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ホラー映画が近くを横切って飛び去った!(伏見憲明著『欲望問題』書評①)『RAW』

伏見憲明著『欲望問題』という本を十数年ぶりに読み返す機会があった(これに関してはとても恥ずかしい失敗をした…のはまたいつか)。筆者の伏見憲明さんにはかなりお世話になっている。2017年の春ごろ、私に、彼の経営する新宿二丁目のお店「A Day in the Life」のウェブマガジンで、パヨクな人が自分の思想を振り返るという形で映画評を書いてみないかと言ってくださったのだ。また、後には『キネマ旬報』で『ロケットマン』について書かせていただくチャンスをいただいた。

尚、『欲望問題』とホラー映画のことと自分の今の感想を書き始めたらめちゃくちゃ長くなってしまったので、3回に分けることにした。気が向いたらどうぞ。でもこれも長いわ…。

2018年、まだまだ書きたいパワーがさく裂している中で観たのが『RAW 少女のめざめ』だった。2018年に観たすべての映画の中で一番いいと思った作品だった。その時の感想文は以下。

「社会と個人の欲望の正面衝突」という問題を扱っていたこと、また、その問題に対して正解を与えず、最後にユーモラスさも滲ませて視聴者に向けて放り出した点がいいと思った。映画を観て観客席で震えているときに「『欲望問題』ってそういう本じゃなかったっけ…」とうっすら考えたが、いやいや、まだ私には扱えない魔術書だと思って、上記の映画評を書いたときは本書の名を出さなかった。要するに「火傷する」と思ってヒヨったんだな。

今回改めて同作の監督がどういう人なのかを少し探ってみた。ジュリア・デュクルノー監督は、上記インタビューで、「人は人肉食を人間のすることではないと区分したがるけれど、人肉食だって人間性(humanity)の一部のはず。それは我々の一部だ。人間と動物を分ける線が薄いのだというなら、人肉食の人とそうでない人の違いって一体何だろう」という疑問を口にしている。

でも、映画ではある種痛快ですらある「自分の意志とは関係なく湧いてくる欲望」が…フェミニズムやLGBT運動、環境問題等の「カウンターカルチャー」が想定しない方向に出て来たらどうだろう…例えば、主人公の少女の中で、年少者に向かう強い性欲がある日現れてきたらどうだろう。

『欲望問題』は、筆者が「未成年の男児に性的欲望を感じてしまう苦悩を持つ男性同性愛者」からの手紙に答えようとしたところから始まっている。筆者はこう言う。

このメールを読んでぼくはため息しか出ませんでした。彼の欲求をどうにもすることができない。どうしたって肯定することができない。彼は自分の欲望を実現することが犯罪になることもわかっているし、それが対象となる少年に深い傷を与えるかもしれないこともよく認識している。その上で、自分の抱えた苦痛をなんとか取り除けないものかと願っているのです。もはや心の叫びとでも言っていい彼の「痛み」が、行間からひしひしと伝わって来ました。

本書のこの部分は、昔読んだときと同じく、何かちくりと引っ掛かるものがある。

こうした嗜好、指向に対して、多くの人は「それはいけないことだ。そんなことをやったら犯罪者だ」と、簡単に自分と切り離して断罪するわけですが、ぼくにはそんな割り切りはできません。いったい自分と彼にどれほどの違いがあるというのだろうか、と考えてしまうからです。

欧米の人権思想では、ありとあらゆる大人の欲望が「個人主義と人権」の枠組みの中で合法化されてきた。かつては「倒錯」としてホラーと絡めて描かれた欲望(かつてのホラー映画で、吸血鬼がゲイっぽい化粧で描かれ必ず滅ぼされるのは偶然じゃないと思うし、一時期までの映画でサイコ殺人鬼がLGBのどれかだった場合は何の説明もされなかった)が、今では日の目を見て大手を振って歩いている。一方で、欧米の思想は、特定の欲望を満たす行動をするつもりならば社会から抹殺するという線引きを明確にした。小児性愛者はその抹殺される側に入っている。本書の言い方を真似るなら、社会正義は、排除を無くすためだけに存在するのではない。まあ、昨今の『ゼイリブ』っぽくなってきた世界を観れば明らかだが…(後述の予定)。

『RAW』は、フェミニズムとホラーという野心的なメッセージを持つ作品だし、監督の言うとおり、「テレビや映画が女の身体をどう扱ってきたか」に対する異議申し立て(性的な魅力満載のゲイの青年の身体が供物にされる)という点が重要な作品だと思う。監督の発言内容と不敵な様子は「既存の男中心社会への怒りの表明」がメインであって、同作は、魔女ホラー映画は女を罰する映画ではなく、フェミニズム映画にもなるんだと転換したことに価値があるのだ。そして、欧米諸国のホラー映画やドラマが今小児性愛者を「純粋なる悪」として描いている点から考えると、『RAW』は、「今タブーとなっている領域」に関しては全く何も言っていないような気さえしてくる。誰だって火傷はしたくないもん…。私はやだよw

ホラー映画とは、やっちゃいけない欲望を徹底してやってしまうから、社会のタブーや最果ての地を目指している…と期待する私がいるのだが、実は、過激と見えるホラー映画が、作り手の知性で避けている領域があるブラムハウスの「ソーシャルスリラー」が避けている領域は、皆うっすら分かっていると思う。

一方、筆者は自分の「居心地の悪さ」を見過ごせなかった。自分の倫理観とは対立しても、どうしても残る「違和感」に注目し、掘り下げていく。一人で進む道のりは険しく、「命がけで書いた」と筆者が言うとおり、読んでいてしんどい。自分の過去と向き合ってもいるから引用も長く、これがまた苦しい。書くときも、本を出した後も(多分今も)かなり苦しかったに違いない。思想も子供も、産み出す方は命がけ。なのに出て来たら大して褒められもしない…。

今読むと、『欲望問題』は、MeToo時代の女性からしたら反発を受けるだろうなと思う。「欲望?利害の調整?ふざけんな!トーンポリシングかよ!今すぐ私たち女に平等を寄越せ」。ネットフェミニズムは「広く社会と自分を俯瞰して見る」ということよりは、生贄を欲して怒っているという感じがする。その目から観れば、『RAW』のラストは痛快だし「そうあるべきだ、男どもよ!」と大きく首肯することだろう。だがそう観ると、我々は「カウンターカルチャー」に包摂された言わば「もうタブーじゃない正義」に着地していることになる。

そう考えると…『欲望問題』の「いったい自分と彼にどれほどの違いがあるというのだろうか」という言葉と、監督の言う「人肉食だって人間性(humanity)の一部のはず。それは我々の一部だ」は、同じことを指していると言っていいかどうか?

書き進めながら分からなくなり、鬱になり、数日書くのを放棄した。

考える程に、『RAW』と『欲望問題』は、高速で接近し、一瞬ニアミスをして再び離れていく周期性のすい星のようだ。空を見上げた私が、「あらホラー映画が欲望問題に接近しているわ!!」と勝手に慌てたに過ぎない。

でもきっとまたいつか、戻ってきて接近するタイミングもあるだろう。ホラーが「やっちゃいけないこと」を扱い続ける限り。

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