる」と共感するところです。

身につまされること――コロナの現在を見回して

物語の舞台は、1998年のアメリカです。

まだiPhoneもなければ、東京ディズニーシーもオープンしていません。

なんなら、私はまだ1歳でした。

そんな時代の話。

でも、物語の中で取り上げられる「差別」「偏見」「ステレオタイプ(先入観)」の話には、非常に考えさせられるものがありました。

ブレナン教授の感動的な言葉を引用しておきます。(309ページより)

「戦争、災害、疫病……あまりにも大きな問題を前にすると、僕らはしばしば不安と無力感に苛まれる。そんなとき剥き出しになる、他者への恐怖や憎悪にブレーキをかけるのが、知性と想像力だ。何かが間違っているとき、どんなに無力でも、何かしないではいられない――そんな、世界にとっては虫の羽が震えるくらい小さな、でもとても人間らしい衝動を無視しない、主体的に考え続ける個人でありたいものだね」

これは「5月4日の虐殺」メモリアルデーの日に話された言葉ですが、現在の状況とリンクするように思えてなりませんでした。

2020年、2021年現在は世界的にコロナが蔓延。

また情報化社会が進み、SNSで大勢の多様な意見・悲しい話・誹謗中傷が目に付くようになりました。

自分を「普通」と位置付けて、自分と違うひとをみんな「異常」だと糾弾する人。

それは「差別」だと注意する人。

「差別」だと騒ぎ立てる人こそが「差別」をしていると、滅茶苦茶な話を始める人。

この本を読む中で、私も差別について非常に考えさせられました。

差別とは、何も肌の色や、生まれた国や地域に関するものだけではありませんでした。

「アメリカ人は、こうだろう」「日本人は、こうだろう」

「男は」「女は」

他者に対して持つ先入観、すなわち「ステレオタイプ」も、くくりの大きな差別・偏見だったのです。

自分も知らず知らずのうちに、数えきれないほどの先入観を持っていることに愕然としました。

1998年当時と、コロナ禍の今に必要とされているものは変わりません。

「知性」と「想像力」。

「新型コロナウイルス」とは何なのか。どういう対策をすれば良いのか。

ネットで流れてくる情報は、信頼に値するものなのか。

他の誰でもなく、自分で情報を集めて、判断を下す。

自分とは違う立場・職業・年齢の人の状況を想像する。

その人の暮らし、何を考えそうか、どんな思いを抱くだろうか――。

想像を膨らませれば、わざと人にぶつかったり、人に罵声を浴びせようなどとは思えないのではないでしょうか。

視野が狭くなり、余裕がなくなり、相手を思いやれない人が目立つようになってきたと思います。

物語の時間軸から数十年が経過しても、必要とされている感性は共通しています。

大事なのは関心を持ち続けること

白人と黒人の差別。

アメリカ人と留学生の差別。

個人に抱く偏見。

無知を貫くという「差別」――。

スケールの大きいものから小さいものまで、身の回りに数えきれないほどの差別と偏見が転がっています。

それらをすっきり解決する方法はないものだろうか。

もし全部を解決して、平和な世界が訪れたらどれほど幸せなことだろう――。

思うものの、それらの問題は深く絡みあっていて、一筋縄ではいきません。

人の数だけ考えることがあり、分かり合うことが難しい、聞く耳を持たない人も中にはいます。

あるいは、まだ耳を傾ける準備が出来ていないのかもしれません。

解決策を考えようとすると、あまりにも壮大だからなのか、それとも知識が乏しいからなのか、ただ一つの正解なんてないような気さえしてきます。

だからといって、解決を諦めるのか?

それより大切なのは、関心を持ち続けることだと思います。

マザーテレサも、「愛の反対は無関心」という言葉を残したと言われています。

問題を気にかけて、どうすれば良いか考える。

時期によって出てくる答えは違うでしょうし、人と話すごとに考えがぶれたり、新しい視点を手に入れたりできるかもしれません。

それでも、考え続ける。

身近な人と気軽に話題にすることで、考えはじめる人を増やすことができるかもしれません。

自分ひとりが関心を持つことで、新たな関心の種を植えることができる気がするのです。

世界にはやっぱりいろんな考えが混在して、ひとつにまとまることはないかもしれないけれど、少なくとも無関心な人の数は減るかもしれません。

気にかける人が増えれば、新しい視点からの解決策が増えていく。

そのうち、すっきり解決できる方法も見つかるかもしれない。

そうやって、ちょっと壮大な想像も膨らませてみたりするのでした。


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