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竹美映画評60 人生、流されるだけかも 『フォレスト・ガンプ』("Forest Gump"、1994年、アメリカ)

ひたすら走り続ける無垢の男というファンタジーを通じてアメリカの戦後史を描き出したドラマ作品『フォレスト・ガンプ』。同作はインドでリメイクされ、来る8月に公開が決まった。主演は、『きっと、うまくいく』や『PK』、『ダンガル きっと、つよくなる』(2022年6月現在、インドにおける興行成績No.1作品)、『ラガーン』等で有名な、俳優兼プロデューサーのアーミル・カーン。

予告編からして最高の予感だが、実はアメリカ版とほとんど同じ内容になっている。

これがどう出るか。敢えて同じようなシーンを見せることで、予想外の展開を組み込んでくれるのか。それとも全く同じシーンを繰り返してでも、違うものを見せようということなのか。

【時代の思想に流されるだけの私】

というわけで久々にアメリカ版を鑑賞。公開当時映画館で観て非常に感動したのを覚えている。90年代アメリカ映画特有の魔法、優しさと美しさ、安定感がある。それから30年。やっぱり好き。

一方私も流されるだけ流された。あの時代特有の映画の美しさは、偏った観点で作ったからこそ完成された美だったのだな、と2022年の私は思う。

ところで本作はあの時期流行った南部アメリカ映画であるがゆえに、人種や性別に紐づいた描写に関して「これは黄色信号だ!」という反応が生じる。これは私の意思とは関係ない、外的な基準だ。そんな感覚に反論したいがために、「いい映画だ」と今でも言える理由に執着している。我ながら歪んだ鑑賞法だと思うが、この映画のテーマのとおり、成長とか老化とは関係なく、価値観すら流されるのも人生である。特に私にとっては。

【闇の川を流されたジェニー】

終盤でフォレストは、運命を自分で切り開いくことと、ただ流され続けることと、人生には両方が同時にあるのだと言う。

主人公の心の恋人かつ親友、ジェニーは、無力で流れ流れて流されるだけの人として描写される。父親の虐待がかなり深刻であることを想起させ、それがジェニーの人生に影を落とす。自分で自分を御することも逃げ出すこともできないまま、ただ生きたと描かれている。場末で無力で哀しい。

本作は彼女の苦しさにフォーカスする映画ではないため、彼女は、フォレストの人生に時々訪れる異常気象みたいな形で出て来る。

一方のフォレストは、与えられた場所で咲くことと、自分の意思を越えたものにただ従うことの両方をやった結果、自分の人生を切り開いているように見える。彼こそ、母親を始めとした周りに大いに流されている。そして、それが幸せな生き方なのかどうか、彼自身は一切語らない。お金が手に入り、人々に感謝され、崇拝されるのは偶然だ。

そんなフォレストは、ジェニーにとっては眩しすぎて一緒にいることは苦痛かもしれないね。同時にフォレストは期待を裏切らない。彼女を裏切らない唯一の存在だろう。

死を前にしてようやくジェニーはフォレストの眩しさから逃げたい自分よりも、それの中に身を投げ出す自分の方を選んだのかもしれないし、ただもう無力感に流されてしまっただけか、フォレストを利用したのかも。虐待→暴力彼氏→ショービジネスの搾取→ドラッグ→HIV感染という、各時代の闇の川を流されたジェニーがフォレストに見せることができなかった顔こそが、本作が無意識に掬い取った闇のアメリカなのだろう。あの二人は実は分かり合ってはいないが、必要なときに手を差し伸べることのできるところにいた。それが何だか悲しくもあり、やっぱり人生流されるだけなのではないかと思う。

【私の察知できないこと】

さてここからは蛇足。読まなくてもいいよ!!

私はうまく察知できないが、今から見れば人種主義の観点では色々と批判が出るだろう。我々はそれを批判するツールをたくさん持っている。フォレストの戦友であるババの描き方には、いわゆる「マジカル・二グロ」との指摘もあろう。一方で、あの時期にいくつか製作された南部映画ものでは、人種主義への罪悪感がしばしば表現されていた。黒人教会のシーンがやたらと印象に残る。

私の正直な意見を言うと、その辺は察知できない。多くの人も察知できないからこそ、自分の外の物差しを使うわけだが。後に登場したダニーの妻がアジア人女性だったことの意味だって邪推しなければ出てこない。

ところで、ベトナム戦争時に黒人と白人が一緒に戦ったことが、国内の人種偏見を減らす一つの要因になったという説も聞いたことがある。ババとフォレストの友情はそれを象徴しているか。戦時下で人種やジェンダーの平等が進む(というか、実力があれば取り立てられる偶然の結果にすぎない)という現象は、『ドリーム』という映画でも顕著である。

こういう部分を通らないと本作を語れないという自分の主体性の無さ!流されてますね。

【偏っていない芸術】

あの時期の南部アメリカを描く映画に触れてしまった以上、こういう話になるのッ!懺悔みたいで嫌いだッ!

『ドライビングミスデイジー』『ロングウォークホーム』『コリーナ、コリーナ』『フライドグリーントマト』←女性主人公の映画ばっかり!

を愛した世代だからねッ!!

何なら『メイドインアメリカ』『サラフィナ!』←これ南アフリカ舞台の映画だが『ボーイズオンザサイド』『カラーパープル』『天使にラブソングを…』辺りのウーピー・ゴールドバーグ保守派ですからッ!

アバクロンビー&フィッチが満身創痍となった経緯を描いたドキュメンタリー映画に関する評を書いてから考えている。美の追求や、自分の思いや、排他的な一対一の愛が「偏っていない」形で表現されることが映画においてあり得るのだろうか!

よく言われることで、同時に非常に悩ましいが、「多様性」という一つの観点を全面に押し出す観点だってときに有罪ですよ。「多様性」の観点から排撃・抹殺される人たちへの扱い方があまりに雑であったり、性急な方法でやり込めた場合、ホラー映画では彼らはモンスター化する。多様性の観点から見ても包摂不可能な欲望を持つ人々はもちろんのこと。

インド版フォレスト・ガンプの主役をシーク教徒にしたのは適切だと思う。インド原産の宗教でマイノリティに当たるが、何というか、宗教紛争や宗教の内包する問題性を描くにも、描きたくない観点からもちょうどよい気がする。字幕なしでも分かるかなと期待できるものの、インド映画のセリフの深さや歌詞の美しさを味わいたいッ!何なら日本で公開されるとき里帰りして見たいッ

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