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第1怪「チャンネル開設のご挨拶」

小島:皆さん、こんにちは。
竹美:こんにちは。
小島:東京在住、映画宣伝などをしております「映画パンフは宇宙だ!」という団体に所属の小島ともみです。

<小島>
東京在住映画宣伝

竹美:インドに在住、映画ライターの竹美と申します。よろしくお願いします。わたしも「映画パンフは宇宙だ!」のメンバーです。

<竹美>
インド在住映画ライター

小島:二人ともホラー映画が好きということで、二人に共通する好きなホラー映画、お互い好みが合う、合わないがあるので、そういうところからホラー映画をいろんな形で見ていければと思っています。ちなみに、チャンネル名なんですが。
竹美「ジェニファー&ジェイミー」という名前にしました。

“ホラ活”ポッドキャスト
「ジェニファー&ジェイミー EVERYTHING ABOUT HORROR MOVIES」
毎週日曜日に更新中!

小島:チャンネルの名前の由来は後で説明しますね。まず、何でね、こんなふうにチャンネルを始めようかと思ったかなんですけれども、あれは9月でしたかね。
竹美:ですね。
小島:9月の中頃に京都みなみ会館さんという映画館でジョーダン・ピール監督の特集上映を組まれていらっしゃいまして、そのときのオールナイトのトークショーゲストとして呼んでいただいたんですよね。なぜ呼んでいただいたかというと、「映画パンフは宇宙だ!」で以前、ジョーダン・ピール監督のアスUs)』(2019)という映画について考察をしてみようという本(PATUFanZine Vol.01「Enemy is Ourselves about Us」を作りまして、そのときの編集長が竹美さんでしたよね。『アス』本はどういうコンセプトでそもそも作ったんでしたっけ、竹美さん。
竹美:もうほとんど忘れかけていましたが、制作をするときに『アス』というタイトルが「わたしたち」という意味と「United States」のダブルミーニングだったわけなんですけれども、「わたしたち」というタイトルになっている以上、作品の矢印はやっぱり自分たちというものに向いているということで、じゃあ、目的のとおり、わたしたち、日本に住んでいる日本人のわたしたちも自分たち、わたしたちのこととして見るっていうことができたかなっていうことを、もう一度考えようっていうことで出発いたしました。
小島:トークショーの内容について打ち合わせをする中で、本を作ってからだいぶ経っていたので、二人でその当時のことを思い出しながらいろいろ話していたんですけれども、じゃあ、実際「わたしたちのこと」として見られていたかどうか、そういうような本になったのかなっていうところで、そもそも最近のホラー映画についてもうまく見られているのかなっていうところから、いろいろ話をしたんですよね、そのときにね。
竹美:そうですね。
小島:なので、ちょっと過去の作品とかを振り返りながら、わたしたちこれからどうやってホラー映画を見ていこうかなっていうところをなんとなく探っていきましょうかっていう、多分そんなノリでお話をしていくことになると思います。よろしくお願いします!
竹美:よろしくお願いします。

初めて観たホラー映画って?

小島:最初に観たホラー映画って覚えてます?
竹美:初めて観たのは……。
小島:わたしたちの世代って多分テレビで観ていますよね。
竹美:うん。
小島:わたしはね、あれだったんですよ、エクソシストThe Exorcist)』(1973)。テレビでやっていたんですよね、これ。
竹美:ああ、テレビ。いや、びっくりした(笑)。73年に……と思って。
小島:8歳ぐらいのときに観たから、78年とかかな。だから、5年後ぐらいですよね、きっと劇場公開されてからね。当時はあれぐらいも普通にテレビでやっていましたもんね。
竹美:だって、バタリアンThe Return of the Living Dead)』(1985)とかやっていましたもんね。
小島:うん、やっていた。
竹美:結構、画面がぐちゃぐちゃになる。
小島:まだレーティングとかが存在しなかった頃かな、あったかな、レーティングって。
竹美:あったのかもしれないんですけど、でも。
小島:細かいのはなかったような気がするんだけど。アダルトかアダルトじゃないか、みたいな。
竹美:アダルトじゃなければもう何でもよかった。
小島:そうそう、何でもよかった気がして。こういう映画をわりとテレビでも気軽にやっていた時代ですよね。だから、ホラー映画観るのって普通に映画を観る感覚だった部分ってありますよね。その中でもわたしね、一番衝撃を受けたのが、これもやっぱりテレビで観たんですけど、キャンディマンCandyman)』(1992)だったんですよね。ジョーダン・ピール監督もリブート版というか、続編版みたいなのでプロデューサー務めていらっしゃいましたけど、『キャンディマン』ってエロティックですよね、すごく。
竹美:うん、そうですね。
小島:怪物と恋に落ちる、ホラー映画で怪物を好きになってしまうというか、惹かれ合っちゃうっていうところがすごい展開だなと思って。あれラブストーリーだとは思うんですけど。
竹美:エロティックですよね、確かにね。もう完全に彼女は性的に惹かれていますもんね。
小島:そうそう。ちょっとソフトフィルターとかかかったりしてね(笑)。
竹美:(笑)。
小島:あそこがね、やっぱり子どものときに観るとすごくいけないもの、本当にいけないものを観ているなっていうドキドキ感があって、それが(ホラー映画にハマっていく)入り口だったと思う。
竹美:なるほど。わたしの家の場合は、ホラー映画を観ることに対しては親が長らく非常に抵抗感を示していたので、どっちかといえば観たいけど観られない、みたいな。でも、レンタルビデオで結局観ちゃったんですけど、観ているとなぜかお母さんがいつも横で一緒に観ていた、みたいな。
小島:(笑)。
竹美:わたし、母はホラー映画好きだったと思うんですよね。
小島:お母さんは大丈夫なの?
竹美:はい。父は多分、全然そういうスーパーナチュラルな想像力というものをどこか下に見るっていうんでしょうかね。そういうところがあるので。彼は、アガサ・クリスティとか『刑事コロンボ』シリーズとか……。
小島:理詰めでいく感じの。
竹美:そう。それはそれで歪んだ人間の姿がよく出てしまう、ヒッチコックもですね。わたしは子どもの頃から結構歪んでる内容をスーッと観ていたんでしょうかね。
小島:その三者はわりと人間のどす黒いところがよく出るやつですよね。
竹美:ええ。あとシャーロック・ホームズ好きでしたね。NHKドラマでやっていたじゃないですか。
小島:BBCのやつ。
竹美:比較的あれはみんなで観られる作品だったので、よく(家族で)一緒に観ていたんですけど、父に一度、「なんかちょっと怖くない?」って聞いたことがあるんですよね。ホラーっぽかったんですよ。失踪した夫か花婿か何かを探す話で、男が浮浪者に化けていた。その変装を暴くところが結構ホラーじみていて、これ結構怖くないかなと思って聞いたら、「そういう空気はあるかもしれないね」とは言ってました。
小島:確かに。
竹美:食欲を、どっちかと言えば失わせるような。コロンボとかエルキュール・ポアロの映画版はご飯食べながら観られるじゃないですか。
小島:からっとしていますもんね。
竹美:そう。食欲がむしろ出る感じ。でも、シャーロック・ホームズはちょっと無理ですよね。
小島:ちょっと幽霊談っぽいところもありますもんね。
竹美:ありますよね。「バスカヴィル家の犬」とかもそうだし。
小島:雰囲気がね、すごく。竹美さんは何でしたか、最初に観たホラー映画って。
竹美:わたしは、劇場で観たので記憶しているのはグレムリンGREMLiNS)』(1984)ですね。監督ってジョー・ダンテでしたっけね。
小島:そうですね。
竹美:ですよね。それで、スティーヴン・スピルバーグもので、当時はホラー映画っていうつもりで観ていなかったんですけど、世間的にはホラー映画なんですね、あれね。
小島:クリーチャーものですよね。
竹美:ですよね。レンタルビデオで初めて借りて観たのが、もうこうやってインドにも持ってきましたけど、ポルターガイストPOLTERGEIST)』(1982)ですね。親が見せてくれないのに、なぜ知ったかというと、やっぱり予告編だったりクラスメイトの噂だったり、そういうところから入りました。
小島:あの頃って、テレビコマーシャルで普通に予告編が流れていましたよね。
竹美:そうそう。時期的にはもうパート2が出た後あたりだったので、キャロル・アンの顔がミイラ化するという衝撃的なコマーシャルが普通に流れていましたよね。https://note.com/takemigaowari/n/nb48d8b75a931

あれを見て頭に焼き付いちゃって借りた覚えがある。明るい時間にみんなで『サウンド・オブ・ミュージック』を観て、わたしだけ夜の9時ぐらいから、うちの家は寝るのも早かったので、9時ぐらいに一人でテレビつけて観ていたんですね。
小島:竹美さんは『ポルターガイスト』のどの辺に興味を引かれたんでしょうね。なぜ観たいと思ったのかな。
竹美:そう言われてみると、話を聞いて観たいと思った理由っていうのは、実は分からないんですよね。何が特別だなと思ったのかな。
小島:いわゆる怖いもの見たさ、みたいな。
竹美:怖いのが好きかって言われたら、別にそんなわけでも。興味はありつつ、例えば、うちはその当時はまだ漫画が許可されていなかった時代で、いとこの家に行くともうさまざまな漫画があって、楳図かずおのおろちとかを読んじゃうんですよ。たまたまひょっと拾ったら、すっごい内容、うわあ、みたいな。今、読み直すとそうでもないんですけど、とにかくこのスーパーナチュラルなものの気持ち悪さとか、そういうのに惹かれる気持ちっていうのは、多分もう遺伝的に持っているような気が、持っている人と持っていない人がいるような気がするんですね。
小島:知っておいたほうが怖くなくなるっていうところもあるかもしれない? わたしは知らないままだと怖い感じがして。
竹美:そこまでの、何かのためにこれが好き、みたいな、そういう意味づけっていうのはあんまりないんじゃないかなと思うんですよ。単に好きなんですね。80年代のあの頃って、子ども向けの本で、これぐらいの分厚い本で、何とか百科みたいなのありましたよね。
小島:あったあった。
竹美:ありましたよね。わたしあれ、本当に買っておけばよかったなと思っているのがあって、ホラー映画の特集のやつがあったんですね。わたしはそれが欲しかったけど、結局SF百科とかを買ってしまって、それはまだ実家に持っているんですけど。ホラー映画のやつを立ち読みしたときのあのショックね。巻頭がカラーなんですけど、そこにあったので覚えているのが、フェノミナPhenomena, Creepers)』(1985)と『ポスターガイスト2POLTERGEIST II: THE OTHER SIDE)』(1986)だったんですよ。だから、多分キャリーCARRIE)』(1976)とかも後ろの方で見て、わあって思ったんです。その共通しているのが、何故か少女もの(*『キャリー』についての竹美の想いはこちらでどうぞ…)。

小島:うん、そうだね。
竹美:全部そうなんですね。何か惹かれるんでしょうね。男性がパッケージに出ている、男の子っぽいやつ。例えばドラキュリアンThe Monster Squad)』(1987)とか、ありましたよね。ああいうのには全然惹かれなかったんですね。『ドラキュリアン』を観たのは結局、去年じゃないかな。あとロスト・ボーイTHE LOST BOYS)』(1987)も観ていないんですよ。
小島:あれはもうボーイズ・ストーリーだね。
竹美:名作でしょう? でも、観ていないんですよね。だから、ホラーに惹かれているというよりも、「神秘的な空気を持った少女」みたいなのがすごく好きなチャンネルと、超自然的なそっちの世界を覗きたい、みたいな気持ちの二つがびしゃっと合っているのがやっぱり『ポルターガイスト』か『フェノミナ』とか、あとはいろんな少女漫画も、そのいとこの家とか、後には友達とかから借りていっぱい読んでいて、やっぱり引っかかるのは海の闇、月の影とか、超能力姉妹の宿命の対決、みたいな、そういうのとかが好きで、闇のパープルアイとかもわくわくした。
小島:篠原千絵さんでしたっけ。
竹美:そうですね。篠原千絵さんの漫画はもうとにかく好きで、実家に帰ると毎回読むぐらい好きなんですね。そういうのを一つ一つ足していくと、やっぱり美少女で、あっちの世界と通信しているとか、向こうから狙われているとかで、そこから必死で逃げるとか。
 もう一つホラー映画で好きな部分っていうのは、こういうことを今の時代言うのはね、いいのかどうか分からないんですけど、ファイナル・ガールですかね。ファイナル・ガールだけど、必死の表情で逃げてるところというのにすごくシンパシーを感じていて、一番最初に好きになったヒロインっていうか、それって『グレムリン』のフィービー・ケイツ(Phoebe Cates)じゃないかなと思って。
小島:確かに逃げていますね、思いっきり。
竹美:逃げています。それからあとはオズReturn to OZ)』(1985)って覚えてます? ちょうど同じ頃の映画の筈なんですけど、あれフェアルーザ・バーク(Fairuza Balk)って、その後、ザ・クラフトTHE CRAFT)』(1996)とかに出て、ゴス娘が板に付いちゃった人なんですけど、フェアルーザ・バークの『オズ』は結構おどろおどろしくて、ちょっと怖いんですね。でも、すごく好きなんです。やっぱり彼女が必死に立ち向かうというよりは逃げつつ、その状況に巻き込まれて、一生懸命っていうわけじゃないんでしょうけど、頑張っている姿がね。わたしはあれになりたかったんでしょうね。なれなかったけど。
小島:あの手のエンディングで二つ大まかにあって、必死で逃げているうちに何か偶然のことが起きて追っかけてきていたものが死んじゃうとか、あとは前の方で死んだと思われてた人が助けてくれるとか、自分はとにかく逃げ回っているだけで何かが起こって助かるっていうパターンと、あとはもう諦めて立ち向かうっていうパターンと二つあるじゃないですか。それでいうと、竹美さんは最初のパターンのほうが好みですかね。
竹美:多分そうですね。逃げているうちに何かの拍子にモンスターが死んでくれるか、ヒーローが倒してくれてもいいし、倒してくれなくてもいいし。諦めて立ち向かう、みたいなほうに行くハロウィンHALLOWEEN)』(1978)が全然引っかかってこないのは、多分そうなんでしょうね。
小島:なるほどね。
竹美:反撃するヒロイン系にあんまり共感しないんですよ。多分、自分の中にそういうものがないんでしょうね。
小島:立ち向かっていく感じがない。
竹美:そういうたくましさがないんでしょうね。分かったよ、もう死ぬよ、みたいな気持ちになるのかな……と思ったら意外と死なないんですよね。
小島:結局それはヒロインが困ってるところを見て楽しんでいるっていうよりは、自分がそこに同化してっていうことですよね。
竹美:そうですね。これはゲイが女性のキャラクターとの間に持つちょっと変わった、特殊な、でも、よく見られる関係なんじゃないかと思うんですけどね。憧れつつ、でも、それになりたいわけではないっていう。
小島:一定の距離感がある。
竹美:そう。じゃあ、そのキャラクターというものを馬鹿にしているのかっていったらそういうわけでもないし、自分とすごく近いものとしては感じつつ、それにすごく憧れながら、一方でそれではないんだっていう気持ちははっきり持っているんですね。つまり、常にそこに遊びっていうんですかね、遊戯性っていうんですかね。そういうものが必ずそこにあって、多分、人生の中で時々そこに遊びに行って、時々その都度その都度考え直して、やっぱりずっと同じキャラクターを追い続けているっていうのがゲイと女性キャラ、それは現実にいる女性の人物に対する憧れ方でもあると思うんですけど。
 ドラァグクイーンっていうのが、これはマツコ・デラックスも言っていましたけど、そういう女性に対する憧れみたいなものを女装することで表現してきてはいるとは思うけども、それになりたいわけではないけど、おそらく自分の理想としているものと現実にいる女性…彼の場合は土井たか子とかジャニス・ジョプリンとかを挙げていましたけど、あと加賀美幸子さんとか。そういう人たちの中に多分自分と同じものを見ているんでしょうね。見ているからこそ、こうなりたい。もちろんなれないんですけど。なので、ドラァグクイーンっていう一つの遊びが生まれるわけですよね。
小島:なるほどね。
竹美:わたしの場合は、ファイナル・ガールの中でも、逃げているうちに偶然モンスターが死んでくれるか、誰か別の人が倒してくれるか、何か偶然助かる系、これが好きですね。

ファイナル・ガール、強すぎじゃない?

小島:最近のファイナル・ガールってめちゃくちゃ強いですよね。
竹美:そうそう。ファイナル・ガールが地球を全部滅ぼすまで見なきゃいけないのかなぁという強さですよね。
小島:うん。多分、今あるフェミニズムの波とか、そういうものを反映してるんだろうなと思いつつ、ちょっと強過ぎだよなっていうので、わたしはそこが、今どきのファイナル・ガールが出てくるようなホラーにいまいち乗りきれないところかも。
竹美:一つ今思ったのは、女性のキャラでファイナル・ガールっていうものには、倫理的な力がどこからかチャージされてるような気がして、倫理的にも正しいし、素晴らしい、360度どこから見てもこの人は素晴らしいわ、みたいな。
小島:いわゆる品行方正ってやつですね。
竹美:うん。そう、すごくクリーンな感じがするんですね。特にアメリカのホラー映画は。そういうクリーンであるし、強いし、その上ポリティカル・コレクトネスという一つのその物差しで測ったときにはっきり合格できるようなキャラクターなんですね。それは別に女性である必要はないと思うけれど、今は女性をそこの位置に置くと表現しやすいんだと思うんですね。女性じゃなければ、例えば、セクシャルマイノリティの人がそこに入ってきたり、あるいは有色人種の人が入ったり、何らかの難しさを抱える、難しさを抱えているけどそれにすごく健気に取り組んでいるって言ったらあれなんですけど、そういうものが今集まってるような気がして。しかもそれが80年代にものすごい勢いで拡大したお安いホラーって言うんですかね、もちろん大好きですけど。ああいうホラーとの対比において、今のそういう(人物が主人公を担う:竹美補足)ホラー映画が語られているような気もするんですね。
 最近、アメリカの70年代のホラー映画を観ているんですけども。こう言っていいのか分かりませんが、自立した女性が主人公になっている、あるいは、そういう人が出てくる映画が結構目立つなと思ったんですね。そう考えると、フェミニズムの影響ももちろん一番大きいんじゃないかとは思うんですけれども、その当時のフェミニズムの盛り上がりから言うと、やっぱり女の人が最後にちゃんと生き残っているんです、悪を倒して。にもかかわらず、最近のホラー映画と何が違うのかなと思うと、やっぱりさっきの話に戻りますが、70年代の場合は映画全体が暗いっていうか、アメリカの映画自体がもう、アメリカというものを信用していないっていうか、そういう不安がチラチラ出るような時代だったように見えるので、その意味もあってか、品行方正であるべき、みたいな、そういうニュアンスが全くないんですよね。『エクソシスト』とかオーメンTHE OMEN)』(1976)とか、あとは魔鬼雨THE DEVIL'S RAIN)』(1975)って観たことあります? あれを観ていると、本当に救いようがないっていうんでしょうかね。保守的なホラー映画という意味合いもあるんですけども、宗教的な意味での、悪魔の側にちょっとでも関わってしまったらもう滅ぼされるしかないっていう、ある種の宗教保守の価値観がすごくよく出ている一方で、でも、アメリカっていうものを、そういう形で、もう悪魔にやられちゃったんだみたいなふうに書いてる節があって、そういうものが80年代に入るとコロッと変わりますよね。
小島:いきなり明るい感じになりますね。
竹美:わたし、ランボーFIRST BLOOD)』(1982)を3年ぐらい前に初めて観たとき思ったんですよ。70年代的な、すごく暗くて、もうアメリカ無理っす、みたいなのと、でも、シルベスター・スタローンがやりたかったのは、アクションで超強い、派手なアクションの、80年代の走りみたいなものが一緒くたになっていて、すごく不思議な映画だなと思ったんですね。だから、あのあたりを境に、もうはっきりアメリカの映画は、アメリカネス、イェイ!みたいな、『トップガンTOP GUN(1986)とか『コマンドー
COMMANDO(1985)とか、もうすごく元気になっていく。『ダイ・ハードDIE HARD(1988)とか。
小島:そうですよね。もうとにかく強さを誇示するような映画が増えたのは80年代あたりでしたよね。
竹美:ですよね。ホラー映画っていうのが娯楽なんだっていうふうに変わったっていうことなのかもしれないですよね。『エクソシスト』ももちろんものすごくいろんな人が観に行って社会現象になっていたというニュースも見たので、もちろんホラー映画は娯楽だったと思うんですけど、80年代のは何でしょうね、今見直すと陽キャ、明るい男女交際しているな、みたいな。アメリカはね、高校生でもう車を持っていて、ドライブしてイェイ!みたいな感じかって。
小島:週末はね、別荘に行ってお酒飲んで騒ぐ、みたいな。
竹美:そうそう。やっぱりそういう雰囲気の人たちが観に行って、低予算で作られてもすごく収益を上げられるビジネスとしてももちろん発達してきたから、そういうふうに考えてみると、やっぱり80年代ファイナル・ガールって、基本的に消費されるっていうんでしょうかね。消費って言い方好きじゃないけど、脈絡なく殺されている、みたいな。女の子が理由なく追われて殺されているように、やっぱり見えるような、そういうものになっていたんでしょうね。
小島:70年代とかの暗さと違うのは、最後に反旗をひるがえしてもう完全勝利をおさめる、みたいな。そういう結末が多分80年代ぐらいから好まれていったんでしょうかね。
竹美:勝つことによって日常に帰っていくことができるっていう意味で言うと、やっぱりびっくりハウスとか、お化け屋敷というか、あれに入っていって、いろいろあったけど、最後はちゃんとぱっとドアを開けると明るい日常っていうふうに作ったんでしょうね。そういうのが好まれたんでしょうね。
小島:その辺でちょっとこれからいろいろ見ていく中で考えてみたいですよね。70年代と80年代のトーンの差ってどの辺から来るのかなとか、例えば2000年代に入って、特に2020年頃からのホラーのつながりみたいなのって、でちょっとこれから見ていけるといいですね。
竹美:そうですね。

『キャンディマン』(2021)をどうみるか?

小島:竹美さんに聞いてみたいことがあって。わたしの大好きな『キャンディマン』なんですけど、去年でしたか、続編版ということで、ジョーダン・ピール監督がプロデュースしたキャンディマンCANDYMAN)』(2021)というものができたんですけど、最初観たとき、すごくに期待して観たんですね。やっぱりわたし『キャンディマン』大好きだし、これは特にネタバレにならないと思うんですけど、オリジナルの『キャンディマン』で生き残った赤ちゃんが成長して青年になった、彼がその主人公になるっていうことで、前作とどういうつながりがあるんだろうとか、ものすごくものすごく期待して観たんですけど、やっぱり1回目観たときには、ちょっとあれ?って思うときがあったりして。オリジナルの『キャンディマン』と違って、新しい2021年版の『キャンディマン』は、主人公が怪物に結局、最後は飲み込まれて、闇落ちというか、自分で怪物になっちゃうじゃないですか。オリジナル版で、ヘレンも確かに最後は復讐の鬼として怪物にはなってしまうんですけど、キャンディマンに魅入られはしていても、最後の最後で『キャンディマン』のお誘いを断って、彼と一緒に一体化して伝説になろう、みたいなところは断って。
竹美:(笑)今回はちょっとすみません、みたいな。
小島:そうそう。あんなに恋していた感じの彼だけども、そこは嫌だって断って。だから、自分では怪物になるけども、キャンディマンの側に落ちて、闇の側に落ちて怪物になるわけじゃないじゃないですか。特に最後の最後はアンソニーっていうね、あの赤ちゃんを自分の命を賭して救い出すっていうところの、人間の中の善性みたいなところを最後に見せる、つまり悪の手先に落ちないんですよね。自分は怪物になるんだけど、あくまでも自分の復讐を果たしたい、裏切り者の夫に対して復讐を果たすって意味で、自分のために怪物になる。
竹美:そうですね。
小島:2021年版の『キャンディマン』は闇落ちをした上に、べつに彼自身のために怪物になるわけではなくて、あの中でもなんとなく描かれている、いまだにちょっと、差別はない社会でありそうに見えて、なんとなくまだどこかしら何か残っている差別のようなものを黒人の人たちは感じている、そういう思いを一身に受けて怪物になる、みたいなような展開だったのかなと思っていて、そこのところがちょっと期待していたものと違ったな、みたいなところだったんですけど、竹美さんはあの作品どういうふうに観ましたか?
竹美:わたしは、あの終わり方にしたことによって、モンスターっていうものが、ぐるっとひっくり返るっていうんですかね、それまでモンスターだと思われていた存在が、いや、本当のモンスターはそうじゃなくて、警察官だったり、主に白人の人たちのいろんな人種差別的な言動だったり、そういう価値観に根ざした言動こそがモンスターっていうことをあれで表現したんだろうなとは思ったんですね。ただ、アメリカの考え方なのか分からないんですが、多分アメリカ的な考え方なんじゃないかなと疑っているんですけど。ロビン・ウッドって、映画の評論家の、ゲイのね。彼の書いていた考え方っていうのは、日常というのがあって、それはnormalityとか言われていましたけど、平和で、彼の考え方では、異性愛主義的な規範の世界っていうのが彼にとってのnormalityなので、わたしにとってはちょっとまた時代が変わっているので、それはイコールではないと思っているんですけども、とにかく日常、わたしたちが日常っていうか、平和で良い世界だと思っているところの外にモンスターがいて、モンスターがそれを脅かすわけですよね。でも、それがこちら側にいるヒーローによってバタッと倒されることによってこの日常が守られるという構造がある。
小島:コミュニティが守られるんですね。
竹美:そういう考え方に基づいて新しい『キャンディマン』を考えると、モンスターだったはずの彼がぐるっとひっくり返って、正義の味方になっちゃっていますよね。
小島:そう、最後、正義の味方だね。
竹美:ええ。なったっていうことは、『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』みたいな、ああいう話になっちゃうのかなと思ったんですね。つまり、ヒーロー爆誕、みたいな。この後この作品で続編を作るとなれば、もうスーパーヒーロー映画にしかなり得ない。
小島:そうそう、もうダークヒーローになるしかない。
竹美:そうなると、それは本来的には、そしてそれをひっくり返すことによって、それまで正義の味方かどうか分からないけど、日常の中にいた人たちの一部をはっきりとモンスターの位置に置き換えてみて、そこにある種、押し込めるわけですよね。ということは、その全体の枠組みというのは何にも変わってないんじゃないかと思うんですわ。
小島:誰がモンスターかっていうことね、要は。
竹美:そう。つまり日常というか、normalityとされるものっていうのが、中身が少しずつ書き換わっていくわけじゃないですか。異性愛中心主義じゃないんですよ、ポリコレの世界では。これから多分もっといろんなことが分かってきて、こっち(日常のこと:竹美補足)ももっとぐちゃぐちゃになるかもしれませんけど、とにかくもう、あの映画の中で表明されている日常というのの中にゲイは出てきているし、人種差別というものもはっきりと否定されているっていう、そういう世界が守るべき日常というか、正義ですよね。それに当てはまらない人たちというものが次々にモンスターの位置に代入されて、最初はあたかもそれはこちら側(日常のこと:竹美補足)にいる人たちがこの外のモンスターから殺されているように見えるんだけれども、それが最後、実はねっていって、ぷっとひっくり返ると、本当はその人たちがモンスターだったから、それを正義の味方として成敗していたんだっていうふうに読めちゃう。
小島:最後にそうやって逆転させてみせるっていうことね。
竹美:はい、でも、それをやってしまうということは、本来そのモンスターでいるということの意味っていうんですかね。モンスターの力を奪っていることにもなるかなとは思うんです。
小島:正しいモンスターの使い方、みたいになっていますね。
竹美:そうそう、そうしてしまうことによって、モンスターというのは新たに発見されなきゃいけないですよね。Villainが必要じゃないですか。そういうことを繰り返すだけなのかなって思っちゃうと。もちろん娯楽ですからそれでもいい、そういう娯楽なんだと思って眺めると、作中で主張されていたような社会的なメッセージっていうのが、えっ、本当にそれが言いたかったわけじゃないの?って。今それが流行ってるから持ってきて、ペタッとくっつけてきれいに整えたっていうことなの?って、もうわたしは思っちゃうようになったので(笑)、この映画はすごい!みたいに言うことができなくなって、すごくイヤなんですけど。この映画はここが素晴らしい!みたいなことだけ言いたいですけどね。
小島:気になっちゃうもんね。
竹美:そう。結局、ロビン・ウッドの論から言うならば、モンスターというのは、もう一つ、「抑圧されたものの帰還」なんですね。口を封じられたり、手足を縛られたりしたような。そういうものが結局、復讐しに戻ってくるんだっていう考え方なんです。ということはですよ、今の世の中というか、ソーシャルスリラー的な、ポリティカルコレクトネスがちがち、みたいな世界において、抑圧されるというか、口を封じられ始めている人たちっていうのは、結局いつかのときにはまたモンスターになって戻ってくると思うんですね。いや、もう元々モンスターだろ、みたいに言うかもしれないんだけど、それは今のわたしたちがそう見ているからそう見えるだけであって、魔女狩りとあまり変わらないのかもしれない。だって、魔女狩りがセーラムの魔女裁判とかをやっていたときだって、告発している人たちは、意識としてはいいことしてるつもりだったかもしれない。でも、それにちょっと乗っかって、あいつが持っている土地や財産が欲しいから、あいつを貶めて魔女の裁判で処刑して全部土地を自分のものにしちゃうっていうことが実際にはあったみたいなので、そういうものが埋まっているんじゃないかなって。わたしはアメリカ映画が一番好き、本当に好きなんですよね(小島:私も好き!)。好きだからこそ、嘘をついているって言ったらいいのかな。こうあってほしくない何かがあるなっていうのは思うんです。
小島:新しい『キャンディマン』は、明らかに背負っているものがあるわけですよね。今まで虐げられ、虐待されてきた、その黒人たちの恨みっていうのを彼は一身に背負って出てきているじゃないですか。だから、モンスターの生まれ方っていうのも、前とは少し違うような描き方で描かれているのかなと思って。
竹美:そうですね。そういうものを背負っちゃうと、それって悪役って言っていいのかなっていうことにもなってきて、それってホラー映画を愛する立場からの意見かもしれないですけど、本当の意味でモンスターの暴れてる様子とか、あるいは殺されちゃう様子とか、そういうもの全体を楽しんでいることになるのかなっていうのは思いますね。楽しんじゃっていいのかなって、今度は考えるようになって。そうやって考えていくと、結局、ホラー映画が終わっちゃうんですけど。ホラー映画の終焉をちょっと感じてしまうんですけど。この映画自体がそんな匂いがしますけど、Twitterとかネットでどういう感想を言わなきゃいけないのかっていうことがあらかじめ決まっているタイプの映画だなと思って。それが何て言ったらいいか分からないんですけど、もう今はそういう時代なんだなって思うんですね。
小島:カウンターパンチの可能性ってないですか。もうやられっぱなしで、いや、確かにひどいことはしていたけど、そこまでひどくはないぞっていうところからの、やり過ぎだろうっていう。
竹美:それがちょっと出始めているのが、Netflixで、『There’s Someone Inside Your House(2021)っていう、日本語タイトルは『サムワン・インサイド』かな。スラッシャー映画ですよね。ファイナル・ガールもので、よくできているっていうか、面白かったんですけど。ただ、あの中に出てきた若者たちの肖像っていうんでしょうかね。特に人種の問題とか、あるいはセクシュアリティとかのアイデンティティ政治の影響が子どもたちの世代にどういうふうに出てきているかっていうことを見せている映画だなと思って。それと『キャンディマン』が同じ年に作られて出てきてるっていうのがまた面白いんですけど、一方では、悪い白人をやっちまえの映画を作って、じゃあ、都会でそういうことがあって、そのアイディアが田舎の町にやってくるとどうなっちゃうかっていうと、白人の若者っていうのは真面目であればあるほど、自分は個人的に何かそういうこと(差別行為:竹美補足)を支持もしていないしやっていないのに、何故自分の属性を悪く言われるんだろうって思うだろうなと思ったら、やっぱりそういうふうに映画でも出てきてるし、あの映画はさらに、そんな甘えだっていって(ファイナル・ガールが)粉砕しちゃうわけですけど。でも、それをやっていくと今度は、やっぱりそれもまた一つの声を奪うことですからね。声を奪われた人っていうのが、従来のホラー映画の中でのモンスターだったわけですよね。ですから、そういうことを現実の世界でやっていると、多分さっきおっしゃったみたいなカウンターパンチとして絶対噴出してくると思うんですよね。やっぱりそれがぐるぐる、ぐるぐる回るっていうことが、もしかしたらアメリカのありようなのかもしれないんですけどね。イヤな言い方をすると、常に誰かの口を封じるか踏んづけていないと、社会が成り立たないっていうことでもあるから、それは少なからず他の国もそうだけど、アメリカの場合はもっと分かりやすいですよね。日本とかで起きているような差別の問題よりも、表舞台で争われている感じがするっていうか。
小島:目に見える形で出てきますよね。
竹美:見える形で。それの方が正しいのかもしれないけど、でも、どうなのかなっていうのを見ているところです。

我が道を行くジュリアン・デュクルノー

竹美:そういう意味で言うと、フランスのホラー映画で『RAW~少女のめざめ~RAW)』(2016)。何から目覚めるのかと思いましたけども。あれはやっぱりモンスターをモンスターとして置いておいてくれているっていうか、モンスターはモンスターだから、それはそれで生きなきゃいけないじゃん、みたいなところがなかなか面白いというか、凶暴な映画だなって思うんですね。
小島:そうですよね。人喰いに対して何か正当な理由を与えるとか、こういう理由だからしょうがなく人喰いになっているんだし、とか。
竹美:そういうのがないですよね。
小島:ないですよね。人喰いをあえて正義の味方っぽく描く、みたいな使い方もしてないですよね。
竹美:していない。社会と自分が正面衝突しちゃうタイプの人を描いている映画だから。わたしの中で、あの映画って、観たときは、うわ、なんかすごい映画だなと思って。
https://note.com/takemigaowari/n/na4c817f2872f

その後は、でも、作品そのものというよりは、その作品の扱われ方だったのかもしれないんですけれども、フェミニズムの時代においてちょうどよく着地している映画だなというふうに見た時期もあるんですね。でも、今考え直してみると、
https://note.com/takemigaowari/n/n343e0177136f?magazine_key=m5f29cc9a186f

やっぱり世の中というものを回復しなきゃいけないとかそういうふうなものとして捉えてないっていうんでしょうかね。ただひたすら暴走特急、食いまくる、みたいな。
小島:もう社会はこういうものとしてあるのは分かったから、わたしはもうわたしの好きなようにやるわよ、みたいな。
竹美:はい。一方で、それを女性の身体で、女性の監督が作っているので、そういうフェミニズムもあると思うんですよ。「イズム」ですから、何々主義ですから、それが一番だっていう考え方でしょ、やっぱり。そういう意味の、かなり凶暴なフェミニズム映画としてはあると思うんですよね。もうやるからにはここまでやらなくてはいけないっていうか、一方ではフェミニズムが怖いと言われる理由を作ってしまいそうな、そういう口実をつくりそうな映画ではあるんですけども、すごく突き抜けていて、やっぱりいいと思っちゃうんですね。
小島:わたし、あそこの場面が好きで、姉さんが妹に人の狩り方を教える場面ってあるじゃないですか。
竹美:はい、なんかちょっと笑っちゃうんですよね。観ていたときは感情に流されて、涙がちょちょ切れましたけど、あのお姉さんの健気さっていうんですかね。最後も含めて、わあ、すごいと思ったんですけど、やっていることを考えたらちょっと笑っちゃうっていう。
小島:そうそう、「こうやって獲物をとるのよ」みたいな。
竹美:「わたしの生き方を見な」、みたいなね。そういう姉妹愛っていうか、愛情なんだな…愛情というかあれはもう本能ですね。人間超えてるっていうのが、いいっちゃいいですよ。やっぱりいい映画です。
小島:今はいい映画として見たい感じの雰囲気ですね。
竹美:サイクルがあるんですけど。
小島:別に社会を反映しているとか、社会の中で別にフェミニズムは、確かに今おっしゃったように、女性の監督だし女性の身体をああいう描き方しているからフェミニズム映画としては見られるんだけど、別にフェミニズムでこういう間違いがあるとか、こういうことで困っているからって、それを懲らしめてやろうっていう映画ではないですよね。
竹美:そうですね、もう、そこにある、みたいな。ジュリア・デュクルノーの男性のインタビュアーとのインタビュー動画をわたし見たんですけど、始終、不敵な態度でインタビュアーをちょっと追い詰めるんですね。「女が撮っちゃいけないの」みたいな感じのことを言っていたかな。一般的には女性でああいうホラー映画を撮る監督って少ないのか、何て言い方をしていたかな。男性のインタビュアーは女性だっていうところに非常にフォーカスしようとしたら、そのことをバシッとはねのけるんですね、彼女はね。怖~い、と思って。でも、あの映画はああいう映画だし、彼女は一貫していますよね。どう思われようかとかいうことを全然考えない。考えてはいるんでしょうけど、いいなぁって。次に『TITANE/チタンTITANE)』(2021)って映画を撮ったんですよね。うっかりネタバレ的なところももうチラッと目に入って読んでしまったんで、なんとなく何がすごいのかは知ってしまったんですけど、あれもやっぱりジュリア節で行くっていう感じなんですかね。
小島:わたし観ました。竹美さんの感想も伺いたい。やっぱり女性の身体っていうところには一つ重きを置いているんだなというのはよく分かりますし、かつ、いろんな規範も、もしあえて社会に対して半旗を翻すとか、そういうところを描いてるとしたら、さっき男性のインタビューに対して、ちょっとね、不遜というか不敵というか、強い態度に出たのと一緒で、こういう決めつけられかたしたくないとか、こういう縛りをするなっていうのをすごく強く言っているようには感じました。ぜひご覧になってから、ジュリア節を堪能して。
竹美:分かりました。一方でそのジュリア節も扱っていないようなことっていうんでしょうかね。それもきっと見えてくるのかなと。社会と個人の中からわいてくる欲望の正面衝突っていうのが一つのテーマにわたしには見えるんですけど、でも、一方では映画としても絶対駄目だし、現実にももちろん駄目な欲望っていうのはあるじゃないですか。その部分の線をどういうふうに引いているのか、あるいは引いていない、あるいは単に語っていないだけなのか。そういうのも知りたいなと。

竹美の「エンドゥクー? インド映画事情」

小島:最後に1コーナー設けていまして、せっかく竹美さんインドにいるので、インドの映画事情っていうのをお伺いできればなと思っているんですけど。今年のBeyond Festっていうアメリカのジャンル系の映画祭のラインナップを眺めていたら、ものすごくインド映画がいっぱいあって、『バーフバリ 伝説誕生Bãhubali: The Beginning(2015)とかね、ちょっと古いインド映画もすごく取り上げられていて、今アメリカでインド映画ブームが起きているのかな、なんて思ったんですけど、そんな雰囲気ってありますか。
竹美:どうなんでしょう。やっぱり『RRRRRR (Rise Roar Revolt)(2022)がすごくアメリカとかヨーロッパで受けているっていうのはTwitterを見ていて思って、『バーフバリ』のときにはそういうものは察知できなかったので、やっぱり今来ているのかなと。そのBeyond Fest2022のラインナップをわたしも見たんですけど、全部、ラージャマウリの映画だから、ちょっとこれから売り込む気なのかもしれないですね。
小島:じゃあ将来的にハリウッドで映画を撮るかも。『バーフバリー』って日本でインドブームが起こる一つのきっかけだったじゃないですか。インドに行く人がいっぱい増えたりとか、あとインドの言語を学ぶ人が増えたりとか、ものすごい熱量であの映画って迎えられたと思うんですけど、何故、日本ではあれだけ爆発的にヒットして、今回やっと『RRR』になって、欧米でインド映画に火がついたんでしょうね。
竹美:どうなんでしょうね。わたしは前に考えたときは、『バーフバリ』の物語があんまり欧米の人にとってなじみのある物語になってないってことなのかなとも思ったんですね。一つ思い出したのですが、あれって約束に縛られるっていうのが一つのテーマとしてありますよね。カッタッパとか。あれが理解できないかもしれないって。実はあれを一緒に観ていた、彼はメキシコの人でしたけど、昔付き合っていた人ですね。それを観てそこがすごく引っかかっていたんですね。「何でこの人、こんなになっても言うこと聞いているの?」って。
小島:どんなに自分が苦境に立たされたり不利な立場になっても、必ずその約束を守り抜くっていうところがちょっとピンとこないっていうか、あんまりアピールされないって感じなんですかね。
竹美:かなって、ちょっと思いました。かといってね、それは彼の特性なのかもしれないし、何故なんでしょうね。『RRR』は現代に近い設定だから、植民地時代の1920年代のインドの舞台で、物語も分かりやすいと言えば分かりやすい。登場人物も少ないですしね。
小島:『バーフバリ』は多かったですもんね、登場人物。
竹美:それぞれの人物にドラマがちょっとあって、最初から続編ありきで作られていたから、そういうところもちょっとアピールしなかったのかな。
小島:インドで一緒に観た映画あるじゃないですか。
竹美:『Brahmāstra: Part One – Shiva(2022)ですね。
小島:そうそう。あれ、特殊効果っていうんですか。クオリティがすごく高いですよね。
竹美:そうですね。『バーフバリ』を観ても、明らかにもう特撮というか、コンピュータで作っているとはいえ、すごくきれいでしたよね。『Brahmastra』もね、ぜひ日本に来たらいいなと思うんですよ。日本でこそ受けそうな気がするんですよね。
小島:ちょっと『里見八犬伝』みたいな感じもありますしね。
竹美:なるほど、そうか。じゃあ、下地は十分ですよね。絶対みんな好きになると思うんだけどな。
小島:特殊効果ですごくびっくりしたのが、竹美さんに教えてもらったやつで、それこそジョーダン・ピール監督の『NOPE/ノープNOPE(2022)。特殊効果で、インド人のスタッフの人がいっぱい入っているんですよね。
竹美:でしたよね。名前がずらずらっと、インドの名前が書かれていたから、やっぱりすごいなって。画面の中にインドの人は出てこなかったとしても、もう裏にはこんなにいるっていう。
小島:確実にも技術力も何も上がっていますよね。すごいなと思って。
竹美:きれいですね。
小島:最近、気になっているインド映画の話題って他にありますか。
竹美:若干、インド映画ファンの間でも話題になっている『Laal Singh Chaddha(2022)っていう映画です*。『Laal Singh Chaddha』っていうのは、アーミル・カーン、『ダンガル きっと、つよくなるDANGAL(2016)とか『きっと、うまくいく3 IDIOTS(2009)で、日本でパッと知られた、その俳優の最新作で、なおかつ、アメリカ映画『フォレスト・ガンプ/一期一会(FORREST GUMP(1994)のリメイクなんですね。よくこんなテーマ選んだなと思ったんですけど、ストーリーはね、全く同じで、よくなぞっているなって、わたしも映画館で観たんですけれども、それがインドでは大コケしたんですね。
小島:ほう。何でですか。
竹美:今年の8月に公開されて、コケる、コケるって言われていたんですけど、本当にコケてみんなびっくりっていう感じだったんですけど、理由が、アーミル・カーンに対するボイコット。
小島:主演俳優さん。
竹美:はい。主演かつプロデューサーのアーミル・カーン個人に対する批判っていうのがすごく高まっていて、それも宗教的な感情に絡んだ批判なんですね。わたしの知っている人で、この人こんなこと言うんだって思ったことがあるのでちょっと紹介したいんですけど。
小島:待って、アーミル・カーンっていうのはムスリムの人なんですよね。
竹美:そうですね。カーンっていう苗字なので、ムスリムのインド人でね。もう一つあるのが、その知人の話を聞く前から思っていたのが、アーミル・カーンはヒンディー語圏の俳優なので、彼の業界はボリウッドって言われるんですけど、ボリウッドが反ヒンドゥー的だ、親ムスリム的だっていうことでの批判というのが結構ちらほらネットで出てきていたんですね。わたしが初めて気づいたのは去年の12月ぐらいだったんですけど。「こんな映画はボイコットだ」みたいなことで結構盛り上がっていたんですね。そういう中で、アーミル・カーンはムスリムで、ボリウッドでたくさん仕事をしてきて、すごく興行成績もいい。評価もされる映画をいっぱい作ってきました。ここからが知人に聞いた話なんですけど、「インドはとても寛容で、そういうムスリムの彼にも仕事をさせてもうけさせてやったのに、インドを出ていきたい、みたいなことを言った」って言うんですよ。要するに、それは恩知らずだと。だから、出て行けばいいじゃんって。ムスリムなんだし。そういうナラティブが、物語がみんなの頭の中に書かれているんだなって思ったんですね。
小島:実際、インドから出ていきたい、みたいなことは言ったんですか。
竹美:それは、何だったかな。テレビの番組で彼とその当時の奥さんが出てきて、奥さんが、反ムスリム的な雰囲気っていうのを感じて、ちょっとこのままではこの国にいられないかも、みたいなことを言ったのを擁護したんですね、アーミル・カーンが夫として。当時もきっといろいろ言われたんでしょうけど、それがまた再燃しているみたいで。『Laal Singh Chaddha』公開のときにですね。
小島:本人が言ったわけじゃなくて、奥さんが言ったことに対してサポートするようなこと。本当は多分そこで諌めなきゃいけなかったわけですね、いわゆる正しいやり方としては。
竹美:そうですね。あるいは、インド的ポリティカルコレクトネスで言うならば、もうそういう発言自体をしない方が良かったわけですよね。わたしが反応としてびっくりしたのが、他の人にもちょっと聞いてみたんですよ。『Laal Singh Chaddha』ってやっているけれど、どう?って聞いたら、みんな一様にその話をしたくないような顔になったんです。特にわたしよりだいぶ若い人たちに聞いてみたんですが、一様に顔が曇ったので、何か話しづらい問題をこの人たちも感じているんだなって思ったんですね。そういうことがあって、コケたんです。彼の作った映画って今まではもう常に大ヒットしてきた、脚本とかもすごく選びに選んでフィットさせてきた人がコケたっていうことで結構大きなニュースになったんですね。なのに、今週になって、Netflixで公開されたんです。
小島:日本でも観られるって聞きましたけど。
竹美:はい、英語字幕ですけど観られるんです。そうするとですね、これがNetflixでの再生回数がボンと上がって、とにかくNetflixでの反応は非常に良いと。海外で公開したらもちろんすごく評価が高いので、今になってインド人も見始めている。それで、やっぱりよかったじゃん、みたいなことになるのかなって。わたしから言わせると、『フォレスト・ガンプ』ってものすごいナショナリストの映画じゃないですかhttps://note.com/takemigaowari/n/nd865619fed32

アメリカ万歳、みたいな。過去にはこんなつらいこともあまり良くないこともあったけど、今は素晴らしい、みたいなことを言っている、未来を感じさせる映画で、インド版でそれを作るっていうことは、やっぱりインドの国家主義にはちゃんと乗っかっているんです。国家主義っていう観点から言うと、あるいはナショナリズムという意味で言うと『RRR』もそうだし、他のいろんな映画のいろんな端々にインドの国家主義…豊かにもなっているし、人口ももうすぐナンバーワンになるし、政治力もある、これから増していくでしょう。そういう、ゴゴゴゴゴと盛り上がってきているインドというものが、映画の端々に出ているんですよ、インドの映画には。『Laal Singh Chaddha』をこのタイミングで出したっていうのはもう、はっきり言ってそれに乗っているから、その意味でいうと、アーミル・カーンの前の作品の『ダンガル』もやっぱりはっきり国家主義だったじゃないですか。だから、何故『Laal Singh Chaddha』をあんなに拒否するのかなっていうのが一つ分からないことではあるんですよね。
小島:今、社会の中でムスリムの人たちに対する何か反発みたいなものっていうのがあるっていうことなんですかね。
竹美:どうなんでしょうね。本当にそれがあるのかどうかも、わたしも分からないんですよ。確かにヒンドゥー至上主義的な政策をモディはずっととっていると言われているんですけど。確かにそういうところははっきりある一方で、ヒンドゥー、イコール、インド国家じゃないじゃないですか。結局インドって、自慢するわりにはマイノリティにイヤなこと言いますけど、いろんな宗教の人が一緒にいるっていうのが、あるいはいろんな言語、民族がいるっていうことが一つのインドの美徳でもあるので、その観点から言うと、『Laal Singh Chaddha』は国内の中にあるいろんな葛藤とか軋轢っていうのを、もっと大きなピクチャーで見て乗り越えようって言っている映画なんですね。だから、もし本当にこの映画が好きじゃないって言っているんだとしたら、そういう乗り越え方が好きじゃないっていうことなのかなとも思うんですわ、インドの人は。
小島:絶対一つにはならないぞと。
竹美:うん。それか、インドマジョリティーの居直り。外国人の立場でそういうことをいろいろ言うことは難しいんですけど、でも、もう一つは、わたしもあるなと思うのは、ボリウッド離れっていうのが起きているみたいなんですね。
小島:それは何故でしょう。
竹美:それもいろんな、日本のニュースでも、確か何かの記事で取り上げられていたんですけど、今年に入って公開されたボリウッドの作品、大スターが出ているやつが次々にコケているんですね。それで、どうも観客がボリウッド映画に足を運んでいないと。代わりに『RRR』とか『K.G.F: Chapter 1(2018)、『K.G.F: Chapter 2(2022)とか『Pushpa: The Rise - Part 1(2021)とか、いわゆる南インドの映画、カンナダ語とかテルグ語の映画にはみんなが足を運んで大ヒットしていると。ということは、相対的にボリウッドが落ちているんじゃないかっていうのがもう一つの背景にはあると思うんですね。
小島:飽きられたというよりも、他にもっと勢いのある映画が出てきて観客の関心がそっちに向かっているっていうことなんですかね。
竹美:そう、そうですね。なのか、積極的にボリウッドに背を向けているのかはちょっとまだ分からないかな。嫌われそうな理由っていうのも、なんとなく浮かんではくるんですけど、それはもうちょっと考えて、調べてみたいと思います。
小島:またぜひその辺の動向を、『フォレスト・ガンプ』のリメイク版『Laal Singh Chaddha』も含めて。日本のNetflixでもね、観られるってことなので、わたしもちょっと観てみたいと思います。
竹美:日本で劇場公開されるといいなとわたしも思っています。ということで。
小島:こんなところで、第1回目を終わりたいと思います。

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***

小島:2回目なんですけど、何について話しましょうね。
竹美:2回目は、そうですね、わたしのあまり得意でないというか、そんなに観たことがないスラッシャー映画について、お話をしてみたいなと。
小島:竹美さんスラッシャー映画ってあんまり観てないんだ。
竹美:あんまり好きじゃないんですね。超能力少女系がたまたまスラッシャーっぽいのに引っかかっているときはあるんですけど、スラッシャー映画を観るために観に行っているわけではないので、ぜひ伺いたい。
小島:ぜひ、なぜ好きなのかみたいなところを。こんな形でちょっとお互いの性癖を堀り合いながら。
竹美:そうですね(笑)。
小島:ホラー映画についてまた話していきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
竹美:ありがとうございました。失礼します。
小島:竹美さん、また来週。
竹美:また来週。

<END>

追伸:竹美による『RRR』評日本での『RRR』旋風を受けて、など綴ったnoteもぜひ併せてお楽しみください。

中の人はこんな人!

《プロフィール補足 竹美》
ライターとしては、2022年に「現地取材 インド映画メガヒット2大作『バーフバリ』監督新作『RRR』/すべてが強烈『K.G.F』」(『週刊文春エンタ+ (文春ムック)』)の『K.G.F: Chapter 2』及び『RRR』の解説と、「はみ出し者、故郷へ帰る──トッド・スティーヴンス監督に聞く」(『キネマ旬報』2022年9/1号掲載)、その他『キネマ旬報 2020年3/15号』で『ジュディ/虹の彼方に』についての記事を寄稿。
その他、有志団体「映画パンフは宇宙だ!」の活動として、『PATUFanZine Vol.01「Enemy is Ourselves about Us」』(2020)の企画・編集・執筆、『PATU BigBang! アリ・アスター短編解説読本「”I HOPE THAT PEOPLE WILL FEEL UNSETTELD.”」』(2020)、『PATU BigBang! 東宝映画版『子連れ狼』ZINE「子連れ狼 わくわく大図鑑」』(2021)、『PATU BigBang!「ギララ・ゴケミドロ・昆虫・髑髏船 オール特撮大図鑑」』(2022)で執筆。

《プロフィール補足 小島》
主にジャンル系映画の宣伝を担当。もしかしたらご覧になったアノ映画も実は……ふふふ。
有志団体「映画パンフは宇宙だ!」の活動として、『PATU BigBang! アリ・アスター短編解説読本「”I HOPE THAT PEOPLE WILL FEEL UNSETTELD.”」』(2020)ならびに『PATUFanZine Vol.04「バースデイだけど死にまくりでアンハッピーだけど新しい自分に出会えてハッピーabout HAPPY DEATH DAY/2U」』(2021)の企画・編集・執筆、『PATUFanZine Vol.01「Enemy is Ourselves about Us」』(2020)、『PATU BigBang! 東宝映画版『子連れ狼』ZINE「子連れ狼 わくわく大図鑑」』(2021)、『PATU BigBang!「ギララ・ゴケミドロ・昆虫・髑髏船 オール特撮大図鑑」』(2022)、『PATU BigBang!「Funeral for Our Loyalty 」Fanbook for Tinker Tailor Soldier Spy(裏切りのサーカス)』(2022)で執筆。


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