見出し画像

感動の取り扱いと解釈の必要性

感動した物語がすぐさま売り物のように扱われると、どこか裏切られたような気持ちになる。それが「死」を扱うなら尚のこと。

私たちは、売り物からたくさんの感動を受けている。何にどう感動しようと自由。泣くと分かっていて泣くことも、誰にも知られない涙も、どんな感受性でどう感動しても間違いはない。

けれど、それを左右する側はわきまえることがある。強い表現は受け手の感情に影響を及ぼす。やろうと思えば、いくらでも強く、いくらでも恣意的に脚色できる。そして、一定数の人をコントロールできてしまう。これはセンシティブな話だと思う。

僕個人は、人の感動を消費のエサにしたくない。映画や夢をもたらすテーマパークを否定するわけではないけど、どこかで一歩引いて捉えていたい。

今なら手元から気軽に、価格に見合った体験を買える。おもしろいものは、すぐ飲み込めて、親しみや信頼感を持てる。コントロールされることも、自分の本意に思えたりする。

そんな中にあって、自分が受け手にとって本当に大切に思うものであるほど、その解釈を受け手に委ねたい。マス目のように並んで、皆一様に拍手喝采する国民性ではない。グラデーションの中で、それぞれの解釈と結果的に一様でない感動を持てばいいと思う。

そこに、受け手がそのまま鵜呑みするような感動は要らない。受け売りの感動に解釈の余地はない。それそのものの良さ、既にあるものの大切さを尊び、そこに解釈の余地を与えたい。その人なりの感動の深さで捉えてほしい。

もちろん、表現をする以上、伝える側の意図が介在してしまうことにはなる。ただ一言、「え」という言葉を発したとしても、その状況によって、受け手の意味が大きく変わってしまう。それが「え!」なのか「え?」なのか「え・・・」なのか「え()」なのか、あるいはどんな「え」があるのか。

言葉(ナレーションやテロップ)の一切ないドキュメンタリー映像を撮っている監督がいる。これに意図がないかというと、わざわざその場所、時間で、被写体に対してフレームを見定め、時間を切り取る。それだけで、意図したものになる。

意図を自覚し、恣意的な表現を省き、そのままを見いだせる。映像だろうとポスターだろうとウェブサイトやアプリだろうと、単にメールの一文であろうと同じだ。解釈や感動は受け手に委ねられる。

そこで与えうる影響を考慮する。何をどの視座で受け手にどう伝えた結果、どうなるか。折しも、人の生き死にを「功績」とする言葉が聴こえ、自戒を促し、この乱文を後押しする。

世の中が不安定な局面にある。国際団体がクリエイターに情報発信を促しているが、正直なところ情緒に寄り過ぎて混乱しないか心配になる。表現する側もまたひとりの人間だから、感情に揺れるし、受け流される。鵜呑みにする。

少し息をはいて、自分にできることを知る。そして、誰かに伝えるときは、自らの表現と向き合って、その恣意性と解釈の余地について考えてみたい。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。