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『RRR』日本公開を祝って

何か腐っているよ!

https://frontline.thehindu.com/arts-and-culture/cinema/something-is-rotten-understanding-the-bollywood-boycott-phenomenon/article65902023.ece

「何かが腐っている:ボリウッドボイコット現象の理解」
強烈なタイトルの記事!でも今年になり、コロナによる制限が取っ払われ、いち早くアフターコロナに移行しちゃった(ほんと、しちゃった、って感じ)インドにおいては、既にくすぶっていたボリウッドへの色々な念が興行成績にまで出て来るようになった。私はこの時期にインドにいられることは非常に面白いと思う。何と言っても私は、テルグ映画からインドにハマり、彼氏と出会ったことでボリウッドの洗礼を受けたという経験をしているので、ボリウッドの素晴らしさと今なぜこうなっているのかということを考えるのは適任と言えよう。

石が飛んでくるわね…びゅおおおおっガツーーーーンもっと投げてぇぇえええ

日本に『RRR』がやってきた!

2022年10月21日、マヒシュマティ民にとってまた新たな記念日が生まれたが、『RRR』が日本公開されてからのツイッター上の熱いようなじめっとしたようなやり取りを読むのはとても面白い(まァた石が飛んできたどっかーーーーーん)。日本からああいう反応が返って来たことで私はかなり活気づいた。既存の熱心なバーフバリファンの大半を占めるであろう女性たちから、『RRR』について全く問題視されていない部分と、非常にフォーカスされている部分がある。私はファンダム寄りでコメントを読んでいたが、それら2点を浮き彫りにしたのが、夏目深雪さんの映画評。私の目から見て多くの皆が指摘しないのが不思議だったのは、女性の描写の不均衡と、国家主義(この単語で包摂される内容が夏目さんの論とは同じではないと思うものの)である。夏目さんの批評はそこに触れていた。

2022年のインド映画評としては極めて真っ当というか、出て来るべくして出たという評だと私も思う。それがファンによって冷遇される状況は非常に面白いと思った。私は私で、「極右政権下のインドは…」という物語を検証するというスタンスを取りたいから、必ずしも立場が同じとは言えないが、批評としてあって当然のテキストだったと思う。

そのネット上のちょっとした議論を見た人の中からは、ファンダムの楽しみ方と批評は違うという指摘もあった。(これはもう色んな業界で起きているが)文章を書く「プロ」と一般人が同じプラットフォーム上でどう絡んでいくかの問題もあると思う。

次に私が思うのは、「謎解き映画評」をどう考えるかということ。実はファンダムからの指摘で印象的だったのは、この批評は、映画の中の沢山の情報を見落としているのではないか?という疑念であった。

ちなみに、私が密かに恐れていることは、映画に明らかに書いてあることを見逃したり、勘違いして、全体の評が明後日の方向にぶっ飛んでしまうことである!ならば、映画に関する情報を徹底的に調べて書いたらいいじゃないか…。

でも正直私は、「これは何々のオマージュだ」等と特定する宝さがしに全く興味がない。分かったら面白いと思うし見つけたらうれしいに決まっているけど、その知識が曖昧であってもこれまでずっと映画を楽しんで来た。その都度の自分がそのときその作品と出会ったことで捕まえるべき「何か」があればそれでいいのだ。つまりは、映画体験の方を重視しているわけだ。その都度私がシャーマンのように見つけたことには当たりはずれあるし、映画評として適切ではないかもしれない。でも私はそれがやりたい人間だ。『RRR』現象は私のそういう性癖も教えてくれた。

ということで、私は、自分にとって雷が落ちて来たみたいに「分かった!」と繋がらない限りは、ほとんどの映画は娯楽としてのみ観ている。心が全くピクリとも動かない映画、例えばスラッシャー映画とかの映画評を書けっていわれたら困っちゃうと思う。そういう場合は…勉強するんだよッ!

インドの「南インド映画ブーム」と『Kantara』

さて、日本のファンダムから離れ、インドにおいて「ボリウッドの凋落」とシーソーゲームのようにぶち上った『RRR』や『K.G.F.: Chapter 2』の大ヒットによって導かれた南インド映画ブームが本当はどういう現象なのかは、誰も掴めていないと思う。ただ、かつてのボリウッドが描いてきた美しさや自由恋愛、新しいものを外から取り入れる進取の価値観が詰まったあの世界が、観客にとって「普通」になってしまったのではないかとも思う。夢が薄れ、現実…つまらない現実を映画の中にも見つけてしまったら、観客は敢えて観ようとは思わないだろう。

さて、更なる南インド映画ブームを彩っているのが、低予算ながら全国で大ヒットしている南インドのカルナータカ州から来たカンナダ語映画『Kantara』である。ある地域に残るシャーマニズムを題材にとったファンタジー・ホラー・宗教ヒーロー映画である。尚、インド国内にはこれを全く評価しない映画人がいることも知っておいていいと思う。

どんな人があの映画と繋がらないのか。こちらのアビループ・バス氏が批判の根拠として挙げていることは、ひたすら、私の好みじゃなかった、というもので批評には至っていない気がするが、どうだろう。私にとっては、超自然的想像力は、確かにインドの人の中にあり、そのチャンネルとうまくつながったからこそ、映画はヒットしているのではないかと思っている。そして、そのチャンネルが好きじゃないと思っているインド人ももちろんいるという意味として受け止めた。

尚、神話学や各方面からの支持や批判も出ているがそこは追わない。むろん同作は、インド人のスーパーナチュラルな事物に対する感性を刺激するからこそ論争を引き起こせるのであって、そこは無視できないのだが。

ところで、ボリウッド方面からは不思議なことにほとんど批評がニュースになって出て来ない。ボリウッド人の誰も観ていないとは思えないのだが。一方で(ニュースでよく出て来る限りで)同作を絶賛したのは、保守派のご意見番となったヴィヴェク・アグニホトリ監督と、ボリウッドの巫女、カンガナー・ラーナーウトだけのように読める。『Kantara』の表現した映画世界は、今のボリウッドにはできないもののように思うし、或いは、ボリウッドはそこを目指してはいないはずだ。そもそも『Kantara』に表現されているような土俗的なもの(或いは非科学的なもの)を「周辺」として描くボリウッドの魔法が皆の心を捉えていたのだとも想像される。そして、ボリウッドの反非科学志向が無かったら、『Kantara』の今のヒットも無かったんじゃないかとも憶測できる。

ボリウッドが炙り出していた現実の問題

一方で、これまでボリウッドが「夢」を使って炙り出してきた現実についても不十分なりに、考えた方がいいだろう。『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(2015年)は、政治や歴史に軸足を置いている。これは南北朝鮮というか韓国人が抱えるトラウマと近いのかもしれないが、不本意にいがみ合い、悲惨な形で決定的に決裂する道を歩んでしまった南アジアの記憶を美しく悲しく繋ぐことも、ボリウッドの役割だったのかもしれない。最近なら『Begumjaan』もあったし。もう少し前のボリウッド作品『Veer Zaara』(2004年)も、ロマンス映画として、一つにはなれない二人の悲劇を国境に重ねており、品がよく、非常にいい映画だった。また、『Filmistaan』(2012年)という映画(前にNetflixで『映画の国』の名前で観た)は、ボリウッド映画が印パの民衆を繋いでいるのだと信じたいというボリウッド人の「夢」を感じさせる。ではそういう「夢」はもういらないのだろうか。

一つの憶測ができる。印パの分離の過程というトラウマを直接体験していない上、あまり聞いたこともない世代が増えていくことは時間の問題だが、それがどう影響しているのだろうか。しかも90年代以降の経済成長、国際情勢におけるインドの立ち位置上昇、強引とも言えるモディの国内改革(それが何と引き換えに行われているかは考える必要があるが)等、インド国民を取り巻く状況は変化してきている。

朝鮮戦争を知らない世代の韓国人が、色々な経緯を経て、今映画やドラマや書籍の中で南北朝鮮の現在と未来をどう表現し、消費し、何を無視しているか…ということからの類推でしかないのだが。

どっこい、タミル映画

さて、同作のヒットにいまいち面白くないと感じているのではと指摘されているのが、タミル語圏。

これも面白い。タミル語圏の映画はまた独特なものがあるが、内容が、というよりはもしかしたらこういう文化的な対抗意識なのかもしれない。インドは一つではないのだということを強烈に思い出させてくれる。

尚、日本ではむしろ、映画祭や色々な人の活動によって、インドの北部地域よりも、タミル映画がボリウッド映画と同等に流通しているんじゃないかと思う。何と言っても、最初にザ・マサラ映画として日本で認知度を上げたのが、ため息が出るほど美しいボリウッド映画ではなく、庶民的なタミル映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』だったことは大きいのではあるまいか。私は詳しくないものの、力強い映画が次々に出ており、今年もヒット作の『Vikram Vedha』の続編が公開され、またヒットしたらしい。尚、今年『Vikram Vedha』のボリウッドリメイクが公開されたものの、サイーフ・アリ・カーンと、リティク・ローシャンという大スターをもってしても興行的にはうまくいかなかったとされている。

「過去」を語る映画、現在進行形の映画

ところで、上記の記事から見ても、『Kantara』の大ヒットと、それに伴ってインド国内で起きている色々な議論を前に、監督主演した当のリシャブ・シェッティは注意深く慎重に振る舞っている感じがする。この国において、よりによって宗教に抵触する論争を大きくしてもいいことはないと私も思う。ボリウッドでのリメイクも「興味はない」とだけ答えているのは賢い。

『Kantara』の内容は、「外」のボリウッド人が描けば、(アリ・アスター『ミッドサマー』やウェス・クレイヴン『ゾンビ伝説』等)アメリカでは定番の「田舎はやばいよ系のフォークホラー」のようなものになったと思う。しかしながら、現地の文化にルーツを持つ人が現代的な文法でその習俗を描き、新しい形の「夢」を作中に入れることで、同作はヒーロー物語として完成している。

実は最後『Kantara』が結んでいるのは、地元民とインド政府の役人の絆である。王の時代、それから、大地主様の時代が終わり、地元民が(もしくはその背後にいる神的存在が)次に契約する相手としてインド政府を選んだとも読める。ここが妙に現実くさくて面白い。映画の設定は1990年。過去として描き、副題は(これは誰かが指摘していた)「一つの伝説」だ。そんなこともあったかもしれないね、ということとして読ませている。

実は、『RRR』も「そんなことがあったかもしれないね」という気持ちを強くさせるように作られていると私は思う。本編が終わった後に、キャスト達による清々しいレビューが始まるわけだが、そこで、それまでの二時間半に観客が見た物語が入れ子になって、キャスト達が観客と近い目線でその物語を見つめ、過去の英雄たちを讃えている。

また、もう1篇今年大ヒットした映画の『KGF2』も、70年代から80年代という過去のインドを描いている。さらに、失敗作とされるアーミル・カーンの『Laal Singh Chaddha』も、インド国内に固有の問題が数多くあると語っているものの、メインはやはり過去の話だ。更に、アグニホトリ監督のヒット作『The Kashmir File』も過去の事件に関する映画。売春宿の女主人が国家的聖人の隊列に並ぶ『Gangubai Kathiawadi』もまた過去のボンベイが舞台である。これはどういうことなのだろう。

ざっと見る限り、未完了の現代の問題を見せる映画はヒットしないのだろうか。『バジュランギ』ははっきり現代を未完了体と仮定法で描いていた。モディ政権下のこの映画のトレンド(がもしあるとしての話だが)、つまり、過去しか描かない傾向にはどんな問題があるのだろうか。現在進行の問題として政治や社会を描くことは難しいのだろうか。

ちなみにタミル映画『カーラ』はインドの現在進行の問題を突きつけた相当強い作品になっていたはずであるが、それは、上記のタミル魂との関係においても検討したほうがいいのだろう。

ところで、私は、ラージャマウリ監督は、宗教的モチーフを多用しつつも、宗教そのものからは巧妙に距離を取っているし、饒舌なインタビューを読む限り、同作が国家主義の物語として読まれることも避けているようにも見える。

『RRR』でお目目うるうるのビームを演じたタラク主演のラージャマウリ監督作品『Yamadonga』(2007年)を遂に観たが、人間も神々も、正気の人が一人もいないという狂気のコメディー映画になっていた。これを順番的に最後に観てよかったなと思ったが、『Vikramarukudu』や『マッキー』『バーフバリ』二部作、そして『RRR』を観ると、彼が現実の政治や宗教現象から距離のある作家だというのが分かる。おやこれは現実風刺かな、と思わせておいて、沢山のモチーフで目くらましをする中でくるっと方向転換するうまさがある(と見ている)。そして、この憶測は、彼自身が今のインドの空気をどう捉えているのかを語りはしない。映画と同じで饒舌なわりに本心は見えない人である。

日本とインドの未来は?

一方、『RRR』の日本の反応から私が学んだことがある。それは、日本においても、国家主義と愛国心は必ずしもイコールではないということである。そして、「愛国精神」の部分はしっかり日本の観客に届いたものと思われる。それは、私や、上記の夏目さんにとってあらまほしき世界ではないのかもしれないが、この国際情勢の中で、日本とインドが共闘していくためのベースづくりの一環として、『RRR』のほぼ全面的な受容は画期的な事件となる…のだろうか。

インドにいると、インド人の方が、日本の国際政治的位置を強く感じ取っているとはっきり思う。その立役者は、嫌いかもしれないが、故安倍総理とモディ総理なのである。彼らのやって来たことを抜きには最近の、そして今からのインド・日本の関係は考えられない。そういう中に『RRR』のヒットを置くと、ラージャマウリ監督の意図はいざ知らず、そのタイミングのよさに驚かされる。また、同じ年に強いアメリカを象徴した映画『トップガン』続編が日本で公開され、これまた「映画らしい映画だ!」と受容されヒットした。どちらの作品からも逃れようのない「国家と国家」の風を感じてしまう。特に戦いの脈絡における男性同士の親密な関係が娯楽として受容されている点も注視したい。

無視したっていい風だ、そんなものは実在しない、私は関係ない、全面的に拒否するし、そんなことはネトウヨの出来損ないの言うことだ(というわけでまた投石ポイントだよッ)と言うかもしれない。でもインドの人は何と言うだろうか。皆の映画体験が今後何に連なっていくのかは全然分からない。しかし、少なくとも私は、日本の『永遠の0』と見比べてみようかなあという気持ちにはなった。少なくとも私は新しい世界を受け入れつつあるわけである。『RRR』現象を通じて。

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