私の記憶に生きる人たち
「人は二度死ぬ」という言葉がある。仏教の世界ではそう言われているし、本や講演会でもよく使われる引用文だ。
1度目は実際死ぬとき、2度目は人々の記憶から完全に忘れ去られるときのことを言う。
そう考えると、モーツァルトやベートーヴェンは、永遠に生き続けるのかもしれない、人類が滅亡するまでは。
私個人の話をすると、当然自分の家族はその概念にあてはまる。数年前に亡くなった父のことを一日たりとも考えない日はない。私が死ぬまで父の魂は生き続けるだろう。
そして、私がクリエイターとして日々執筆している時、ふと思い起こす人物がいる。
大学時代にお世話になったアメリカ人の先生だ。
もうウン十年前のことだが、笑、私が都内の大学に通っていた時、すでに自分の中では就職せずにアメリカの大学院にそのまま留学するという気持ちは固まっていた。
アメリカの大学院を受験するにはGRE(The Graduate Record Examinations)というテストのスコア、エッセイと一定レベルの成績そして推薦状3通が必要だ。
推薦状3通を誰からもらうか、というのがカギになってくる、と戦略的に考え、推薦状を書いてくれそうな教授を念頭に置きながら、クラスを選んだ。
2通はゼミの先生や自分の専攻分野の先生から確保できそうだ。
あと1通はどうしようかな。英語がネイティブの先生のほうが頼みやすい。そしてエッセイも添削してもらえる!
そう考えて、他学部の私が、英文科のクラスを受講することになった。推薦状がほしいという私のもくろみをしりつつ、そのアメリカ人の先生は、私を快く受け入れてくれた。
彼女は当時40代前半、ポルトガル系アメリカ人で小説家でもあった。日本に来たのも初めてだったらしいが、自分のルーツであるポルトガルにどことなく似ている日本での生活を気に入っていたようだった。
彼女にとって日本で過ごす初めてのクリスマス。私は大学院受験に提出するエッセイを先生にチェックしてもらうため、彼女が住んでいた教師用の住居に押しかけていた。
彼女は私を料理でもてなしてくれて、エッセイのアドバイスもくれた(というより書き直してくれた)。
「(私が書き直した)エッセイの内容はちゃんと理解しておいてね」と笑いながら、私のチャレンジを心から応援してくれた。
ボストンの大学院に晴れて合格し、アメリカに渡った翌年に、先生も東海岸にある名門カレッジの教授として帰国した。その年の夏はロードアイランド州にある彼女の実家に招待してくれ、数日間を一緒に過ごした。ご両親も気さくで素晴らしい人たちだった。
先生は友人や教え子たちに毎年クリスマスカードと一緒にその年の出来事を小説のように記した長い手紙を同封してくれる。何年かやりとりしていたのだけれど、パタッと来なくなった。
おかしいな。それでも、私は日々の仕事が忙しく、そのまま何年か過ぎてしまった。
今から10年前だろうか、アメリカに遊びに行ったときに、先生に連絡してみようと勤務しているだろう大学のホームページから先生のアドレスを調べてメールを送ってみた。返信が来ない。
忘れられたのかな、と思いながらも、先生の名前と大学名で検索をかけてみる。先生の名前が大学のニュースレターの訃報欄(obituary)にあった。記事によると、長いこと闘病生活を送られていたらしい。私がメールを送った頃に亡くなられたようだ。
なんで、もっと早く連絡しなかったのだろうか。
私が記者をしていることも伝えていたかどうかも覚えていない。
先生は、私が記者になる前に文章との向きあい方を教えてくれた人だ。
ちゃんとしたお礼も言えなかった。悔いだけが残る。
そして今、先生と同じく”物書き”として机に向かっていると、当時の思い出もよみがえってくる。
先生はどんな気持ちで文章を書いていたのだろうか。
いつか日本での滞在経験を執筆したい、と言ってたっけ。
彼女は私の記憶の中に間違いなく生きている。
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