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言葉を通して世界を見るとはどういうことか【多和田葉子「地球にちりばめられて」】

言葉を深く思考する

よく考えてみると地球人なのだから、地球に違法滞在するということはありえない。それなのになぜ、不法滞在する人間が毎年増えていくのだろう。このまま行くと、そのうち、人類全体が不法滞在していることになってしまう。

多和田葉子「地球にちりばめられて」

北越出身だというHirukoは、北欧圏に留学している最中に祖国が「消滅」してしまい帰れなくなった。
ビザの関係で北欧諸国を移動しながら暮らす彼女は、スカンジナビア圏で通じる独自の言葉「パンスカ」を話す。

言語学を研究する学生のクヌートは、パンスカに魅せられてHirukoと旅路を共にする。視点主を変えながら展開されていく物語の中で、特にHirukoとクヌート視点の時に根底に流れる「言語」というフィルターは、ふたりの価値観の近さと人間の発明品の不可思議さを強調する。


Hirukoは「パンスカ」という独自言語の名称を向こうの言葉で「汎」と「スカンジナビア」からとったと作中で語る。
日本語の「汎(はん)」と「パンスカ」の「パン」が似た響きなのもおもしろい。


単行本を手にし、第一章「クヌートは語る」を読み始めてすぐに、「あ、これは私のような人のための本だ」と直感的に思った。
初めて触れる著者の作品だというのに文章の流れがスッと飲み込め、目の前で場面が次々に展開される。登場人物たちの周りで起こっていく様々を、ストレスなく受け入れられる。
こんな本には滅多に出会えるものではないと思う。

「私のような人のための本」どんな人たちか。
言葉で思考するけれども言葉に絡め取られていない、言葉という道具そのもののことも冷静な目で観察する・してしまう人たちのことだ。

「クヌートは語る」を読んで、私はいつになく自分の心にフィットする本だと思った。ついでに言うと書物という意味での、本そのものの手触りも良い。紙の厚さとつるつる具合が、文章の質と合っている。なんてストレスなく読み進められる本だろう。ページをめくるのがあまりにも楽しいのだ。

……話を逸らしてしまった。

続く章「Hirukoは語る」を読んで、私はある先輩のことを思い出した。
以前別の記事にも書いた、言葉のそもそもの意味や慣習について深く考える友人のことである。

「Hirukoは語る」を読めば、彼女が物事を捉えたとき、深く深く思考する体系を持って世界を観察していることがよく分かる。

事物を表す言葉のみならず、単語そのものの意味まで突き詰めて「でもそれってさ……」という曖昧な疑問を身の回りのあらゆるところに感じている。

ある程度不自由のない生活をしていれば、考える機会のない/必要に気づかないでいられる視点と言えるのではないだろうか。

国が消滅したからか、あるいは生まれつきの感性の鋭さか。Hirukoはそれに気づいて思考する。言葉という構造体の構造そのものに立ち返ってまで考える。

彼女と、彼女に近い思考体系を持つクヌートの語りを追うにつれ、読者の心はある種救われていく。
嗚呼こうやって深く思考するのは、間違いでもおかしいことでもないんだ、と。

人が考えないことを考える人は、なかなか共感されない。
「そこまで考えたことなかった、すごいね」とちょっと距離を置かれたコメントをされたり、時には「めんどくさい人」と言われてしまったり。

けれど『地球にちりばめられて』の中では、その深い思考こそが原動力となって人との出会いが置き、物語が進んでいく。展開が細やかで気持ちがすく。
もしかして自分もどこかで、こんなふうに奇妙で、不思議で、けれども巡り合わせとしか言いようのない出会いができるのではないかしら。
この深い思考体系は価値観と強く繋がっているから、価値観の合う誰かと繋がる強いシグナルになるのではないかしら。
そんな希望を抱かせてくれる。


ちりばめられた破片の中に地球が見える

この作品は「パンスカ」が通じる北欧圏を主な舞台として進行していく。地球全体から見れば限られた範囲の話だ。

それなのに表題には「地球」とあり、読者は物語の中に人類文化という「地球」を感じる。なぜなのか。

この物語のあらすじしか知らなかった頃は、散逸した「消滅した国」の出身者が「地球にちりばめられて」いるのだとばかり思っていた。それだけでは浅い理解だった。

物語の中には言語、文化、、性別、人種、国を変えて、現在の地球に存在する問題や傾向が描写されている。
だがそれらは順不同で、ある種一貫性がなくて、不思議な気持ちになる。

私は北欧に行ったこともなければとても詳しいわけでもないので、「北欧にはそういう文化の土壌があるのか? これが起こりうる可能性はあるのか?」というところから分からない。
「それ」が起こるのは別の国の方が多いのではないか。あれは、これは、それは……。

でも、北欧で起こるのだ。

Hirukoたちが旅する北欧には世界が集まっている。読者はそこに北欧以外の国を幻視する。人類の作り上げてきた「地球」の破片を北欧に見る。

散らばった破片が北欧に集まったのか、それとも北欧から散らばった破片が世界になったのか?

作中の出来事と同じように、そもそもの始まりの順序から心地よく分からなくなっていく。決して不快ではないのが不思議だ。


そんな不思議さに心惹かれる人に、ぜひ触れてほしい本だと思った。


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